ママは同級生



 勇作から茜のおねしょ癖に関することを前もって聞かされていた美也子は、その事実を包み隠さず両親に告げていた。しかも、茜がおねしょをし出すようになった理由は母親と祖母とを続けて失ったことによって負った心の傷のせいだと思うと説明した上で、勇作と結婚したら義理の娘になる茜の心のケアをしてあげるつもりだとも告げていた。具体的には、茜を徹底的に赤ちゃん扱いして一時的に幼児の頃の精神状態に戻し、そこから改めて育て直すことで心の傷を取り除いてあげるつもりだと。
 しかし、実は、それは茜のことを慮ってのことなどでは決してない。美也子の本当の狙いは、茜を無力な赤ん坊扱いすることで自分が圧倒的な優位に立つことだった。赤ん坊の頃から勇作と暮らしてきた茜と対等以上どころか、茜を完全に自分の支配の下に置く立場を手に入れることが美也子の狙いだった。そうしてこそ勇作を自分の手に独占することができるのだという激しい思いが美也子の胸の内にはあったのだ。
 もちろん、両親にしても美也子の説明を真に受けたわけではない。精神的な疾患を患った者への治療の一環として催眠術によって年齢後退を引き起こし、幼児の頃の深層心理を探るといった方法があるらしいということくらいは聞き及んでいたものの、そういった手法は熟達した精神科医師にのみ許されるもので、ずぶの素人の手に負えるものではないとも聞いている。だから、美也子の説明を聞いた瞬間からどこか胡散臭さを嗅ぎ取っていたばかりではなく、美也子の性格や日頃の行動などを考え合わせて、美也子が胸の中に秘めている本当の企みの中身にさえ薄々は思い至ってもいたのだ。けれど、両親は美也子の企てをやめさせようとはしなかった。一度こうと言い出したら絶対にあとにはひかない娘の性格を知り抜いているためということもあるが、美也子の企みが成功すれば、勇作の家での結婚生活が始まった時に義理の娘になる茜と美也子との対立の芽を前もって摘み取っておくことができるかもしれないと考えたためという事情もある。多感な年頃の子供を持つ相手との再婚は往々にして感情的な対立を招きやすいものだが、それならいっそ最初から美也子が圧倒的に優位な立場を手に入れてしまえば全てにわたって主導権を握ることもでき、万事においてスムースに物事が進むのではないかと考えたわけだ。継母と義理の娘との仲違いをいさめるのにはもっと穏やかな方法は幾らでもあるだろうに、こういうふうな考えを持つところなど、美也子の性格はそんな親から受け継いだものだと言われても返す言葉もないに違いない。いかにもそれは我が子贔屓の身勝手な考え方ではあるものの、大勢の従業員を抱えた数多くのグループ会社を統べる経営トップに立つ者としてはこのくらいの割り切ができる性格である必要もあるのかもしれない。
 ともあれ、そんなふうにして、両親は、美也子の説明を真に受けるふりをしつつ、その企みに荷担することにした。そうして請われるまま、茜へのプレゼントと称して美也子が要求する物を与える約束を交わしたのだった。美也子の兄は大学を卒業して父親が経営する中核企業において一社員として修行を積み始めたばかりだし、姉はまだ学生ということもあって、両親さえ説き伏せることができれば企みの進行を阻害する者は誰もいないという状況も美也子には幸いしたに違いない。

