暖かな日差しの中で



   8 おままごと(2)


 それからしばらくして、おむつカバーから抜いた指を真澄に見せながら
「早苗ちゃん、おむつ濡れてないみたい。おねしょ大丈夫だよ、ママ」
と言う遥香だったが、その後、少し不満そうな口ぶりでこう付け加えた。
「あーあ、遥香、早苗ちゃんのおむつを取り替えるの、手伝ってあげたかったのにな。昨日は公園で何回も紙のおむつ汚したのに、早苗ちゃん、もう、おもらしもおねしょもしなくなっちゃったのかな」
(あ、当たり前よ。そんなにいつまでもあんなことが続いて堪るもんですか。一昨日や昨日の失敗は何かの間違いだったのよ。親元を離れて、慣れない街で、いつものジーンズじゃない短いスカートのせいで脚がすーすーして体が冷えて、それでしくじっちゃったに決まってる。でも、もうおしまい。二度と失敗なんて……)
 目が覚めた時におむつが濡れていなかったことに一縷の望みを得て、早苗は自分自身に言い聞かせるように胸の中で呟いた。
 だが、それが儚い虚勢に過ぎないことをじきに思い知らされる。
「ふぅん、おむつは濡れてないんだ。でも、ま、そうよね。遥香が遊びに来る三十分ほど前に取り替えてあげたばかりだもん、いくら早苗ちゃんでも、そうそう続けておねしょしちゃうわけないわよ」
 真澄が遥香に向かって、けれど明らかに早苗の反応を意識しつつ、冷酷な事実を告げた。
「なぁんだ、遥香が来るちょっと前におむつ取り替えてもらってたんだ、早苗ちゃん。だったら、まだ大丈夫だよね。でも、もうすぐしちゃうかな?」
 不満げな口調から一転、期待に瞳をらんらんと輝かせて遥香は聞き返した。
「そうね。もうすぐだと思うわよ。だって、ねんねの間にあんなにたくさんおむつを汚しちゃう早苗ちゃんだもん、あまり長いこと我慢が続くわけないわよ。――ほら、ベランダを見てごらん」
 真澄はそう言うと、早苗の口に乳首をふくませて床に座ったまま、体を捻ってガラス戸の方に向き直った。
 ガラス戸越しに見えるベランダに張り渡した物干しロープには、今朝早くから摩耶が洗濯したのだろう、ドレスエプロンや純白の子供用スリップ、ドロワースにソックスといった、昨日早苗が身に着けていた衣類が並んでいた。
 そして、ドロワースの横に掛けてあるパラソルハンガーには。
「あ、おむつだ。あんなにたくさんおむつが干してある!」
 そう、三つ並んでロープに掛かっているパラソルハンガーには所狭しと布おむつが干してあって、春先の穏やかな風に揺れていた。
「気持ちよさそうにねんねしてたから早苗ちゃんは気がついてないでしょうけど、ママ、夜中に何度もおむつが濡れてないかどうか確かめてあげたのよ。そしたら、確かめるたびにおむつはぐっしょりでね。だから、あんなにたくさんおむつの洗濯物ができちゃって。ほら、あのパラソルハンガーにかかってるおむつ、早苗ちゃんも憶えてるでしょう?」
 早苗がベランダの方を見やすいよう真澄は更に体の向きを変え、真ん中のパラソルハンガーを指差した。
 途端に早苗の頬がかっと熱くなる。
 パラソルハンガーには、動物柄やハート模様のおむつに混じって水玉模様の布おむつが十枚ほど干してあった。それは、確かに、昨夕『湯上がりの準備』といって脱衣場であてられたおむつだった。
「まんまを食べながらこっくりこっくりしちゃう早苗ちゃん、本当に赤ちゃんみたいで可愛かったわよ。それに、抱っこしてお部屋まで運んでお布団に入れてあげてすぐにおむつを汚しちゃうところも赤ちゃんみたいだったし。ううん、それだけじゃないわ。ママがおむつを取り替えてあげている間もすやすや気持ちよさそうにおねむなところも赤ちゃんそのまま。これじゃ、遥香お姉ちゃんが弥生ちゃんの代わりに早苗ちゃんを可愛がってあげたくなるのも当たり前ね」
