暖かな日差しの中で



  12 特別入園許可


 列車をおり、覚束ない足取り(というよりも、よちよち歩きと表現した方が正確だろうか)で早苗が自動改札機を通り抜けようとすると、子供用の切符が投入されたことを示すランプが点灯して、不正乗降をチェックしている駅員が視線をこちらに向けた。
 一瞬、はっとして身をすくめる早苗だったが、乗車駅でもそうだったように、駅員は何事もなかったかのごとく他の自動改札機に目を向け直した。
 高校生でありながら(摩耶から強引に手渡された)子供用の切符で列車に乗った不正を咎められるのではないかという怯えを抱いた早苗だったが、そうはならずに済んだことに思わず安堵の溜息を漏らしてしまう。
 けれど、こちらを向いた駅員が自分のことを子供と信じてまるで疑っていないことがありありの様子に、安堵と共に、それに倍する屈辱の念を覚えずにいられないのも事実だった。

「ここまで来たらもう約束の時間に遅れる心配はないから、あんよのお稽古を兼ねてのんびり歩いて行こうね」
 先に改札口を出て待っていた真澄が、自動改札機を通り抜けた早苗の手を握り、ゆったりした足取りで歩き出した。
「え!? そっちじゃないよ、高校は、改札口を出て右へ行くんだよ。違うよ、右だってば」
 摩耶と真澄が揃って左方向に歩き出したことに気づいた早苗は、真澄の手を何度も引っ張った。
 けれど摩耶も真澄も早苗の訴えなどまるでとりあおうともせず、左へ歩いて行く。
 用地取得の都合なのか教育環境に配慮してのことなのか詳しい事情はつまびらかでないが、S女子大の附属学校は二箇所の敷地に分かれて建立されている。一箇所は最寄り駅の改札口を出て左方向に十五分ほど歩いた所で、そちらには附属幼稚園と附属小学校が建ち、もう一箇所は改札口を出て右方向に二十分ほど歩いた場所で、こちらには附属中学校と附属高校がある。
「二人とも間違ってるよ。そっちは幼稚園と小学校で、中学と高校は反対側なんだから、ほら、戻ってよ」
 引きずられるようにしながら、早苗はもういちど真澄の手を引っ張った。
 それでも二人はまるで歩みを緩めようとしない。それどころか、真澄が早苗の顔をちらと見おろして
「いいのよ、こっちで。お母さんもお姉ちゃんも間違ってなんてないから、心配しないでついてらっしゃい」
と決めつけ、正面を向いて真っ直ぐ歩いて行くのだった。




「ほら、これなら、早苗ちゃんの恰好を見て笑う人なんて一人もいないでしょ?」
 正門を入ってすぐの所にある総合受付で来意を告げ、来客用の入門証を受け取った摩耶は、慣れた様子で通路を歩きながら早苗に言った。
 休日でも部活動にいそしむ生徒の姿があちらこちらに見受けられる中学校や高校と違って、春休み中の幼稚園と小学校は閑散としている。外出前に摩耶が口にした、幼児めいた早苗の姿を見て笑う者など皆無だという言葉は、なるほど、間違ってはいなかった。間違ってはいなかったけれど……。
 早苗は力なく首を振った。
「ほらほら、なんて顔してるのよ、早苗ちゃんたら。いつもの可愛いお顔はどうしちゃったの?」
 満面に困惑の表情をたたえる早苗の顔を見おろし、なんともいいようのない笑みを浮かべて真澄が声をかけた。
 だが、早苗は押し黙ったままだ。
 新しい制服を受け取るために高校へ行くつもりで出かけたのに、気がつけば幼稚園の園舎へ連れて行かれようとしているのだから、どう応じていいのかわかるわけがない。




「お待ちしていました。さ、どうぞ。お母様とは何度もお顔を合わせていますが、お嬢さんたちとは初めてですね。園長の高畑です、よろしく」
 摩耶たちを園長室に招き入れた高畑佳子は柔和な表情でそう挨拶して三人にソファを勧め、自分も向かい側のソファに腰をおろした。