「――ということなのよ、茜ちゃん。だからおじいちゃまもおばあちゃまも、茜ちゃんが高校生だってことは知っているけど、まだおむつ離れしてない赤ちゃんと同じだと思っているの。でも、二人とも、高校生のくせにおむつ離れしていない茜ちゃんのこと、馬鹿になんてしないわよ。お兄ちゃんやお姉ちゃんを追い越してママが一番先に結婚して急に高校生の孫ができちゃったけど、その孫が本当は赤ちゃんみたいな子だって知って、却って喜んでいるんだから。昨日、ママの実家からこのお家に向かう時も、おじいちゃまとおばあちゃまのお家に少しでも早く茜ちゃんを連れておいでって言ってくれていたくらいなのよ。おじいちゃまもおばあちゃまも、きっと茜ちゃんのこと、本当の初孫として可愛がってくれると思うわ」
 美也子は、胸に秘めた企みのことはおくびにも出さず、悪賢く言葉を選びながら、偽りの事情を説明して聞かせた。そうして、いつしか茜の唇の動きがぴたっと止まってしまっていることに気づくと、わざとらしい笑顔になって
「ほら、お口が止まってる。プレゼントの哺乳壜で茜ちゃんがぱいぱいを飲んでくれないと、おじいちゃまもおばあちゃまも悲しんじゃいますよ」
と言うと、茜の頬を人差指の先でつんつんとつついた。
 抵抗する術もなく、茜は再びおずおずと哺乳壜のミルクを飲み始めた。
「そうそう、それでいいのよ、茜ちゃん。哺乳壜だけじゃなく離乳食も可愛い食器もスプーンも、みんな、おじいちゃまとおばあちゃまからのプレゼントなのよ。でも、茜ちゃんはまだ離乳食も食べられない小っちゃな赤ちゃんだから、食器やスプーンは綺麗に洗ってしまっておかなきゃいけないわね。だから茜ちゃんは、哺乳壜でたっぷりぱいぱいを飲んで早く離乳食を食べられるようにならなきゃいけないのよ。でないと、せっかくのプレゼントを使っておらえないっておじいちゃまとおばあちゃまが寂しがるからね」
 両手で哺乳壜を支え持って乳首を吸う茜の姿を見おろして美也子は言い、皮肉めいた笑みを浮かべて続けた。
「昨日の朝、宅配便で荷物がたくさん届いたでしょう? あの中にはママの着替えとかもあったけど、茜ちゃんがこうしてぱいぱいを飲んでいる哺乳壜とか離乳食の瓶詰めとかが入った箱も混ざっていたのよ。パパはお船の上だから、荷物を受け取ってくれたのは茜ちゃんよね? それを知ったらおじいちゃまもおばあちゃまも喜ぶと思うわよ。だって、大事なプレゼントを真っ先に受け取ってくれたのが、渡したい相手の茜ちゃん自身だったんだもの」
 美也子の言うように、昨日の朝、西村家からの荷物という8箇のダンボール箱を宅配便の運転手から受け取ったのは茜だった。漠然と美也子の私物だろうと考えてダイニングルームの隅に置いておいたのだが、昨夜、家を飛び出して帰ってきた時にちらと見たところでは荷物はダイニングルームからなくなっていた。茜がいない間に美也子が片づけたのだろうが、まさか、その荷物の中に、こんなふうにして使わされることになる哺乳壜や離乳食の食器が入っているとは想像もできなかった。そんな恥ずかしい道具を自分で受け取って受領書に印鑑を押したのだと思うと、改めて屈辱と羞恥にさいなまれる。
「まら、またお口が止まってますよ。ちゃんと飲んじゃわないと、ずっと哺乳壜のおっぱいを吸ってなきゃいけませんよ。あ、そうか。茜ちゃんは赤ちゃんだもん、いつまでもおっぱいを吸っていたいのよね。なーんだ、そうだったんだぁ」
 惨めな事実を突きつけられて再び唇の動きを止めた茜をからかうように美也子が言った。
 少し間があって、茜の唇がのろのろと動き出す。
「はい、お上手よ、茜ちゃん。じゃ、ぱいぱいを飲んでる間におむつを取り替えようね。ちっち、出ちゃってるんでしょ? もっと小っちゃな赤ちゃんだったらぱいぱいを飲ませてあげてからおむつを取り替えなきゃいけないんだけど、茜ちゃんは自分でぱいぱいの瓶を持ってくれるからママ助かるわ」
 ミルクの表面に浮かぶ小さな泡をちらと見ながら美也子はこともなげに言って、茜の体を覆っている掛布団をさっと捲り上げた。
「い、いや! お、おむつは自分で外す。だから、今は駄目!」
 思ってもいなかった美也子の行動に、茜は哺乳壜の乳首を口にふくんだまま金切り声をあげた。
 その拍子に、口からミルクがこぼれ出て茜の頬と顎先を伝い、首筋を濡らしてシーツに滴り落ちた。
「あらあら、せっかく上手に飲めるようになったと思ったのに、茜ちゃんはやっぱりまだ小っちゃな赤ちゃんだったのね。上手にぱいぱいを飲むところをおじいちゃまとおばあちゃまに見てもらえるのは、まだまだ先かしら」
 くすくす笑いながら美也子は言うが、ベビードールのボトムを脱がせる手を緩めることはしない。
「ね、お願いだから。おむつは自分で外すから、だから、もうやめてちょうだい!」
 シーツをミルクで汚すことも気にならないかのように激しく首を振って茜は叫んだ。熱がおさまってきたおかげで声に張りが戻ってきた分、却って悲痛な響きだ。



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