ママは同級生



 そう思いながら改めて部屋の調度品を見て見ると、頭の片隅に残っている幼い頃の記憶と照らし合わせる限りは、当時のままのように思えた。ベビー箪笥があるし、幼稚園に入る一年ほど前から使っていた小振りの整理箪笥も残っているし、小物入れや玩具箱もそのままだ。ただ、その頃と比べると茜自身が成長したせいで、当時はとても大きく感じていた家具類が今から見ると思っていたよりも小さく見えるのがちょっとした違いといったところだろうか。
「あれ? でも……」
 ふと疑問に感じて茜はぽつりと呟いた。長い間に渡って人の出入りが途絶えている部屋は、どうしてもじめっとした空気が満ちていて、家具にしても壁にしても埃をかぶってしまうものだ。なのに、この部屋は、そんな感じが全くしない。まるで全てを新調したような清々しい雰囲気さえする。
「びっくりした? 実は、これもおじいちゃまとおばあちゃまとママからのプレゼントなのよ」
 不思議そうな表情でベビー箪笥に目を凝らす茜に、美也子がすっと目を細くして言った。
「長いこと閉めたままにしていたお部屋だけど、私が茜ちゃんのママになるのをきっかけに、もういちど鍵を開けてくれるようパパにお願いしたの。茜ちゃんが赤ちゃんだった頃のお部屋で茜ちゃんと仲良くしたいって。ちょっとだけ迷ったけど、でもパパは快く許してくれた。だから、おじいちゃまとおばあちゃまにお願いして、清掃会社の人に来てもらったの。パパが経営する会社と業務提携している清掃会社の人だから、いろいろ便宜を図ってくれてとても助かったわ。少し騒がしくするから茜ちゃんがお家にいる時にお掃除すると邪魔になると思って、2月の終わり頃だったっけ、茜ちゃんがお友達と一緒に美術館へ行った日にすませちゃったの。それで、茜ちゃんをびっくりさせようと思って、パパにも内緒にしてもらっていたの。――あ、そうそう。でも、ベッドだけは新しいのを入れたのよ。だって、あの頃のベビーベッドは今の茜ちゃんには小さすぎるものね。だから、おじいちゃまの会社が家具を仕入れているところにお願いして特別に作っていただいたの。どう、特別にお願いして作っていただいた新しくて大きなベビーベッドは気持ちいいでしょ?」
 美也子の最後の言葉に、茜は、はっとしたような顔つきになって首を巡らせ、自分が居るベッドの様子を急いで確かめた。
 どうやら、美也子の言ったことは本当らしい。敷布団も掛布団も、サイズこそ大きめに仕立ててあるものの、アニメキャラクターの模様をあしらった、いかにも幼児向けといった可愛らしいデザインだし、今は倒してあるものの、ベッドの周囲を取り囲むようにして白く縫った木製のサイドレールが取り付けてあるのがわかる。それは、茜の見る限りでは、うっすらと記憶に残っているベビーベッドそのままだった。しかも、他の家具とは違って、記憶よりも小さく感じることはない。高校生である茜が横になってもゆったりしているくらいだから、かなり大きなサイズに仕上げた特注品に違いない。
「どう、気に入ってもらえた? せっかくだから、サイドレールの高さも見ておきましょうか。こうすればベッドから落っこちる心配がないから、ゆっくりおねむできるわよ」
 言うが早いか、美也子は大きなベビーベッドの四方を囲む木製のサイドレールを起こすと、留め金具で手早く固定した。サイドレールは二段になっていて、一段目は茜の太股くらいの高さだが、二段目まで引き起こすと茜の胸くらいの高さになる。この高さだと跨ぎ超えることはできないし、サイドレールの上に手をかけた乗り越えようとしても、床までがかなりの高さになるから、それも容易なことではない。真っ白な木製のサイドレールを立てるだけで、そのベビーベッドは、茜を閉じ込めてしまう檻にたやすく変貌してしまうのだった。
 あっという間に囚われの身になった茜は不安にかられ、反射的にベッドの上で立ち上がった。途端に、下腹部を包み込んでいるおむつカバーがずり下がってしまいそうになる。
