ママは同級生



 いったい何をする気なのかと茜が少しばかり不安に駆られながら見守る中、美也子がブラウスの胸元から右手を引き抜くと、ミルクを八分目ほど満たした哺乳壜を握っていた。
「ご飯の後で飲ませてあげるつもりで、その間に冷めないようおっぱいとおっぱいの間に挟んで温めておいてあげたのよ。でも、まだ小っちゃな赤ちゃんで離乳食も食べられないんだったら、すぐにミルクにしてあげなきゃね」
 美也子は哺乳壜の乳首を覆っている透明のキャップを外すと、哺乳壜を自分の頬に押し当ててミルクが冷めていないことを確認してから、茜の目の前に差し出した。
 茜の瞳が絶望の色に染まる。
「あ、ねんねのままじゃ飲みにくいかな。じゃ、こうして、と……」
 右手に哺乳壜を待ったまま美也子はスリッパを脱いでベッドに上がりこむと、敷布団の上に正座をして、膝の上に茜の頭を載せさせた。
「うん、こうすると飲みやすいわね。じゃ、ぱいぱいにしましょうね、小っちゃな赤ちゃんの茜ちゃん。昨夜のと同じでレンゲのハチミツを溶かしておいてあげたからおいしいわよ。ほら、お口を開けて」
 そう言いながら美也子は哺乳壜の乳首を茜の唇に押し当てた。
「……いや、哺乳壜なんて絶対いや。こんな、赤ちゃんの使う哺乳壜なんて」
 茜は唇をぎゅっと閉ざして首を振った。
「あら、さっき自分で茜ちゃんは赤ちゃんだって言ったんじゃなかったかしら? それとも、あれは嘘だったのかな。だとしたら、嘘をつくような悪い子はパパにたっぷり叱ってもらわなきゃいけないわね」
 美也子は少し呆れたような顔をし、右手で哺乳壜を支え持ったまま左手で再び携帯電話をジーンズのポケットから引っ張り出した。
「あ……」
 携帯電話の画面に映し出される恥ずかしい写真を改めて目にすると、抗う気力も萎えてしまうのか、それまで頑なに閉ざしていた茜の唇からふっと力が抜けてしまう。
 そこへ、美也子がゴムの乳首を強引に差し入れた。一度そんな状態になると、いくら茜が吐き出そうとしても思い通りにはゆかない。美也子はますます嵩にかかって右手に力を入れ、哺乳壜の乳首を尚も深く茜の口にふくませる。
「……あ、ぐ……」
 舌をゴムの乳首で抑えつけられた茜の口から意味をなさない声が漏れ出た。それに合わせて弱々しく唇が上下する。その唇の動きと舌の動きが乳首を吸う動作に近かったのだろう、哺乳壜を八分目ほど満たしたミルクの表面に小さな泡がたって、ミルクが茜の口の中に流れ出た。
「そうそう、その調子で飲んでちょうだい。茜ちゃん、哺乳壜もまだ上手に吸えないみたいだけど、慣れればちゃんと飲めるようになるからね。そうよ、ほら、もっとぶくぶくしてごらん」
 美也子はあやすように言って、携帯電話を持つ左手を斜め上の方向に伸ばすと、レンズが付いている面を自分たちの方に向けてシャッターボタンを押した。
 実際のカメラのシャッター音を模したパシャッという合成音が聞こえて、美智子の膝に頭を載せて哺乳壜の乳首を吸っている茜の姿が画面に映る。
 茜はカメラのレンズから逃れようと身をよじるが、大柄な美智子の手に押さえつけられては思うようにならない。
「駄目よ、おとなしくしてなきゃ。茜ちゃんがママの赤ちゃんになってくれた記念の写真なんだから、綺麗に撮らないといけないの。だから、暴れちゃ駄目よ」
 にっと笑って美也子は言い、それから何度もシャッターボタンを押しながら、こう付け加えた。
「哺乳壜のミルクをみんな飲んじゃうまで離してあげないからね。いつまでもずっと哺乳壜の乳首を咥えていたいならぱいぱいを飲まなくてもいいけど、自由になりないなら少しでも早くぱいぱいを飲んじゃった方がいいわよ」
 茜の顔に諦めの色が浮かんだ。昨日の昼過ぎに初めて会ってから今までの丸一日と少しという僅かな時間ながら、茜は、美也子の言葉が冗談などでは済まないということを痛いほど思い知らされていた。美也子は、そう言えば本当にそうするというような性格の持ち主なのだ。しかも、(ひょっとすると勇作のような中年の男性からみるとそれが蠱惑的に感じられるのかもしれないが)支配欲と独占欲が並外れて強く、きわめて我儘な性分の持ち主でもあった。その事実を極めて短い間に身にしみて思い知らされてしまった茜だった。