 夕飯の途中に眠ってしまったのも、眠っている間に何度もおむつを汚してしまったのも、摩耶が食事に混入した睡眠導入剤と利尿剤のせいなのは言うまでもない。しかし真澄はそんなことはまるで知らぬかのように言って、早苗の頬を人差指の先で優しくつついた。
 早苗は再び瞼をぎゅっとつぶり、真澄の乳房に顔を埋めた。
 それは羞恥にまみれた顔をさらすまいとしてのことなのだが、しかし、傍目には、ぴんと勃った乳首を咥えたまま豊かな乳房に顔を擦り付ける行為はいかにも幼児めいた仕種にしか見えなかった。




「ね、遥香も早苗ちゃんにおっぱいあげたい。いいでしょ、ママ」
 明るい光が溢れるベランダでたくさんのおむつが風に揺れる様子をしばらく眺めていた遥香だったが、次々に興味の対象を変える幼児らしさを発揮して、突然、今度は早苗に対する授乳の真似事をさせてほしいと真澄にせがんだ。
「いいわよ。ちょうど、ママも遥香に頼もうかなって思っていたところなの。だって、いくら吸わせてあげても、ママのおっぱいからはお乳が出ないのよ。だから、このままだとまた早苗ちゃんがむずがるんじゃないかなと思って」
 真澄は、早苗の横顔を見おろして言った。
「おままごとのママだもん仕方ないよね。本当のママじゃないから、おっぱいからお乳なんて出ないよね。じゃ、遥香が代わってあげる。ママの代わりに今度は遥香が早苗ちゃんにおっぱいをあげるね」
 遥香は弾んだ声で言い、交換用のおむつを収納した大振りの脱衣籠の横に置いてある哺乳壜を両手でつかんだ。
 その間に真澄は早苗の頬を掌で包み込むようにして顔の向きを変えさせ、ブラジャーを元通りにしてトレーナーの乱れを整える。
「あのね、この哺乳壜ね、元は弥生ちゃんのなんだ」
 遥香は、手にした哺乳壜を早苗の顔の高さまで持ち上げて言った。
「お引っ越しする前の日も弥生ちゃんに哺乳壜でお乳を飲ませてあげたんだけど、もうお別れなんだって思って、お乳を飲ませてあげてる間に、遥香、寂しくて泣いちゃったの。そしたら、遥香が帰る時、弥生ちゃんのお母さん、『寂しくなったらこれを見て弥生の笑い顔を思い出してやってね。それで、いつか、これを持ってまた弥生におっぱいをあげに来てちょうだい』って言って、空になった哺乳壜を綺麗に洗って遥香にプレゼントしてくれたんだ。それからずっと、遥香、この哺乳壜を大事に持ってて、寝る時は枕の横に置いてるんだよ。そんなふうにしてたら、なんだか、いつも弥生ちゃんと一緒にいるような気持ちになるから」
 そこまで言ってから遥香は、はにかみの表情を浮かべて続けた。
「あのね、恥ずかしいけど、言っちゃうね。遥香、寝る時、時々この哺乳壜を吸ってたの。ううん、ほんとにミルクを飲むんじゃないよ。空の哺乳壜だよ。でも、空でも、哺乳壜を吸ってると、自分で吸ってるのに、なんだか、弥生ちゃんにお乳を飲ませてあげてるみたいな気持ちになって、それで、なんていうのかな、あのね、このへんがね、ぽわんって温かくなってくるんだ」
 少し照れくさそうにしながら遥香は「ぽわんと」と言って自分の胸の前で掌をぎゅっと握りしめた後、更に続けた。