 お母様とは何度もお顔を合わせています――佳子が口にしたその言葉に、早苗はなぜとはなしに嫌な予感を覚えてならなかった。
「初めまして。私、河野真澄です」
 早苗の胸の内など知らぬげに、真澄がはきはきした声で挨拶を返す。
「あなたが真澄さんですか。伺っていますよ。バレーボールでは誰にも負けない、お母様ご自慢のお嬢さんだそうですね」
 佳子はにこやかな表情で頷いた後、早苗の顔に視線を転じ、いかにも幼稚園の園長らしい穏やかな笑みを浮かべて話しかけた。
「それで、あなたが早苗さんですね。うふふ、早苗さんのこともお母様から聞いていますよ。お姉ちゃまにべったりの甘えん坊さんだそうですね」
 けれど、早苗は言葉を発することができない。自分が今どんな状況に置かれているのかまるで見当もつかず、早苗は身を固くするばかりだった。
 すると佳子は、穏やかな笑みはそのまま、妙に冷徹な光を瞳に宿して言った。
「もっとも、本当のところ、真澄さんは早苗さんのお姉ちゃまなんかじゃありませんよね。だって、真澄さんは中学二年生で、早苗さんは高校三年生。年回りで言えば、早苗さんの方がお姉ちゃまの筈なんですから」
 佳子はそこまで言って少し間を置き、困惑の表情を浮かべたままの早苗の顔を正面から見据えて続けた。
「でも、もう早苗さんは高校生なんかじゃないんですよ。今日から早苗さんには幼稚園児になっていただくんですから。高校生の早苗さんじゃなく、可愛い幼稚園児の早苗ちゃんに」
「……?」
 早苗はますます困惑の度合いを強くし、摩耶の横顔をおずおず見上げた。
「園長先生のおっしゃる通りよ。一昨日、幼稚園への入園を特別に許可していただいたの」
 摩耶は首を巡らせて早苗の方に振り向き、こともなげに言った。
「これは、高校の校長とも協議した上で理事会に諮り、理事長の決済をいただいた正式な決定事項です。一昨日お母様に連絡を差し上げたましたが、その日のうちに高校から幼稚園への転籍手続きも済ませて、あとは三日後の入園式を待つだけになっています」
 にこやかな表情ながら、どこか重々しい口調で佳子が告げた。
「ど、どうして!? どうして私が幼稚園に入らなきゃいけないんですか!? 私、新学期になったら高三なんですよ。幼稚園なんて、十年以上も前に卒園しているんです。それも、この附属幼稚園を。なのに、どうして!」
 それまで呆然としていた早苗が大きく目を見開き、悲鳴じみた声をあげた。
「高校の校長とも協議した結果、早苗さんが高校の授業についていくのが難しいだろうと判断したからです。更に言うなら、早苗さんが高校の授業についていけないだけならともかく、早苗さんのせいで授業がたびたび中断して他の生徒に迷惑が及ぶ恐れがあると判断したからです」
 にこやかな表情に似合わぬ冷厳な口調で佳子は応じた。
「私が高校の授業についていけない? 私のせいで授業が中断する恐れがある? ……どういうことなんですか、それは!? 私、成績はいい方だと自分では思っています。なのに……」
 早苗は頬を紅潮させて聞き返した。
「ええ、成績は全て確認しました。高校だけでなく、小学校時代の成績も中学校時代の成績も。成績は申し分ありません。早苗さんの成績はトップクラスだと言っていいでしょう。それに、運動能力も問題ありません。同じ年代の生徒と比べて少し小柄だというハンデを考え合わせると、優秀な方です」
 佳子は早苗の瞳を覗き込むようにして言った。
「だったら、どうして!?」
 早苗は金切り声で叫んだ。
「理由は、成績でも運動能力でもありません。問題になったのは、生活能力および心理的な要因に関してです」
 佳子は微かに首をかしげて言った。
「生活能力? それに、精神的な要因? 何のことなんですか、それって!?」
 早苗は苛立ちをあらわにして問い返した。
