ママは同級生



「この人は、田岡薫先生というお医者様なのよ。ママの家族の誰かが病気になったらいつも診てもらうし、おじいちゃまの会社もお世話になっているの。茜ちゃん、お熱は下がってきたみたいだけど、念のために診てもらおうと思ってわざわざ来ていただいたのよ」
 茜の不安をよそに、しれっとした顔で美也子は言った。
 美也子の言うように、薫は西村家の主治医というだけでなく、美也子の父親が経営するグループ企業の産業医という地位にある女医だ。薫の祖父が開業医として小さな医院を設立したのが始まりだが、薫の父親である二代目が美也子の祖父と知り合いということもあって産業医を嘱託され、それがきっかけになって町の開業医から総合病院へと発展してきたという経緯がある。そのため、次期院長に就任することになっている薫としては、西村家の一人である美也子からの依頼とあれば少々の無理なら聞き入れざるを得ない立場にあった。それで、こうして、近からぬ距離を自分で車を運転して往診にやって来たというわけだ。
 そう言われて、ようやく茜は自分が感じた不安の正体に気がついた。人は誰でも医者を目の前にすれば緊張し、精神的に萎縮してしまうことも珍しくない。中学生になって夜尿癖がひどくなったため泌尿器科に通い続けた経験のある茜にとっては尚更だ。茜は薫の姿に気がつくと同時に、薫が春物のセーターの上に身に着けているのが半袖の白衣だということを見て取って彼女が医師だと直感し、無意識のうちに、緊張からくる不安に襲われたのに違いない。
「じゃ、先生に診させてね。ぽんぽんは痛くないかな? ちょっとだけひんやりするけど我慢してちょうだい。茜ちゃん、強い子だもん、泣かないよね」
 薫は診察鞄から取り出した聴診器を耳に付け、掛布団に手を伸ばした。
「い、いや!」
 反射的に茜は薫の手を払いのけ、掛布団の端をぎゅっと握りしめた。確かに熱はあるし、医師の診察を受けるために聴診器を押し当てられるのも仕方ない。けれど、上半身だけならともかく、下手に掛布団を大きく捲り上げられたりしたら、おむつ姿の下半身まで薫の目にさらすことになるかもしれないのだ。これがまだ、おむつカバーの上にベビードールのボトムを穿いていれば気づかれずにすむかもしれないが、ぷっくり膨らんだおむつカバーの上にボトムは窮屈だということで、下半身はおむつカバーだけという恥ずかしい格好をさせられているのだ。掛布団を捲り上げられまいとして茜が必死になるのも仕方ない。
「あらあら、困った子だこと。美也子さん、茜ちゃんは素直でいい子だって電話で言っていたけど、本当はどうなの?」
 薫は幾らか呆れたような顔になって美也子の方に振り向いた。
「いいえ、とってもいい子ですよ、茜ちゃんは。少し我儘で強情なところもあるにはあるけど、私の言いつけはよく守るし、聞き分けのいい子です」
 美也子は薫に向かってぶるんと首を振った。
「そう。じゃ、人見知りが激しいのかしら。私とは初対面だから恥ずかしがっているのかもしれないわね」
 薫は少し思案顔になって首をかしげた。
 その時になって、茜は、美也子だけではなく薫まで自分のことを完全に子供扱いしていることに気がついた。さっきも薫は「お腹は痛くないですか」ではなく「ぽんぽんは痛くないかな」と、まるで幼児に向かって訊くような言葉遣いをしていたし、それから後も、美也子と薫は、小さな子供を持つ母親と子供の診察に訪れた医師との会話そのままに言葉を交わしているのだ。たしかに茜は同年代の中では小柄で童顔だが、それでも、そんなに小さな子供に見えるわけはない。改めてそう思うと、茜が覚えた不安は、単に医者を目の前にしための緊張からきているということだけではないように感じられてくる。
「あ、そうかもしれませんね。だったら、私が言い聞かせてみます。せっかく先生が診てくれるんだから、ちゃんと布団から出てらっしゃいって」
 美也子は薫に向かって頷いてみせ、もういちど茜の顔を覗き込むようにして耳元に囁きかけた。