「でも、もうやめる。遥香、もう、哺乳壜を吸わない。だって、今度はこの哺乳壜、早苗ちゃんにお乳を飲ませてあげるのに使うんだもん。弥生ちゃんの哺乳壜だけど、弥生ちゃんも葉月ちゃんも、きっと、早苗ちゃんに使ってもらってもいいよって言ってくれると思うんだ。だから、遥香、もう絶対に哺乳壜を吸ったりしない。遥香、早苗ちゃんのお世話をしてあげるお姉ちゃんだもん。――はい、早苗ちゃん、たくさん飲んでね」
 最後の方は眩しいくらいの笑顔になってそう言った遥香は、哺乳壜の乳首を早苗の口に押し当てた。
 しかし、もちろんのこと、早苗は唇を固く閉ざし、ゴムの乳首を咥えようとは絶対にしない。
 けれど、その抵抗も長くは続かなかった。
 真澄が
「さ、遥香お姉ちゃんにお乳を飲ませてもらおうね。ママのおっぱい、お乳が出なくて、早苗ちゃん、ご機嫌斜めなんだよね。でも、今度は遥香お姉ちゃんが哺乳壜でお乳を飲ませてくれるって。だから、ほら、そんなにむずがらないの」
とあやすように言ってから声をひそめ、
「早苗ちゃんが私のおっぱいを吸ってるところもちゃんと動画で残しておいたわよ。お腹が空いている筈なのにお乳を飲まないなんて病気かもしれないから、どうしたらいいか早苗ちゃんのお母さんとおばあちゃんに尋ねなきゃいけないものね」
と早苗の耳元に囁きかけると、今にも泣き出しそうに顔を歪め、しばらく迷った後おずおずと口を開いて哺乳壜の乳首を咥えるのだった。
「どうしたのかな、早苗ちゃん。なんだか、泣いちゃいそうな顔してるけど」
 ミルクが八分目ほど入った哺乳壜を両手で支え持って早苗の様子を窺う遥香が、心配そうに言った。
「大丈夫よ。さっきも言った通り、ママのおっぱいからお乳が出なくて拗ねてるだけだから。遥香お姉ちゃんに哺乳壜でお乳を飲ませてもらえばすぐご機嫌になるわよ」
 早苗が泣き出しそうな顔をしているのは自分のせいだが、そんなことはおくびにも出さずに真澄はしれっとした顔で言い、
「遥香ちゃんの好意を無駄にしちゃいけないから、みんな飲んじゃうのよ。全部飲んじゃうまで、抱っこしたままにしておくからね。――高校三年の早苗お姉ちゃんが中学二年の従妹に抱っこされて幼稚園の年長さんに哺乳壜でミルクを飲ませてもらうなんて恥ずかしいよね? 恥ずかしくて堪らないよね? でも、全部飲んじゃうまでは、この恥ずかしい恰好のままいるのよ」
と、哺乳壜の乳首を咥えはしたものの、なかなか吸おうとしない早苗に囁きかけた。
 早苗は、恨めしげな上目遣いで真澄の顔をちらと見た後、力なく目を伏せて、おずおずと唇を動かし始めた。

 しかし、躊躇いがちにちょっと吸ってはすぐに乳首から唇を離してしまうということを繰り返すものだから、哺乳壜の乳首から滴り出たミルクが唇の端から溢れ出し、顎先から首筋に滴り落ちて、パジャマの胸元に薄いシミをつくってしまう。
「あらあら、早苗ちゃんはまだ哺乳壜のお乳も上手に飲めない赤ちゃんだったのね。だったら、これ以上パジャマを汚しちゃわないよう、これを着けてあげなきゃね」
 真澄は早苗の口元と首筋をハンカチで拭きながら言うと、きちんとたたんでおむつと一緒に脱衣籠に収納してあった純白の生地をつかみ上げ、早苗の目の前でさっと広げた。
「あ、よだれかけだ。あ、そうだ、弥生ちゃんもおっぱいの時はよだれかけをしてたよ」
 真澄が広げた生地を好奇いっぱいの目でみつめながら遥香が嬌声をあげた。
 遥香が言う通り、真澄がバスケットからつかみ上げたのは、純白のガーゼ地を細かな飾りレースで縁取りし、ひよこのアップリケをあしらったよだれかけだった。
「いや! 赤ちゃんみたいによだれかけなんて、そんなのいや!」
 早苗は金切り声をあげて体をよじった。
 しかし、
