CETI 〜宇宙鯨の声が聞こえる〜



 もちろん、冬眠ポッドは栄養を供給する機能も持っている。けれど、このポッド自体がまだ試作品みたいなもので、排泄物処理機能にしても栄養供給機能にしても、まだまだ信頼性に欠けるところがあるのも事実だった(これまで、人工冬眠を必要とするような遠距離の宇宙航海をまだ人類が経験したことがないのだから、それも仕方ないといえば仕方ないことではあるのだが)。そこで、奈緒は、人工冬眠中のクルーに対してミウが授乳することで間違いのない栄養補給を行う方法を採用することにしたのだった。効率を考えれば1日に1度の授乳で済ませられればいいのだが、それだと一度に多量の富栄養液がクルーの胃を満たすことになってしまい、あまりにもクルーの体への負担が大きい。そこで、新生児への授乳と同じように3時間ごとにミウが人工ポッドの中でクルーに添い寝するような姿勢を取って乳首をふくませるという作業を繰り返してきたのだ。ヨーコが人工冬眠に入って今まで、約37日間に渡って。
 何度も何度も繰り返し口にふくみ続けたミウの乳首の感触を、いつしかヨーコの口が憶えてしまったのも無理からぬ話だった。だからこそ、強引に乳首をふくまされた途端、ヨーコの唇が無意識のうちに動き始めたのだった。
「うふふ、奈緒お兄ちゃまが言っていたわよね。栄養補給も水の摂取もミウが管理するシステムだって。それが、つまり、こういうことなのよ。倉庫の食料を私が体内で栄養素に分解して、水分と一緒に胸の有機タンクに溜めておいて、必要な時にタンクのニップル――おっぱいから出してヨーコお姉ちゃまに飲ませてあげるのよ。お姉ちゃまの体調に合わせて適当な栄養素と量を調整しながら。これからもずっと、お姉ちゃまはミウのおっぱいを飲むのよ。そうして、おむつを汚すのよ。こんな素敵なシステムを作ってくれた奈緒お兄ちゃまに感謝しなきゃね」
 ヨーコの背中をとんとんと優しく叩きながらミウは言った。
「でも、ミウのおっぱいを飲んでおむつを汚しちゃう赤ちゃんみたいなヨーコお姉ちゃまをミウが『お姉ちゃま』って呼ぶのもなぁんな変よね。――うふふ、これからは『ヨーコちゃん』って呼んじゃお。うん、それがいいわ。でもって、その代わり、ヨーコちゃんがミウのことを『ミウお姉たま』って呼ぶのよ。わかったわね、ヨーコちゃん」
 いくらなんでも艦長の立場にあるヨーコがアシストロボのことを『お姉たま』なんて呼べるわけがない。ロボットだから年齢など関係ないけれど、ミウの外見は16歳くらいの少女に仕立ててある。そんな、自分よりもずっと年下の少女を『ミウお姉たま』などと呼べる筈もない。ミウの乳首を咥えたままヨーコは首を振った。
 突然、頬に生温かい感触が走った。ヨーコがあまり激しく首を振ったものだから、唇から母乳(以後、ミウの乳首から流れ出る富栄養液のことを母乳と書くことにします)がこぼれ出て頬を伝って顎先へ流れ落ちたのだ。地上の10パーセントしかない重力のため、ヨーコの頬を伝う母乳はゆっくりゆっくり流れ落ちる。そのせいで、恥ずかしい生温かい感触は長い時間に渡ってヨーコの羞恥をくすぐるのだった。
 やがて、丸い雫になった母乳がゆっくり滴り落ちて、ヨーコの胸元を覆う涎掛けに吸い取られてゆく。
「ほら、ヨーコちゃんはおっぱいも上手に飲めない赤ちゃんなのよ。だから、私のことを『ミウお姉たま』って呼ぶの。わかったでしょう? ヨーコちゃんは聞きわけのいい子だものね」
 きゃぴきゃぴした喋り方をしていたミウはもういない。ヨーコに乳首をふくませているミウは、母性あふれた優しい喋り方をする、完全な庇護者に変貌していた。
 実に、この時こそが、奈緒がミウにインストールしたASIMO特別バージョンの全てのモジュールが再起動した瞬間だった。奈緒は「カーネルを書き換えたためにミウの人格データベースが不安定になった」と言った。しかし、開発者たる奈緒さえ、自らが作り上げた特別バージョンが持つ全ての機能を把握できていなかったのだ。ロボット工学三原則の解釈を変更するよう書き換えられたカーネルは、奈緒も知らないうちに、自分で、BIOSを初め全てのアプリケーションソフトとデータベースの最適化を進め始めた。しかし、人工知能を超えた『人工実存』ともいうべき存在にまで発達したミウたちヒューマノイドロボットが内蔵するアプリとデータは膨大だ。いくら高速のCPUをいくつも搭載しているとはいえ、その作業には長い時間がかかる。その最適化作業の途中が表面に現れたために人格データベースが不安定になったように奈緒には思われたのだが、実は、それは、ミウが自身を自らの力で進化させるプロセスが少しばかり垣間見えたものでしかなかったのだ。
 そうして今、ヨーコに授乳しながら、全ての最適化作業は終了した。「母性を内蔵させた」と言った奈緒の言葉そのまま、《母性》を人格データベースの基本に置いたフォーマットでもって。奈緒が書き換えたOSは今や、単にASIMOの特別バージョンという範疇を超えて、MOTHER(Maternal instinct Oriented THreads for Evolutional Rule)という新しいOSに生まれ変わったのだ。自らの力で進化を続けようとするミウ自身の意思でもって。