「いつまでも言うことをきかないでいるなら、携帯電話の写真も動画も、クラスメートにメールで送っちゃおうかしら。私の編入手続きをする時、いろいろ手をまわして同じ学年の生徒のメールアドレス、半分くらいは調べてあるから、今すぐにでも茜ちゃんの可愛い格好をみんなに見てもらえるのよ。哺乳壜でぱいぱいを飲むところとか、おむつカバーでぷっくり膨れたお尻とか見たら、みんな、可愛いって言ってくれるでしょうね」
 優しげな口調が却って美也子の本気を感じさせる。茜は思わず弱々しく首を振ると、掛布団を押さえている両手を離してしまった。
「そうよ、そんなふうにいい子にしていたらママも先生も困らないんだからね。ほら、ぽんぽんを出して診ていただきましょうね。お熱がひどくなったら大変だもの。暖房も入っているし、すぐにすむからね」
 美也子は満足そうな笑みを浮かべて、掛布団をさっと捲り上げた。それも、上半身に掛かっている布団だけではない。まるで剥ぎ取るようにして、茜の体を覆っている掛布団を全て捲り上げてしまったのだ。
 茜は慌てて両手の掌で下腹部を覆ったが、それだけでおむつカバーを隠せるわけがない。薫は無遠慮に茜の体を頭の先から爪先まで眺めまわした。もちろん、赤ん坊用のとまるで同じに仕立てられた大きなおむつカバーにも気がついている。しかし、茜の下腹部に目をやっても、薫は顔色一つ変えなかった。まるで、茜の下腹部が大きなおむつカバーに包み込まれているのを予め知ってでもいたかのように。茜には、むしろ、それが不気味だった。
「さすが、茜ちゃんのママなだけあるわね、美也子さん。それじゃ、パジャマも脱がせてあげてもらえるかしら。本当は裾を胸元まで捲り上げるだけでいいんだけど、見たところ、このパジャマは汗をたくさん吸っているみたいだし、ついでだから着替えさせてあげた方がいいでしょう」
 茜の額や体に手の甲を押し当ててざっと具合を調べた後、薫は美也子に言って、改めて聴診器を掛け直した。
「わかりました、先生。じゃ茜ちゃん、パジャマを脱ぎ脱ぎさせてあけるから、ちょっと間だけおっきしてちょうだいね」
 美也子は茜の背中の下に両手を差し入れて上半身を起こさせた。
 その時になって、茜は、ここが自分の部屋ではないことに気がついた。まだ幾らか熱が残っていることもあって目を覚ました直後は意識もぼんやりしていたし、なにより、見知らぬ人影があったものだからそちらに意識を向けていたせいで気がつかなかったのだが、壁紙の色といい、配置してある家具といい、自分の部屋とはだいぶ違った造作になっていることにようやく気づいたのだ。
「ここは……?」
 茜は不安にかられてきょろきょろと周りの様子を見まわしながら、ベビードールを脱がせようとする美也子の顔をおずおずと見上げた。
「ああ、ここは茜ちゃんのお部屋の隣のお部屋よ。パパとママの寝室と、茜ちゃんのお部屋との間にあるお部屋。茜ちゃん、このお部屋のこと憶えてないかな?」
 そう言われて改めて部屋の様子を見まわしてみると、徐々に記憶が甦ってきた。この部屋は、茜の育児室として使っていた部屋だ。父親と母親が寝起きを共にする寝室のすぐ隣にあって、家中で一番日当たりがいい部屋。茜が1歳になった頃からだったろうか、それまで茜は両親の寝室で母親と一緒にいるのが常だったけれど、盛んに体を動かすようになってきた茜が思いきり暴れ回れるようにと、寝室の隣の一室を与えられたのだ。夜になって眠る時は両親と川の時になっていたが、昼間は母親と一緒にこの部屋で過ごす時間が大半だった。お昼寝もここでできるよう、父親は木製の純白のベビーベッドまで新調してくれていた。それが、茜が幼稚園の時に母親が他界してしまい、茜がこの部屋で独り寂しそうに佇んでいる姿を見るのが不憫だと祖母が言い出して、その時の家具はそのまま、二度と茜が立ち入らないよう固く錠をおろして封印してしまっていた部屋だ。その後、茜は祖母の部屋で過ごすのが習慣になり、祖母が還らぬ人となってからは、育児室の隣の部屋を与えられて、そこを自分の部屋として暮らしてきたのだった。



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