「赤ちゃんみたいなんかじゃなくて、赤ちゃんなのよ,早苗ちゃんは。おねむの間に何度もおむつを汚しちゃうし、哺乳壜のお乳も上手に飲めない赤ちゃんなのよ。だから、よだれかけを着けなきゃいけないの。せっかくお母さんが、昨夜、ミトンを編んだ後、こういうのも有った方がいいかなって作ってくれたんだから、無駄にしちゃいけないしね」
と宥めすかして言う真澄に肩を押さえつけられると身動きが取れなくなってしまう。
「許して、お願いだから許して。上手に飲む。哺乳壜のお乳を上手に飲む。だから、よだれかけは許して!」
 早苗は激しく首を振って懇願した。
 しかし真澄は淡々とした口調で
「哺乳壜のお乳を上手に飲むから許して? そうね、小っちゃい子はお姉さんぶりたくてそういう言い方をすることが多いのよね。でも、もうおもらしなんてしないって言ってたくせにパンツを濡らしちゃったのは誰だったっけ。トイレへ連れて行ってあげたのに何度も紙おむつを汚しちゃったのは誰だったっけ。おねむの間におむつの洗濯物をたくさん増やしちゃったのは誰だったっけ。いいのよ、無理してお姉さんぶらなくても。早苗ちゃんは赤ちゃん。遥香お姉ちゃんにお世話をしてもらわなきゃ何もできない赤ちゃんなのよ。だから、少しの間だけおとなしくしていてね」
と言い聞かせながら、パジャマの胸元を摩耶お手製の大きなよだれかけで覆い、首筋の後ろと背中で留め紐をきゅっと結わえてしまう。
 このよだれかけもニットのミトンも摩耶の手作りだというのは本当だが、おままごとをしたいという遥香からの電話を受た後で作ったわけではなく、企みに用いる道具として前もって用意していたというのが本当のところだ。しかし、早苗が事実を知る術はない。
「はい、よく似合ってるわよ。これでパジャマを汚さずにすむわね。じゃ、遥香、残りのお乳を飲ませてあげて」
 真澄は留め紐の締まり具合を確認して言った。
「うん、わかった。はい、早苗ちゃん。残りのお乳よ。よだれかけも着けてもらったし、好きなだけ飲んでね」
 遥香は、早苗がよだれかけを着けられている間いったんおろしていた哺乳壜を再び持ち上げた。




 ゴムの乳首を吸う唇の動きが鈍くなったのは、哺乳壜のミルクが残り三分の一ほどになった頃だった。
「あれ? もうお腹いっぱいになっちゃったのかな、早苗ちゃん。でも、おかしいな。弥生ちゃんでも哺乳壜のお乳をみんな飲んじゃわないとお腹いっぱいにならないんだよ。なのに、弥生ちゃんより体の大きい早苗ちゃんがすぐお腹いっぱいになっちゃうなんて変だよね、ママ?」
 ミルクの減り具合が目に見えて遅くなったことに気づいた遥香は、早苗の顔と真澄の顔を交互に見比べて怪訝そうに言った。
「そうね、おかしいわね。じゃ、どうしたのか早苗ちゃんに訊いてみるから、お乳を飲ませるのをちょっとお休みしてちょうだい。――お口があまり動いてないけど、どうしちゃったのかな、早苗ちゃん。お腹はまだいっぱいになっていないんでしょ?」
 その理由が何なのか実は既に見当がついているのだが、そのことは秘密にして、真澄は、唇の動きが鈍くなった理由を早苗に尋ねた。
 けれど、おどおどした上目遣いでちらちらと真澄の顔を窺うばかりで、早苗からの返答はない。
「どうしたの? はっきり言わなきゃわからないじゃない」
 真澄は少しきつい口調で重ねて訊いた。
 それでも頑として何も答えようとしない早苗だったが、真澄が
「じゃ、仕方ないわね。早苗ちゃんのお母さんとおばあちゃんに、こんな時どうしたらいいか教えてもらわないと」
