ママは同級生



 薫の手で茜がおとなしくさせられている間に、美也子の方はおむつカバーの前当てを外し、横羽根を左右に広げていた。
「あらあら、たくさん出ちゃったのね、茜ちゃん。おむつ、ぐっしょりじゃない」
 おむつカバーを広げ、丸見えになった布おむつを目にした途端、美也子はわざと大声で驚いてみせた。
「でも、ちっとも出ないよりは体にいいんですよ。おしっこが出ないと、本来なら排泄すべき毒素まで体の中に溜まってしまって何かと病気を引き起こす素になるから」
 ようやく圧舌片を診察鞄に戻した薫が、苦しそうに何度も咳き込む茜の顔とぐっしょり濡れたおむつとを見比べながら、軽く首を振って言った。
「あ、言われてみれば確かにそうかもしれませんね。おむつの洗濯が大変だなと思うだけじゃいけないんですね。おねしょをするから茜ちゃんが変な病気にかからなくてすむんだと思わなきゃいけないんですよね、母親としては。じゃ、先生、そのへんも含めて診察をよろしくお願いします」
 美也子はわざとらしく神妙な顔になって薫に同意してみせてから、茜の左右の足首を左手で一つにまとめて持ち、そのまま高々と差し上げた。
「そうね。どうせ熱さましのお薬を処方するんだから、そういう効き目のあるお薬も出しておきましょう」
 薫は聴診器を茜の胸から腹部に移しながら鷹揚に頷いた。
「よろしくお願いします」
 美也子は神妙な顔つきで頭を下げると、おねしょのおしっこをたっぷり吸って重くなった布おむつを小振りのポリバケツの中に滑らせ、昨夜と同じ藤製のバスケットから新しい布おむつをつかみ上げた。
 が、それを見た薫が
「あ、新しいおむつをあてるのはちょっと待ってちょうだい」
と穏やかに制止し、白衣のポケットから取り出した細いガラス管を、訝しげな表情を浮かべる美也子に手渡して言った。
「おむつをあてる前に体温を測っておきましょう。ざっと見た限りではもう大分よさそうだけど、念には念を入れておいた方がいいから」
「わかりました。これだと、おむつをあてちゃった後だと測れませんもんね」
 意味ありげに微笑みかける薫からガラス管を受け取った美也子は、悪戯めいた笑みを浮かべて頷いた。
 薫が手渡したのはガラス管の中に水銀を封入した古い型の体温計だった。それも、肛門に挿して直腸で体温を測定する小児用の体温計だ。
「ちょっと冷たいけど我慢してね、茜ちゃん。お熱がちゃんと下がっているかどうか確かめてみましょう」
 美也子は茜の足首を高く差し上げたまま、茜にも見えるよう右手で小児用の体温計を振ってみせた。
「いや! そんな体温計、いや! お尻で体温を測るなんて、そんなのいや!」
 茜は激しく首を振って叫び声にあげた。
 それを薫が冷たい目つきで見おろして呆れたように言った。
「あら、やっぱり喉が腫れていて静かにできないのかしら。もういちど念入りに診てみた方がいいようね」
 独り言めかして呟く薫の声を耳にして、不意に茜が黙りこんだ。怯えたような顔で、薫が再び取り出した圧舌片を見つめる。
「さ、あーんしてちょうだい。おっきな口を開けないと診察できないでしょ?」
 茜の目の前にステンレス製の圧舌片をこれみよがしに突きつけて薫は事務的な口調で言った。
「……お、おとなしくします。もう騒がないから、だから……」
 すがるような目つきで茜は赦しを乞うた。それほどまでに、薫のさきほどの責めがこたえたようだ。
「そう、ちゃんとおとなしくできるのね? なら、いいわ」
 薫は茜の瞳を覗き込むようにして言ってから、美也子の方に向き直った。
「ね、美也子さん。何か茜ちゃんの口にふくませておくような物はないかしら。ひょっとしたら茜ちゃん、口寂しくて時々大声を出したり騒いだりするのかもしれないから、何か咥えさせてあげればおとなしくしているんじゃないかと思うのよ」