「一週間ほど前、相談がお有りだということで、お母様が高校にみえられました。校長から聞いた話だと、相談は、ご両親と離れて暮らし始めた早苗さんが精神的な変調をきたし、夜尿や失禁を繰り返すようになって普段の生活にも困っているという内容でした。――心当たりはありますね?」
 念を押されて、早苗は力なく頷いた。摩耶が仕組んだおねしょとおもらしだが、本当のことを知らない早苗には頷くしかなかった。
「お母様は相談の際、お医者様の診断書をお持ちでした。診断書には、ご両親と離れ離れになった早苗さんが寂寥感に耐えきれなくなって周囲の人たちに対して過度の依存心を発露するようになり、その結果、無意識の夜尿や失禁を伴う精神退行状態に陥っていると推測されるというお医者様の所見が書いてありました。簡単に言うと、寂しさのあまり早苗さんは、まわりの人たちに甘えたくて、知らず知らずのうちに、小さな子供のようにおねしょやおもらしを繰り返すようになってしまったのだろうということです」
 そこまで言って佳子はいったん口を閉ざした。
「そんな、診断書だなんて……私、お医者様に診てもらったことなんて一度もないのに」
「いいえ、早苗ちゃんはお医者様に何度か診てもらっているのよ、自分の知らないうちに。診断書を書いてくださったお医者様は私が現役の選手だった時にいろいろお世話になった方で、薬剤関係に造詣が深い上、心理学にも長けていて、スランプになった時よく助けていただいたの。それで、早苗ちゃんのおもらしとおねしょが始まってすぐ、その先生にお願いして、早苗ちゃんを診てもらうために、うちに何度か来ていただいたのよ。ただ、そのことを早苗ちゃんが知らないのも無理はないわね。深層心理を探る必要があるとかで、早苗ちゃんがぐっすり眠っている間に脳波を調べたり、いろいろ検査なさったりしていたから」
 わけがわからないというふうにかぶりを振る早苗に向かって、教え諭すような口調で摩耶が説明した。
 しかし、摩耶の説明が全て本当のことだというわけでは決してない――。

 摩耶が現役のバレーボール選手だった時、なにかと世話になった医者がいたことは事実だ。しかし、その医者は、医師免許こそ有しているものの、チームや連盟が公認したスポーツドクターなどではなかった。むしろ、よからぬ噂が絶えず、できるだけ接近せぬようチームの上層部から注意を促されていた、いわくつきの医者だった。
 スポーツ選手なら、どんなに優秀なプレイヤーでも、或る程度の周期でスランプに陥ることは避けられない。その医者は、スランプに陥った選手を目敏くみつけ、何食わぬ顔で接近しては、自分が手配する薬剤を服用するよう勧めていた。
 医者は、各々の選手の種目や体質、スランプの度合いなどに応じて様々な種類の薬剤を手配していたが、実を言うと、そのどれもが、非合法すれすれの、いささかリスクが伴う物ばかりだった。日々、ドーピング検査の精度は上がり、服用を禁止される薬剤の種類は増加を続けている。しかし、その一方で、検査に引っかからない上に効能を高めた筋肉増強剤や疲労回復剤などが新たに創り出されており、検査や規制と新薬開発のいたちごっこが続いているのが現状だ。その医者は自分の豊かな知識を零細の製薬会社に提供してドーピング規制すれすれの薬剤を開発させ、それをスランプに陥ったスポーツ選手に売りつけることを生業にしていた。
 その医者が手配する薬剤の中には、筋肉強化剤などのように直接的に肉体に作用する薬剤だけでなく、精神集中やイメージトレーニングの際に絶大な効能を発揮する向精神薬の類も含まれていたが、実のところそれらは新種のドラッグだった。そして、法律の改正によってそのドラッグの売買が禁止される前に売り抜け、更にまた新しいドラッグを入手するということを重ねて、脱法ではあるが違法ではないという、法の網をぎりぎりのところでかいくぐることを繰り返していたのだ。