と聞こえよがしに呟きながらポケットから携帯電話を取り出した途端、諦めの表情を浮かべ、小さな声で言った。
「……お、おしっこなの……」
 真澄の思った通りだった。予期せぬ突然の尿意のせいで、哺乳壜の乳首を吸う唇の動きが鈍くなってしまったのだ。もちろん、この尿意も摩耶の企みによるものだ。夕食に混入した利尿剤の効き目は夜中に何度もおむつを汚しているうちに薄れていたが、哺乳壜のミルクに混入した即効性の利尿剤が新たな尿意を誘発したのだ。
 しかし、真澄は早苗の声が聞こえなかった振りをして、その恥ずかしい言葉をわざと繰り返させる。
「え? 何ですって? よく聞こえないわね。もっと大きな声で言ってちょうだい」
「おしっこ……おしっこなんだってば……」
 早苗は目を伏せ、さきほどよりも少しだけ大きな声で言った。
 けれど真澄は更に重ねて問い質す。
「そう、おしっこだったの。おしっこを教えられるなんて早苗ちゃんはお利口さんね。でも、おしっこって言うだけじゃわからないわね。おしっこが出ちゃったのか、それとも、おしっこが出ちゃいそうなのか、それもちゃんと教えてちょうだい」
「……出そうなの……出ちゃいそうなの。だから、トイレへ……」
 早苗は目を伏せたまま、よく注意していないと聞き逃してしまいそうな弱々しい声で言った。
「あ、出ちゃいそうだけど、まだ出ちゃってないんだ。おしっこをしたくなって、それで教えてくれたのね、早苗ちゃんは。出ちゃう前に教えられるなんて、本当にお利口さんだこと。うん、いい子いい子」
 真澄は早苗のことを大げさに褒めそやし、何度も頭を撫でた。
 そうしている間にも、利尿剤によって誘発された尿意は急激に強くなる。
「お、お願いだから、手を離して。……手を離して、トイレへ行かせて」
 早苗はおずおずと真澄の顔を見上げて訴えかけた。トイレの順番待ちが必要だった公園とは違い、階段をおりて一階の廊下を少し奥へ行けば、すぐトイレだ。今ならまだ間に合う。
「トイレへ……お願い、トイレへ……」
 早苗は繰り返し切々と訴えかけた。
 だが、それに対して真澄からは
「駄目よ。トイレは、お乳を全部飲んでからじゃないと駄目。おしっこが出ちゃいそうなのを教えてくれた早苗ちゃんはお利口さんよ。でも、おっぱいの途中でトイレだなんて、お行儀が悪いよね? お利口さんの早苗ちゃんだったら、そんなお行儀の悪いことをしちゃ駄目だってことくらいわかるよね? だから、トイレはお乳を飲んじゃってからにしようね」
と、口調こそ優しいが、にべもない返答しか戻ってこなかった。
「そ、そんな、お願いだから、トイ……」
 尚も訴えかける早苗だったが、真澄の指示に従って遥香が再び哺乳壜を口にふくませたものだから、乳首に舌を押さえつけられて、懇願する言葉を途中で遮られてしまう。
「あまりむずがっちゃ駄目よ。早苗ちゃんはママやお姉ちゃんの言うことをちゃんときくお利口さんさんなんだから。ほら、いい子いい子」
 遥香はあやすように言って、今度は、頭を撫でる代わりに早苗のお腹を優しく何度もぽんぽんと叩いた。
「ぐ……むぐぅ……」
 早苗は、哺乳壜の乳首を咥えさせられているせいでちゃんと言葉にならない呻き声をあげ、幼児がいやいやをするように激しく首を振った。
(やだ! お腹を叩いたりしちゃやだ! ただでさえおしっこが出ちゃいそうなのに、そんなことされたら……)
 早苗が胸の中であげる悲鳴が聞こえるような気がして、真澄の下腹部が妖しくじんじん疼く。

 早苗が絶望的な表情を浮かべ、口にふくまされた乳首をぎゅっと噛んだのは、その直後のことだった。