「あらあら、おねしょの重みでおむつがずり落ちそうになっちゃってる。お尻が気持ち悪いでしょう? 先生に診てもらっている間におむつを取り替えてあげなきゃね」
 丈の短いベビードールとおむつカバーしか身に着けず、そのおむつカバーもおしっこを吸った布おむつの重みのせいでずり落ちそうになっているという幼児そのままの茜の姿に相好を崩して、美也子は大きなベビーベッドのサイドレールを再び倒した。
「はい、ねんねしてちょうだい、茜ちゃん。おしっこの匂いがしみついた布団じゃない、新しいお布団は気持ちいいわよ。茜ちゃんがねんねのままだとあっちのお部屋のお布団を干せないから、今朝早く来てくださった先生に手伝っていただいて茜ちゃんをこのお部屋へ運んでベビーベッドにねんねさせてあげたのよ。後でちゃんと先生にありがとうしましょうね」
 サイドレールを倒し終えた美也子は、茜の体に両手を絡めるようにして手早くベビードールを脱がせると、真新しい敷布団の上に横たわらせて、ちらと薫の方を見た。
 言われてみれば、眠っている途中、誰かに抱きかかえられてどこかへ連れて行かれたような気がしないでもない。しかし、殆ど意識を失わんばかりにして眠りこけていたものだから、はっきりしたことは憶えていない。
「それじゃ、お願いします、先生。私は茜ちゃんのおむつを取り替えてあげますから」
 美也子は薫に目配せをして言った。
「わかりました。じゃ、診てみましょうね。怖いことはないからじっとしていてね、茜ちゃん」
 薫はベッドの傍らに立って腰をかがめ、聴診器を茜の胸に押し当てた。
 それと殆ど同時に、美也子がおむつカバーに指をかけて前当てを外す。マジックテープの剥がれるベリリという音が部屋の空気を震わせた。
「や……やだ!」
 紙おむつと違って、布おむつは、おしっこを吸ってぐっしょり濡れた感触がはっきりしている。それに、さっき立ち上がった時、おしっこの重みでおむつがずり落ちそうになったから、眠っている時に粗相をしてしまったことは茜自身にもよくわかっている。おむつカバーを広げたたら、薄く黄色に染まった布おむつを美也子だけでなく薫の目にもさらすことになる。その羞恥から逃れようとして思わず茜は身をよじって金切り声をあげた。
「駄目よ、茜ちゃん。おとなしくしてないと、ちゃんと診察できないんだから」
 盛んに身をよじる茜の肩をベッドに押さえつけ、少し困った表情を浮かべた薫だったが、ふと何かを思いついたように瞳を輝かせると、診察鞄から銀色に光るステンレス製の圧舌片を取り出した。風邪をひいた患者の喉の様子を診る際に患者の舌が動かないよう押さえておくヘラのような器具だ。
「ひょっとしたら茜ちゃん、喉が腫れているのかもしれないわね。それで痛くておとなしくしていられないのかしら。だったら、先に喉の具合を診てみましょうね」
 薫は独り呟くように、けれどそれが茜の耳にもはっきり聞こえるように注意しながら言うと、冷たく光る圧舌片を茜の口の中に差し入れて、金切り声をあげるピンクの舌をぐっと下顎に押しつけた。
「ぐ……」
 そんなふうに強く舌を押さえつけられると、声を出せなくなるばかりでなく、呼吸さえ困難になる。しかも、嘔吐中枢を刺激されるため、空嘔を何度も繰り返すようになってしまう。
「あら、変ね、喉は腫れてないみたい。でも見落としがあるといけないから、もう少し診てみましょうね」
 薫は圧舌片を持つ手にますます力を入れて、独り言というよりは茜に言って聞かせるように囁きかけた。
 その囁き声を耳にして、茜にも薫の本当の狙いが理解できた。薫には喉の様子を診察する気など微塵もなく、それを名目に、茜の舌を圧舌片できつく押さえつけのが目的だったのだ。それは、茜の抵抗を封じるための、お仕置きを兼ねた警告だと言えるかもしれない。身をよじる茜をおとなしくさせ、再び抵抗するようなことがあれば更に激しい苦痛が待っていることを思い知らせるための、医療行為に名を借りた容赦のない責め苦と言ってもいいだろう。



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