「それなら、整理箪笥の横にある小物入れの一番上の引出にいい物が入っていますよ。すみませんけど、ちょっと見てもらえますか」
 美也子は慎重な手つきで体温計の水銀溜まりの部分を茜の肛門に押し当てながら、上目遣いに薫の顔を見た。
「そう。じゃ、見せてもらうわね」
 薫は美也子の言葉に従って小物入れの前まで足早に歩いて行くと、一番上の引出しをすっと引き開けた。
「あ、これね。うん、確かに茜ちゃんにはお似合いのいい物だわ」
 探している物はすぐにみつかったようで、薫は引出の中に手を入れて目的の物をつかみ上げると、くるりと振り返り、まるで茜に見せつけるかのように、その手を伸ばした。
 みるみるうちに茜の頬が赤く染まる。
「こんなにいい物を用意してもらっていてよかったね、茜ちゃん。ほら、これを吸っているとお口が寂しくないわよ」
 言うなり薫が茜に咥えさせたのは、ゴムでできたオシャブリだった。
 反射的に吐き出しかけた茜だが、圧舌片による容赦ない仕打ちの苦痛が脳裡に甦ってきて、そのままオシャブリを口にふくまざるを得なくなる。
 美也子が小児用の体温計を茜の肛門にずぶりと差し入れたのと、茜がオシャブリを咥えたのとが同時だった。肛門に異物を差し入れられる感触に茜はびくっと腰を震わせ、唇を噛みしめた。その唇の動きが、まるで大好きなオシャブリをちゅうちゅうと音を立てて吸う幼児のように見える。
「そのオシャブリもおじいちゃまとおばあちゃまからのプレゼントなのよ、茜ちゃん。あとで見せてあげるけど、ベビー箪笥も整理箪笥も小物入れも玩具箱も、どれも、おじいちゃまとおばあちゃまからのプレゼントでいっぱいになっているの。箪笥や小物入れは昔のままだけど、中身は茜ちゃんを喜ばせてあげたくて新しい物ばかりになっているのよ。おむつを取り替えて新しいパジャマを着た後で見せてあげるから楽しみに待っていてね」
 美也子は茜の足首を尚も高く差し上げて、いかにも楽しげに言った。
「あ、そうだったの? 私はてっきり美也子さんが用意していたものだと思っていたけど。――じゃ、これも社長と奥様からのプレゼントなのかしら」
 聴診器と圧舌片を診察鞄の中にしまいこんで、薫が興味津々といった顔つきで再び小物入れの引出しを引き開け、プラスチック製のガラガラをつかみ上げると、茜の耳元でからころと振りながら言った。
 もともと、薫は茜を診察するためにこの家を訪れたのではない。診察というのは単なる名目で、本当の目的は美也子の企みに手を貸すことだった。今回の発熱がいつものよりひどいのは事実だったが、それでも本格的な病気などではなく自然に熱が下がるだろうと美也子は直感していた。だから茜の身を案ずるどころか、むしろ、その発熱を名分にして自らの計画を進めることにしたのだ。そのために呼び寄せられたのが薫だった。西村家の一員には決して逆らうことのできない立場にある薫としては美也子の計画を手助けするより他に選ぶべき途はなかった。いや、正確を期すなら、美也子から計画を耳打ちされているうちに軽い興奮を覚え、自ら積極的に関わるようになった薫だったと言ったほうがいいだろう。冷静で腕の立つ女医という仮面の下に隠し持つ支配欲や氷のような冷徹さが美也子に自分と同類の臭いを嗅ぎ取ったのか、知らず知らずのうちに美也子の企てに心惹かれ、妖しい悦びを掻きたてられる薫だった。そんな薫だから、聴診器を茜の胸や腹部に押し当てたのも、診察するふりを演じるためでしかなかった。
 診察するふりをし、医師としての威厳でもって茜の抵抗を封じて美也子の企てに荷担すること。それこそが薫の真の目的だった。



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