 何が起きたのか瞬時に理解した真澄は、右手を早苗の両脚の腿の間に這わせ、おむつカバーの股間よりも少しお尻寄りのあたりに掌を添えた。
 溢れ出たおしっこがおむつに吸い取られてお尻のまわりにじわじわ広がってゆく様子が、おむつカバーの生地越しにはっきり感じられる。
「おしっこ、出ちゃったのね。困った子だこと。おっぱいの途中におもらししちゃうなんて、本当にお行儀の悪い困った子だこと」
 真澄は、掌に伝わる生温かい感触に妙な昂ぶりを覚えつつ、ねっとり絡みつくような声で言った。口では『困った子』と言いつつも、困った様子はまるで見えない。
「仕方ないよ、ママ。だって、早苗ちゃんは赤ちゃんなんだよ。赤ちゃんは、おっぱいの途中でおむつを汚しちゃうんだよ。だって、弥生ちゃんもそうだったもん。だから、叱らないで。遥香の妹の早苗ちゃんを叱らないであげて」
 昨日公園で奈美恵と早苗との間に割って入った時と同様これ以上はないくらい真剣な表情で遥香が言った。その表情からは、『おままごと』や『ごっこ遊び』の範疇に収まりきらなくなってゆきそうな遥香の本気が見て取れるようだ。
「そうね、早苗ちゃんは赤ちゃんだもん、お乳を飲ませてもらいながらおもらししちゃうのも仕方ないわよね。お行儀がいいとか悪いとかは、もっとお姉さんにならないとわからないことね。うん、わかった。おっぱいの最中におもらししちゃったけど、ママ、早苗ちゃんのこと叱らない。そのためのおむつだもん、おむつが濡れちゃうのも仕方ないよね」
 遥香が早苗のことを本気で幼い妹扱いしている様子に胸の中で会心の笑みを浮かべながら、努めて穏やかな声で真澄は言った。
「よかったね、早苗ちゃん。ママ、早苗ちゃんのこと叱らないって。おっぱいの途中でおもらししちゃったけど、赤ちゃんだから仕方ないって。お乳を飲みながらおむつを汚しちゃったけど、赤ちゃんだから当たり前だって。早苗ちゃんはまだ何もわからない赤ちゃんだから、ママ、叱らないって。――お姉ちゃん、ずっとずっと早苗ちゃんのこと守ってあげる。ママに叱られそうになったり、苛めっ子に泣かされそうになったりしても、絶対にお姉ちゃんが守ってあげる。お姉ちゃんが哺乳壜でお乳を飲ませてあげなくちゃいけなくて、哺乳壜のお乳を飲みながらおむつを汚しちゃう赤ちゃんの早苗ちゃんのこと、絶対に守ってあげるからね」
 早苗に弥生の面影を重ねているのだろう、遥香は声を弾ませて言った。そうして、哺乳壜の乳首を口に含んだまま激しく首を振ったり、哺乳壜の乳首をぎゅっと噛んだりしたせいで溢れ出たミルクが早苗の口元や首筋を濡らしていることに気がつくと、
「お口のまわりがお乳でべとべとだよ、早苗ちゃん。早苗ちゃんはまだお乳の飲み方も上手じゃないのかな。でも、大丈夫だよ。一人で上手に飲めるようになるまで、お姉ちゃんが飲ませてあげるからね。はい、綺麗綺麗してあげる」
と言いながら、弥生に対してもいつもそうしてやっているのか慣れた手つきでよだれかけの端を早苗の口元に押し当て、ミルクの雫を優しく拭い取った。

 そうしている間にも、おむつカバーの内側はじわじわ濡れてゆく。吸い取ったおしっこをゼリー状に固めてくれる紙おむつとは異なり、布おむつは、おしっこを吸えば吸うほど濡れた部分が広がり、自分が恥ずかしい粗相をしでかしてしまったことを残酷なほどあからさまに早苗に伝える。
「う……うわ、うわ〜ん」
 よだれかけの端で口元のミルクを拭いてもらいながら、早苗は大声をあげて泣き始めた。