 摩耶も現役の選手時代、ひどいスランプに陥った時に言葉巧みに接近してきたその医者から違法すれすれの疲労回復剤と向精神薬の服用を勧められ、決して安価ではないそれらの薬剤を買い求めたことがあって、それをきっかけに始まった二人のひそやかな接触は結局、摩耶が現役を退くまで続くことになった。
 そして、早苗を自分の手中におさめることを思いつくと同時に、摩耶は、現役を退いた後は疎遠にしていた医者との接触を再び始めたのだった。
 その目的は二つ。
 一つめの目的は、早苗を生きたミルク飲み人形に仕立てるための様々な薬剤を入手するところにあった。現在、町の薬局で自由に購入できる薬品の種類は一昔前に比べてずっと少なくなっている。睡眠導入剤や或る程度以上の効き目がある利尿剤などは、体への負担が重いため、医師の処方箋がなければ買い求めることができない。それらの薬剤を思うまま手に入れるのが一つめの目的だった(しかもその医者は、服用した後どのくらいの時間で効果があらわれるのかとか、効き目にどの程度の持続時間があるのかとかいった細かい指定に応じた薬剤を手配してくれるのだから便利なことこのうえなかった)。
 そして二つめの目的は、思い通りの診断書を作成させるところにあった。違法すれすれの行為を繰り返してはいるものの、ぎりぎりのところで医師法違反に問われることは免れているため、その医者は正規の医師免許を有しており、その医者が所見を記入して署名・捺印した書類は、当然、正式な診断書として扱われることになる。その所見欄に、自分の思う通りの文章を記入させることが二つめの目的だった(だから、実は、医者を自宅に招いて早苗を診察させる必要などありはしない。眠っている間に医者が脳波を取ったり検査をしたりしていたという摩耶の説明は、早苗に偽りの説明を信じ込ませるためのでまかせに過ぎなかった)。
 医者への報酬は決して安いものではなかった。しかし、バレーボール連盟の理事に名を連ねている夫の収入は充分あり、しかも、摩耶のことを疎ましく感じて出張を口実になかなか家に戻らない夫だから、家計から少なからぬ臨時の出費があったとしても、そのことに気づくことはない。医者への報酬の支払いなど、摩耶にとって雑作もないことだった。

 ――そのようにして作成したまやかしの診断書を携えて附属高校を訪れた摩耶は、校長に向かってわざと沈痛な面持ちで窮状を訴えかけると同時に、たび重なる失禁のせいで授業を中断させて他の生徒に迷惑をかけるのは忍びないからこのまま高校に通わせていいものか悩んでいると早苗の退学を暗に仄めかすこともした。
 そうして、そんな摩耶に対して校長がいかにも気遣わしげに
「そうはおっしゃっても、学業全般に優秀な島田さんがそんな理由で学校を退学してしまわれるのは不憫でなりません。退学などという最悪の選択は念頭に置かず、少しでも島田さんのためになる策を考えましょう」
と言って教頭を呼び神妙な顔つきで相談を重ねる様子に、事がうまく運びそうだと確信し、真意を気取られぬよう細心の注意を払って計画を押し進めたのだった。
 そうやって着々と計画を進める中で、摩耶は奈美恵を利用することも忘れなかった。
 奈美恵は附属幼稚園でPTAの副会長を務めており、遥香が年長クラスに上がる四月からは会長になることが内々に決まっていて、春休みの間も足繁く幼稚園を訪れ、他のPTA役員や園長・副園長と共に、新年度の行事予定の確認や、年長クラスのどの園児と新入園児のどの園児とをシスターペアとして組み合わせればいいかを決める作業などにあたっていた。摩耶は奈美恵の伝手を頼ってそういった会合に頻繁に顔を出し、偽りの診断書をさりげなく示しつつ、
「体は大きいけど、幼稚園の年少さんみたいになっちゃって困っているんですよ」
と早苗の精神退行ぶりを虚実取り混ぜてその場に居合わせた母親たちや教職員に吹聴して、同情をひくよう努めた。