「ほら、呼んでごらん」
 ミウは執拗だった。とんとんとヨーコの背中を叩く手の力が強くなったような気もする。
「……お、お姉たま。ミウお姉たま……」
 このままでは埒があかないと思い直したヨーコは(そうして、ミウの手の力が強まってきたことに身の危険さえ覚えたヨーコは)、今にも消え入りそうな小さな声でミウの名前を呼んだ。
「そう、それでいいのよ。ヨーコちゃんは今からミウお姉たまの小っちゃな妹になるのよ。安心なさい、どんなことがあってもお姉たまが守ってあげるからね」
 ミウはヨーコの体をぎゅっと抱き締めた。
 その拍子にヨーコの喉が鳴って、せっかく飲み込んだ母乳が口から溢れ出してしまう。
「いいのよ、ヨーコちゃん。ヨーコちゃんがいくらおっぱいでお洋服を汚してもお姉たまが綺麗にしてあげる。ヨーコちゃんがいくらおむつを汚してもお姉たまが取り替えてあげる。だから、安心していいのよ」
 ヨーコの口の周りを涎掛けの端で拭きながら、ミウは優しく言い聞かせた。
 その声に、ヨーコも知らず知らずのうちに甘えるみたいな表情を浮かべ、ミウの乳房に顔を埋めるようにして母乳を飲むようになってゆく。いくら理性が拒んでも、ミウの言う通り「体は正直」だ。今のヨーコの体に必要な栄養素と味付けを調整した液体をヨーコの体が拒むことなどできるわけがないのだから。月面基地に向かって緊急連絡を試みても電波が届くのに5時間もかかる虚空の宇宙空間を光の速度の1パーセントを超えようとする高速で矢のように突き進む宇宙船の中、死を恐れ、ひたすら生を求める生存本能は極限にまで高ぶっている。そんな中、自分の命を支えてくれるたった一つの糧であるミウの母乳を拒める筈などないのだから。
「それでいいのよ、ヨーコちゃん。そうやっておっぱいを飲むヨーコちゃん、本当に可愛いわ。――さ、おむつはどれくらい濡れているのかしら」
 ヨーコに乳首をふくませたまま、ミウは右手をロンパースの裾からおむつカバーの中に差し入れた。中の様子を探るまでもなく、じとっと濡れた布おむつの感触が伝わってくる。
「この前取り替えてあげてから20時間経ってるんだもの、仕方ないわよね。でも、思ったほどは濡れてないみたい。やっぱり、人工冬眠で生体活動レベルが限界まで低下していたからかな」
 おむつカバーの中をまさぐりながらミウは呟いた。
 ミウの右手が動くたびに、乳首を咥えたヨーコの体がぴくんと震える。手の動きが刺激になって、自分のおねしょで濡らしてしまったおむつの感触に改めて羞恥を覚えるのだろう。ううん、それとも……。
「どうしたの、ヨーコちゃん。ひょっとすると、また、おしっこしたくなっちゃったのかな」
 ヨーコの仕種と顔つきを素早くスキャンして、ミウはヨーコの耳元に囁きかけた。
 言われて、ヨーコの頬がぽっと赤く染まる。言葉はないが、頷いたも同然だった。
「いいわよ。もう一度くらいおしっこしても漏れない筈だわ。遠慮しないでおむつを濡らしちゃいなさい」
 言い聞かせるようにミウは囁いた。
 ミウの言葉に、ヨーコが首を振る。けれど、決して激しい振り方ではない。どこか拗ねてみせるような、甘えたような振り方だ。
「おむつを濡らしていいのよ。だって、ヨーコちゃんは赤ちゃんだもの。赤ちゃんがおむつを汚してもちっとも変じゃないのよ」
 おむつカバーから抜いた右手でヨーコの体を抱き直すと、ミウはヨーコのお尻を自分の膝の上に載せた。そうして、ロンパースの上から、おむつで膨れたお尻をぽんぽんと優しく叩いてやる。
 ヨーコが首を振るのをやめた。
 ミウ自身は意識していないものの、ミウの声は、人間の可聴域を超えた周波数の音波を、低周波側にも高周波側にも含んでいる。そういった非可聴域の音波が人間の脳に直接働きかけることで、きわめて高い暗示力をしめすことがある。そのせいで、ミウがそうすることを意図しなくても、知らず知らずのうちにヨーコの意識がミウの言葉に従うようになってきているのだった。それに、故郷である地球から光の速度で5時間もかかる気の遠くなるような距離にまで引き離されてしまった今、ヨーコの体と心はたとえようのない寂寥感に包まれている。そんな中、唯一ぬくもりを感じさせてくれるのがミウの体温だった。人間ではない、ロボットの体温とはいえ、太陽さえもが小さな光の点にしか見えない冷たい宇宙空間との隔たりが特殊合金の外被一枚しかない宇宙船の中、肌に感じられるぬくもりはミウの体温しかない。しかも今やミウはヨーコに母乳を与え、排泄物の後片付けさえしてくれる絶対的な庇護者なのだ。ヨーコがミウに全てを委ねるようになってしまうのも、考えようによっては当然のことかもしれない。
 ヨーコがゆっくりが目を閉じた。
 乳首を吸う力がふと弱くなる。
 ヨーコの下腹部がぴくんと震えた。
 人間の1万倍の聴力を誇るミウの耳は、ヨーコの股間から微かに聞こえる小川のせせらぎのような音を決して聞き逃しはしなかった。



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