 幾らか迷った後、茜はおずおずと唇を動かし始めた。今の茜にできるのは、少しでも強く哺乳壜の乳首を吸って少しでも早くミルクを飲み干すことだけだった。それ以外に美也子の手から解放される術はない。
「そうそう、上手になってきたわね、茜ちゃん。本当はママのおっぱいを飲ませてあげたいけど、出ないから哺乳壜のぱいぱいで我慢してね。でも、ちゃんとできたら、ご褒美に昨夜みたいにママのおっぱいを吸わせてあげるね。――あ、そうだ。ママは手を離すから茜ちゃんが自分で哺乳壜を持ってちょうだい。ほら、こうして両手でしっかり持つのよ」
 渋々とはいえ茜が自分からミルクを飲み始めた様子に満足そうに頷いた美也子は、それまで右手で支え持っていた哺乳壜を茜に持たせ、茜の頭を枕の上に戻すと、ベッドから床におり立って携帯電話を操作した。写真撮影から動画映像撮影のモードに切り替わって、茜が頬を膨らませてゴムの乳首を吸うシーンや哺乳壜のミルクの表面に小さな泡が立つシーンが様々なアングルから記録されてゆく。
「うふふ、初めての子供の時は写真やビデオをたくさん撮りたくなるっていうのは本当のことだったのね。特に、こんなに可愛い茜ちゃんなんだから尚更だわ。たくさん撮っておいて、いつか、おじいちゃまとおばあちゃまにも見ていただきましょうね、茜ちゃん」
 携帯電話を構えたままベッドの周りをゆっくり歩きまわりながら美也子は楽しそうに言った。
「自分達ががプレゼントした哺乳壜でこんなにおいしそうにぱいぱいを飲んでる茜ちゃんの姿を見たら絶対に喜んでくれるわよ、おじいちゃまもおばあちゃまも」
 美也子の言葉に、ゴムの乳首を吸う茜の唇の動きが遅くなった。美也子の言う『おじいちゃまとおばあちゃま』というのが誰のことか、まるで見当がつかないのだ。母方の祖父母はもういないし、父方の祖父もわりと早くに亡くなり、母の死後に茜の面倒をみてくれた父方の祖母も茜が中学生の時に他界している。
「おじいちゃまとおばあちゃまっていうのは、私の――ママのお父さんとお母さんのことよ。二人とも勇作さんとあまり年は変わらないけど、私の娘になった茜ちゃんからみればおじいちゃんとおばあちゃんだものね。若いうちにおじいちゃんとおばあちゃんになっちゃうのは可哀想だけど、でも、こんなに可愛い初孫だもの、絶対に喜んでくれるわよ」
 茜の疑問を察したのか、携帯電話での撮影を終えて美也子が説明した。
 それで、おじいちゃまとおばあちゃまという人物の正体がようやく茜にも理解できた。けれど、そうなると、代わって新たな疑問が湧き起こってくる――美也子の言う通りだとすれば、どうやら、茜が咥えている哺乳壜は美也子の両親から茜へのプレゼントということらしい。だとすると美也子の両親は茜のことを幼い赤ん坊だと思っているのだろうか。そうでなければプレゼントといって哺乳壜など贈るわけなどない。だが、しかし、茜の母親がいつ亡くなったのかくらいは聞いている筈だから、茜が高校生くらいだということもわかっているに違いない。だったら、どういうつもりで哺乳壜などというものを茜へのプレゼントとするのだろうか。
「おじいちゃまもおばあちゃまも、茜ちゃんが高校生だってことは知っているわよ。ママと結婚したいっておじいちゃまとおばあちゃまにパパが御挨拶に来た時、ちゃんと説明したもの」
 茜の胸の内を読み取ったかのように美也子は言った。
「それから、パパが帰った後、ママがおじいちゃまとおばあちゃまに教えてあげたの。茜ちゃんは高校生だけど、まだおむつ離れしていないのよって――」



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