 そんなことを繰り返しているうちに、人の感情を巧みに操ることに長けている摩耶にそれとなく誘導されるまま、更にまた、同じことの繰り返しでしかない日常生活を疎んで何か突拍子もなく面白いことが起きやしないかと思い耽る好奇の念に誘われるまま、PTAの役員たちから
「難しいことかもしれないけど、同じ大学の附属なんだから、精神退行が癒えるまでの間、高校を休学させて、臨時的に早苗さんを幼稚園で預かることはできないかしら」
という声があがり始め、その声が高校の校長や幼稚園の園長の耳にも届くようになって、いよいよ機は熟し、遂には早苗の学籍を緊急避難的に高校から幼稚園へ移すことを認める理事会の特別決定が下されたのだ。
 但し、その措置が、早苗の身の上を慮ってのことだとばかり断言するのは事実と異なる。理事会が決定を下したのは、そうすることがS女子大と附属学校の側にも充分なメリットがあると判断しての結果でもあった。
 とどまるところを知らない少子化傾向の影響で、一部の有名どころを除いては、どの大学も志願者を集めるのに躍起にならざるを得ず、学生を早い時期から囲い込むことを目的に附属学校の拡充に努めているのが現状だ。その中でも、S女子大は、かねてから教育界に営々と幅広い人脈を築いてきた実績があり、また、著名な心理学者を輩出してきたという特色を有していて、その二点を前面に押し出すことで生徒・学生を集めるという戦略を打ち立てていた。
 例えば大学の教育学部なら、幼稚園から高校まで揃った附属校での密度の濃い教育実習が可能になる上、資格を取得した後の就職に際してはその幅広い人脈が有利に作用するといった謳い文句で魅力をアピールするといった具合だし、また、幼稚園なら、家庭で済ませるべき基本的な躾を保護者に代わって園が行うことをアピールする目的で、本来なら午前中しか園児を預からないことになっている幼稚園としては珍しく、将来的な幼稚園と保育所との統合も視野に入れて午後も子供を預かることにしており、更に、たとえば、子供のおむつ離れが遅いことに悩んでいる母親をサポートするために、大学で幼児発達学や児童心理を研究している専門家の助力を得て、園児のおむつ離れを着実に進めるための援助を行ったりもして、子供だけでなく保護者へのケアも充実していることを魅力の一つに掲げるという具合だった。
 ただ、そのようなケアを確実に行うためには、様々な事例を研究することが不可欠だ。特に、例外的な事例こそ、その対象への研究を深化し、その背景に垣間見える本質を捉えることで、研究結果を却って一般化することができる。けれど、例外的な研究対象というものがそこいらに転がっているわけがない。そういう意味で、高校生でありながらおむつが手放せないほどの精神退行の只中にあるという早苗は、極めて例外的な、心理学を専門とする者にとっては滅多にない貴重な研究素材に他ならなかった。
 理事会が早苗の入園を特別に許可したのは、早苗の行動を詳しく探ることで発達心理学における新たな知見が得られることを期待した結果でもあった。
 そういった経緯を辿り、S女子大グループを運営する学校法人と摩耶の利害とが図らずも一致したこともあって、高校生の身でありながら早苗は幼稚園に迎え入れられることになったのだった。




「――ということで、早苗ちゃんは幼稚園に入園できることになったの。これで春休みが終わっても大好きな遥香お姉ちゃんと一緒にいられるのよ。よかったわね、早苗ちゃん」
 肝腎なところは巧みに覆い隠し、自分に都合のいい事柄ばかりを並べたてた説明を終えて、摩耶は早苗の蒼褪めた顔をちらと見た。