 トイレを待つ列に並ぶのが必要な公園ではなく、いつでもトイレへ行ける家の中だ。それなのに、トイレへ行くこともかなわずおむつを濡らしてしまった羞恥。それも、小さい頃はあれほど自分になついてくれた年下の従妹である真澄に抱っこされ、真澄のお下がりのおむつを汚してしまった屈辱。それに加えて、一回りも年下の幼稚園児である遥香の手で哺乳壜のミルクを飲まされている最中の粗相と、しくじってしまったことを遥香に慰められる惨めさ。
「ううう……うわ〜ん、うわ〜ん」
 授乳の最中におむつを濡らしてしまい、胸元を覆うよだれかけの端で口元のミルクを拭われ、おむつカバーが半分ほどしか隠れないような短い丈の丸っこいシルエットのベビー服じみたパジャマを着せられ、手放しで泣きじゃくる早苗は、まさしく、ぐっしょり濡れたおむつに包まれたお尻の不快さを泣いて伝えるしかできない赤ん坊そのままだった。




 敷布団に重ねて敷いたおねしょシーツの上に寝かされた後も、早苗が泣きやむ気配はなかった。
 そこへ、すっとドアが開いて摩耶が姿を現す。
「あ、お帰りなさい、おばあちゃん」
 摩耶の姿を目にするなり、遥香がにこにこ笑って言った。
「え? おばあちゃんって誰のこと?」
 摩耶は一瞬きょとんとした顔になったが、じきに
「ああ、そうだった、おままごとをしているんだったわね。遥香ちゃんのママ役が真澄で、私は真澄のお母さんだから、遥香ちゃんから見ればあばあちゃんってことになるわけね。この年でおばあちゃんはどうかと思うけど、ま、いいわ。――はい、ただいま、遥香ちゃん。おばあちゃんがお出かけしている間、いい子にしていたかな?」
と、おどけた様子で応じた。
「うん、遥香、いい子にしてたよ」
 遥香は軽く胸を張って答えたが、すぐに布団の上で泣きじゃくる早苗の方に目をやり、少し困ったような顔をして言った。
「あのね、早苗ちゃんもいい子にしてたんだよ。遥香が哺乳壜でお乳を飲ませてあげた時も、とってもいい子でおいしそうに飲んでたんだよ。でも、おっぱいの途中でおむつを汚しちゃって、それで、お尻が気持悪くて泣いてるの。でも、早苗ちゃんのこと叱らないでね。遥香、ママにも、早苗ちゃんを叱らないでってお願いしたの。そしたらママ、早苗ちゃんは赤ちゃんでおむつを汚しちゃうのは仕方ないから叱らないよって。だから、おばあちゃんも叱らないであげて」
「そう、それで泣いちゃってるんだ、早苗ちゃん。遥香ちゃんのお母さんと一緒にフリーマーケットの会場へ行って一廻りして帰ってきたんだけど、玄関のドアを開けた途端大きな泣き声が聞こえたからどうしたのかと思って慌てて二階へ来てみたんだけど、そういうことだったのね。――いいわ、おばあちゃんも早苗ちゃんのこと叱ったりしないわよ。真澄ママの言う通り、おむつ離れできない赤ちゃんがおもらししちゃうのは仕方のないことなんだから」
 遥香の説明に摩耶は納得顔になり、手に提げていた大きな袋を床に置くと、右手を袋に突っ込んで意味ありげに言った。
「でも、ちょうどよかったわ。フリーマーケットでこんなのをみつけたから買ってきたのよ。これなら早苗ちゃんを泣きやませられるかもしれないわね」
「何を買ってきたの、おばあちゃん?」
 遥香の母親である奈美恵は、遥香を河野家へ送り届けた後、隣家の奥さんが出している店を手伝うため公園へ向かったのだが、その時、いろいろ話したいこともあるからといって摩耶も同行していた。その後、奈美恵と別れた摩耶はフリーマーケットの会場を見てまわり、何やら買い求めて帰宅したらしいのだが、『早苗ちゃんを泣きやませられる』物というのが何なのか興味津々といった様子で、遥香は摩耶の手元を覗き込んだ。