「これで、幼稚園に入園し直すことになった経緯はわかっていただけたと思いますが、再入園にあたって是非とも忠告しておきたいことがあります。それは、私を含め先生方はみな、早苗さんのことを本当の園児だと思ってそれにふさわしい接し方をするから、早苗さんにもそのつもりでいて欲しいということです。お母様がお持ちになった診断書に記されていたお医者様の参考意見も考え合わせて先生方と方策を協議したのですが、私たちは早苗さんを本当の園児と見なし、早苗さんには高校生としての意識を完全に捨て去って園児になりきってもらった上で、一から精神的な成長過程を辿り直すことが、結果として、早苗さんの精神退行を治癒する最も確実な方法だという結論に落ち着きました。よろしいですね?」
 摩耶の説明のあとを継ぎ、そこまでは丁寧な言葉で接していた佳子だが、早苗の反応を窺うために少し間を置いた後は、
「さ、これで早苗ちゃんにも事情がわかったでしょ? じゃ、新しい制服を着てみようね。もしも大きさが合わなくても入学式に間に合うよう業者さんにお願いして作り直していただくから心配しなくていいのよ」
と、『早苗さん』から『早苗ちゃん』に呼び方を変え、園児と接する時そのままの口調で言った。
「そ、そんな……私、高校生です。幼稚園に入るだなんて、そんな……」
 早苗は肩を震わせてソファから立ち上がり、ドアに向かって駈け出した。
 だが、隣に座っていた真澄が早苗の手首をつかんで易々と引き戻してしまう。
「よかったわね、お姉ちゃまにお手々をつないでもらって。制服を用意する間、そのままおとなしくしていてね」
 摩耶たちと向かい合わせに座っていた佳子はすっと立ち上がり、ソファとソファの間にある机の上に大きな紙箱を置いて蓋を開けた。
 紙箱には、きちんとたたんだ制服が入っていた。最近は初めて出会った遥香が身に着け、古くは十年以上も前に早苗が身に着けていた、よく見慣れた附属幼稚園の制服だ。
「お姉ちゃんが着せてあげる。家でもそうしてあげているんだもん、お姉ちゃんに着せてもらいたいよね?」
 真新しい幼稚園の制服を目にした真澄は瞳を輝かせ、早苗が着ているカーデガンの肩口に手をかけた。
「いや! 幼稚園の制服なんていや!」
 早苗は激しくかぶりを振った。
 だが、佳子から
「いつまでも駄々をこねてちゃ駄目でしょ、早苗ちゃん! せっかくお姉ちゃまが制服を着せてくださるんだからおとなしくなさい!」
と叱責された途端、その迫力に気圧されてびくんと体を固くし、首をすくめて口をつぐんでしまう。
 柔和な顔つきからは想像もできない、長きにわたって幼児教育の現場にたずさわってきた者特有の威厳だった。
「そうそう、そうしておとなしくしているのよ」
 早苗が佳子の眼光に射すくめられ、おとなしくなった隙に、真澄はカーデガンを脱がせ、スカートの肩紐を外した。
 紺色の吊りスカートが早苗の足元に落ち、サクランボ模様の紙おむつがあらわになる。
「あら、早苗ちゃんは紙おむつなの?」
 早苗がおとなしくなったのを見て取った佳子は元の穏やかな声を取り戻し、紙おむつに視線を注いだ。
 けれど、高校生である早苗がおむつを着用していることに驚く様子はまるでない。それよりも佳子の関心は、早苗のお尻を包み込んでいるのが幼稚園の推奨する布おむつではなく紙おむつであることにあるようだ。
「はい、お出かけの時は紙おむつにしているんです。外出先でも取り替えやすいように」
 摩耶が軽く頷いて応じた。
「そうですか。確かに、早苗ちゃんのように体が大きくておもらしの回数も多いお子さんだとおむつの交換は大変でしょう。けれど、入園が許可されたことをお伝えした際にもお願いしましたように、園の方針というものもございますので、その点、ご配慮いただければ幸いなのですけれど」
 佳子は小首をかしげ、幼稚園として布おむつの使用を推奨していることを改めて伝えた。
「方針は重々承知しています。ですから、交換用には布おむつを用意してまいりました。幼稚園でお世話になっている間にしくじってしまった時にこのおむつをお使いいただきますよう、お預けします。前もって説明をいただいた通り、他の子供たちのと取り違えないように名前も書いておきました。――真澄、替えのおむつとおむつカバーを園長先生にお渡しして」
 摩耶はすっと目を細めて応じ、早苗の着衣を脱がせている真澄の方に首を巡らせて言った。
「はい、これがそうです。お世話になっている間もたくさん汚しちゃうと思いますけど、妹のこと、よろしくお願いします」
 そう言って真澄は、家から持って出た大きな紙袋を佳子に手渡した。
「一応、改めさせていただきます」
 佳子は、受け取った紙袋を床に置いて両手を差し入れ、中に入っている布地を何枚か取り出してテーブルの上に広げた。
「そ、それって、おむつだったの!?」
 摩耶と佳子が言葉を交わしている間にブラウスも脱がされてしまい、幼児用の純白のスリップに紙おむつというあられもない姿で早苗が声を震わせた。
 真澄が大きな紙袋を手に提げて家を出たのは、新しい制服を持って帰るためだとばかり思っていた。それが、幼稚園に預けるおむつとおむつカバーを運んで来るためだったなんて……。
「結構です。確かに、おむつには早苗ちゃんの名前も書いていただいていますね」
 佳子は満足そうに頷き、スリップと紙おむつ姿で立ちすくんでいる早苗に向かって
「じゃ、ついでだから、早苗ちゃんがきちんと字を読めるかどうか確かめておきましょう。うちの幼稚園に入ってくる子はみんな入園前に平仮名と数字は読めるようになっているんだけど、もしも早苗ちゃんがまだ字を読めないと困るから、今のうちに確かめておこうね。ほら、おむつに書いてある字、ちゃんと読めるかな? ――はい、最初はこの字よ」
と言って、布おむつの端にマジックインキで大きく記された平仮名を一つずつゆっくり指差した。
 その行為一つとっても、摩耶の説明の直後に佳子が告げた通り、早苗のことを徹底的に園児扱いするつもりなのがありありだ。
「……最初は『こ』、次は『う』で、その次は――」
 それまで顔色を失っていたのが、今度は屈辱のために頬がかっと熱くなるのを感じながらも、身震いするような厳しい叱責の声を恐れて、早苗は佳子が指差す文字を弱々しい声で読み上げた。
 が、途中まで読み上げたところで早苗は妙なことに気がつき、摩耶と佳子の顔をおずおず見比べて、
「あの、苗字が『こうの』になっているんですけど……私の苗字は『島田』で、『河野』じゃありません」
とおそるおそる言った。
 けれど、それに対して、摩耶も佳子も真澄も平然としたままだ。
「だから、あの、私の名前は島田早苗で……」
「いいのよ、それで。早苗ちゃんは、うちの子になっているんだから。早苗ちゃんは島田早苗じゃなく河野早苗になっているんだから」
 早苗は紙おむつのギャザーにぴっちり締めつけられている太腿をぴくぴく小刻みに震わせながら言い募ったが、それを途中で遮って摩耶がこともなげに告げた。
「……!?」
 思いもしなかった説明に早苗は言葉を失ってしまう。
 その間も、摩耶の説明は続いた。
「早苗ちゃんには難しいお話だけど、説明してあげるわね。S女子大の附属みたいな私立の学校にも、国から幾らか助成金が出ているの。助成金の使い途は規則で決められていて、規則通りじゃない使い方をすると、お金を返さなきゃいけなかったり、次の年から金額がうんと減らされたりするんだそうよ。でね、一度は卒園した早苗ちゃんをもういちど入園させたりしたら、同じ園児の保育に対して二重に助成金を使っているってことになって、規則に違反するらしいの。ただ、そうならないようにする方法もあるんだけど、その方法っていうのが、早苗ちゃんの名前を変えちゃうことなんだって。ううん、下の名前まで変えちゃうわけじゃないの。苗字と下の名前と生年月日の組み合わせで同じ子か別の子かを判断しているから、その内の一つだけ変えればいいんだそうよ。それで、幼稚園にご迷惑がかからないよう、下の名前や生年月日よりも変えやすい苗字を弄ることにしたんだけど、そうするのに一番確かな方法が、早苗ちゃんをうちの養子にすることだったのよ。だから、園長先生から連絡をいただいた一昨日のうちに養子縁組の手続きを済ませておいたの」