「これよ。ほら、これなら早苗ちゃんをあやすのに役に立つんじゃないかしら」
 摩耶は、袋から取り出したプラスチック製の玩具を遥香の目の前に差し出した。
「あ、サークルメリーだ。うん、これだったら、早苗ちゃん、泣きやむと思うよ。弥生ちゃんもぐずることがあったけど、皐月ちゃんがサークルメリーを鳴らしてあげたらご機嫌が直って嬉しそうに笑ってたもん」
 遥香の言う通り、摩耶が袋から取り出したのは、天井に吊ってかろやかな音色を奏でるサークルメリーという玩具だった。だが、摩耶がフリーマーケットで買い求めたのはこれだけではなかった。
「子供が大きくなって要らなくなった育児用品を共同で出品しているお母さんたちのグループがあったのよ。そこでいろいろ品定めしてね、ほら、こんなのや、こんなのも買ってきたのよ」
 摩耶はサークルメリーに続いて、プラスチック製のガラガラや柔らかそうな布製のボール、ふわふわした素材でできたヌイグルミといった幼児向けの玩具を袋から次々に取り出し、早苗の枕元に並べた。
「遥香、これで早苗ちゃんをあやしてあげる。弥生ちゃん、サークルメリーも好きだけど、ガラガラも大好きなんだよ。だから、早苗ちゃんも大好きだと思うんだ」
 摩耶が並べた玩具の中から遥香はガラガラを選んで右手に持つと、早苗のそばに膝をついて座り、顔のすぐ上で振った。
 からからころころ。からからころころ。
 かろやかな音色が鳴り渡る中、摩耶はサークルメリーを持って立ち上がった。
 そこへ、真澄が部屋の隅から椅子を運んでくる。
 この部屋にも勉強用の机や椅子、本棚といった調度品が一通りは揃っている。しかし、そういった調度品が本来の場所に並んでいたのは、二年間世話になる挨拶のために麻美が早苗を連れて河野家を訪れた際、ここを使ってもらうつもりなのよと言って摩耶が二人を部屋に案内した時の一度きりで、挨拶を終えて麻美と早苗が帰路についた途端、机も椅子も本棚も摩耶の手で部屋の片隅に片付けられ、それ以後は折りたたみ式のパーティションの奥に隠されたままになっている。更に摩耶は、壁紙を貼り替え、カーテンも落ち着いた色合いのものからカラフルな色合いのものに替え、窓ガラスにアニメキャラクターのシールを貼るなどして、部屋をすっかり幼い子供向けの内装に模様替えした上で、何も知らぬ早苗を迎え入れたのだった。
 真澄が運んできたのは、隠されたままになっている学習机と対になった椅子だった。しかし、その椅子は、本来の目的に供されることなく、摩耶がサークルメリーを天井に吊る際の足場として使われた後、再びさっさとパーティションの奥にしまい込まれてしまった。
(早苗ちゃんがあの椅子に座ることはもうないわね。だって、早苗ちゃんが勉強机に向かうことは二度とないんだから。それに、本棚に高校の教科書を並べることも)
 椅子を再び部屋の隅へ運んでゆく真澄の後ろ姿を眺めながら摩耶は心の中で満足げに呟き、サークルメリーのスイッチになっている紐を引いた。
 リズミカルな電子音を奏でながらサークルメリーが回り始め、カラフルな飾り付けが輪になって踊り出す。
 ガラガラのかろやかな音色と、サークルメリーのリズミカルなメロディと、そして、まだ泣きじゃくる早苗の泣き声が三重奏になって部屋の空気を震わせる中、摩耶と真澄はそっと目配せを交わし合った。



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