 説明を聞いているうちに早苗は、佳子が摩耶のことをしきりに『お母様』と呼び、真澄のことを『お姉ちゃま』と呼んでいたことを思い起こして、はっとした顔になった。そして、真澄がおむつの入った紙袋を佳子に手渡す時にごく自然な口調で「妹のこと、よろしくお願いします」と言っていたことに今更ながら気づく。
「そんな、勝手に養子縁組だなんて、そんな……」
 早苗は唇を震わせ、恨みがましい目で摩耶の顔を振り仰いだ。
「勝手にだなんて、おかしなことを言う子ね。養子縁組のことは、一昨日、お昼寝の前にきちんと説明して、同意書にも早苗ちゃんに自筆で署名してもらったわよ」
 摩耶は早苗の顔を正面から見おろして、さもおかしそうに応じた。
「え? ……で、でも、あれは……」
 言われて一昨日の昼のことをおぼろげに思い出し、早苗は顔色を失った。
 一昨日、昼食代わりのミルクを飲まされている最中に早苗はひどい眠気を覚えて哺乳壜の乳首を咥えたままうとうとしかけたのだが、その時に摩耶が一枚の書類を差し出し、朦朧とする意識で今にも眠ってしまいそうになっている早苗に向かって
「早苗ちゃんは自分の家を離れてうちから学校へ通うことになるでしょう? そのことでちょっと気になったから特別な手続きが必要なのかどうか学校へ問い合わせてみたんだけど、そういう場合は、自宅以外の場所から通わなきゃいけなくなった理由を書いて届け出なきゃいけないんだって。それで、これがその用紙なの。自宅を離れた理由とか、うちの住所とか、非常時の連絡先とかの細かいところは私が書いておいてあげるから、早苗ちゃんはここに名前を書くだけでいいわ」
と言って書類の一角を指差し、早苗にボールペンを渡して署名させたのだった。
 今にして思えば、あれが実は養子縁組の同意書だったに違いない。
「私、あれが同意書だったなんて知りませんでした。すぐに養子縁組を解消してください!」
 早苗は金切り声をあげた。
 しかし摩耶は澄ましたもので、
「だって、私がもっと詳しく説明してあげようとしたのに、自分の名前を書くか書かないかのうちに、眠いからあとは全部まかせますって言ってねんねしちゃったのは早苗ちゃんなのよ。それに、養子縁組っていうのは、そんなに簡単に解消できるものじゃないの。よその人を簡単に戸籍に入れたり抜いたりできたら悪いことに使われちゃうからね。――さ、わかったら、自分のお名前を言ってみようか。幼稚園に入ったらみんなの前で自分の名前を元気よく言えなきゃいけないんだから、今のうちにお稽古しておきましょう。ちゃんとしたお名前はなんていうのかな、早苗ちゃんは?」
と、昼食のミルクに混入した睡眠導入剤によって早苗の意識を朦朧とさせた上で養子縁組の同意書に署名させたことなどおくびにも出さず、しれっとした顔で言った。
「……」
 早苗は歯噛みするばかりで何も言おうとしない。
「あらあら、自分のお名前も言えないような小っちゃい子だったんだ、早苗ちゃんたら。だったら、まだ幼稚園は早いかな。せっかく特別に入園を許していただいたけど、今からどこか保育園を探して、一歳児クラスに入れてもらわないといけないかしら」
 摩耶は冗談めかして言った。
 だが、それが決して冗談などではないことをしめすような妖しい光が摩耶の瞳には宿っていた。
 部屋の中がしんと静まり返る。



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