ママは同級生



 美也子がソックスに続いてベビー箪笥から取り出したのは、吸水性の良さそうな純白の生地の周囲をレースのフリルで縁取りし、生地の真ん中よりも少し右上のあたりにワンポイントで子犬の刺繍をあしらった、大きなよだれかけだった。
「さ、これを着ければ幾らよだれをこぼしちゃっても大丈夫よ。それに、哺乳壜でぱいぱいを飲む時も役に立つから、ずっと着けていましょうね」
 美也子は茜の目の前で大きなよだれかけをひらひらと振ってみせてから胸元に押し当てた。
「い、いや……よだれかけだなんて、そんな……」
 これ以上更に幼児の装いで身を包まれる羞恥に、茜はすがるような目をして美也子に赦しを乞うた。かろうじてオシャブリを落とすことは免れたものの、唇の端から再びよだれが溢れ出て顎先から滴り落ちる。
 よだれは、美也子が茜の胸元に押し当てたよだれかけ吸い取られて、純白の生地に小さなシミをつくった。
「ほらほら、またよだれをこぼしちゃって。でも、ロンパースは汚さずにすんだわね。だから、ね、赤ちゃんの茜ちゃんにはよだれかけが要るのよ」
 美也子は茜の訴えをまるで無視し、両手を茜の首筋にまわして、よだれかけの紐をきゅっと結わえた。
「うん、よく似合ってるわよ。せっかくだから記念撮影をしておきましょうね」
 よだれかけの紐を固く結び終えた美也子は茜の体からすっと離れ、改めて様子をしげしげと眺めてから携帯電話を構えた。
「あ、ちょっと待って、美也子さん。どうせだから、これを持たせてあげましょう」
 美也子がシャッターボタンを押そうとした時、薫がガラガラを茜の手に握らせた。
「あ、いいですね。うん、そうすると、よけいに赤ちゃんぽくて可愛らしくなるわ」
 美也子は目を細めて頷き、改めてシャッターボタンに指をかけた。
 パシャッという音が何度か聞こえて、そのたびに、少しずつ違うアングルから撮影した茜の姿が液晶画面に映し出された。

 美也子が茜を撮影している間に薫の方は診察鞄からビルケースを幾つか取り出して、必要になりそうな薬剤を小振りのトレイの上に並べていた。もちろん、茜の発熱を抑える薬などでは決してない。薫が仕組んだために体温計は高熱を示しているが、実はもう殆ど平熱に戻っているのだから、解熱剤などまるで必要ではないのだ。
「じゃ、お薬を渡しておきます。間違えないよう注意してきちんとのませてあげてちょうだいね。それと、茜ちゃんがお薬を嫌がっても必ずのませてあげること。――茜ちゃんもいいわね? お薬がにがくても、絶対に嫌がっちゃ駄目よ。茜ちゃん、まだお熱がひいてないんだから、ちゃんとお薬をのまないと病気が余計ひどくなっちゃうわよ」
 美也子が撮影を終えるのを待って、薫は二人に言った。こういう時にこそ、医師としての肩書きと権威が役に立つ。病気を治すためだと言われれば、茜も渋々ながら従わざるを得なくなるのだから。
 薫が用意した薬の一つめは補助栄養添加剤だった。これをミルクに溶かして飲ませれば、ミルクだけでは摂取できない必須栄養素や植物繊維なども最低限の量は与えることができる。つまり、固形食物を摂らせなくても、まるで本当の赤ん坊のように哺乳壜のミルクだけを飲ませていればいいということになる。そして二つは、尿の排泄障害を予防する効果を持つ薬剤。いかめしい説明だが、その正体は利尿剤だ。それも、効き目は弱めに抑えてあるかわりに効果の持続時間が長いタイプの利尿剤で、これを服用すると、6時間ほど効き目が続いて、その間は1時間弱に1度くらいの割合で尿意を覚えることになる。その上、この利尿剤のカプセルには細工がしてあって、薫が入手した一種の向神経薬が混入していた。その向神経薬は随意筋の神経伝達をブロックする効果を持っていて、分量を調整することで、膀胱などの機能を幾らか低下させるようにもできるのだった。要するに、薫が手を加えた利尿剤をのまされた茜は、1時間もしないうちにおしっこをしたくなり、しかも、尿意を覚えた時にはもう膀胱の筋肉が緩み始めてしまうという状況に置かれることになるわけだ。そうして薫が用意した三つめの薬剤は、おむつかぶれになるのを予防するという名目ながら実は強力な脱毛クリームだった。これを4日も塗布し続ければ、茜の下腹部から全ての毛根が失われ、生涯に渡って無毛のままになってしまうという、屈辱のきわみを味わわせる塗り薬だ。それから最後に、解熱効果のある経口薬。もう解熱剤など必要ないのだが、茜を欺くために用意した、その成分は単なる小麦粉の、実は名目だけの解熱剤というわけだ。
「わかりました、絶対にのませるのを忘れません」
 4日分の薬を受け取った美也子はわざとのように大きく頷き、茜の方に振り向いて
「さ、おむつの交換も着替えも終わったし、先生からお薬ももらったし、朝ご飯にしましょうか。もっとも、ご飯と言っても茜ちゃんは哺乳壜のぱいぱいだけどね」
と言うと、薬包紙に包んだ栄養添加剤を持って足取り軽く部屋を出て行った。




 ほどなくしてキッチンから戻ってきた美也子は温かいミルクを満たした哺乳壜をこれみよがしに茜の目の前で振ってみせ、茜が咥えているオジャブリを人差指と親指でつまみ取ると、その代わりにゴムの乳首を茜の唇に押し当てようとした。
 が、その手を薫がそっと押さえる。
「あ、ちょっと待ってちょうだい。ミルクの前にお薬をのませておきましょう。二つとも食前に服用するお薬だから」
 穏やかな物腰で美也子の手を押さえた薫は簡単に説明して、手早くつかみ上げた解熱剤(実は小麦粉を練って固めただけの物)と利尿剤を茜の口に押し込んだ。
 途端に茜の顔色が変わって、薫の手でのまされた薬を今にも吐き出しそうにした。
「吐き出しちゃ駄目よ、茜ちゃん。ちゃんとのまなきゃお熱が下がらないのよ。そうしたら、いつまでもトイレへ行けなくて、ずっとおむつのままなのよ。それでもいいの? それに、お薬を吐き出したら、もういちど喉を診察しなきゃいけなくなるのよ。小さなお薬が二つだけなのに、それをのみこめないんじゃ喉が腫れてるってことになるものね」
 薫は茜の弱みを巧みに突いて薬を吐き出させないようにした。そうして、茜が薬をかろうじて口の中にとどめているのを確認してから、
「いいわ。ミルクを飲ませてあげて」
と美也子に言って押さえていた手を離した。
 すると、待ちかまえていたように茜が哺乳壜の乳首に吸いつき、ちゅうちゅうと音を立ててミルクを飲み始めた。初めて哺乳壜でミルクを与えた時の恨みがましい目が嘘のようだ。
「良薬、口に苦し。――茜ちゃんにのませた薬に、ちょっと味付けしておいたのよ。口に入れた途端、想像もできない苦みが広がって、水でもミルクでも、とにかく何でもいいから飲まないととてもじゃないけど我慢できなくなるような味付けをね」
 呆気にとられる美也子に、くすっと笑って薫が説明した。
「一度この苦みを経験した茜ちゃん、次からは薬を嫌がるでしょうね。でも、無理矢理にでものませるといいわ。そうすれば、薬の苦さに我慢できなくなって自分から哺乳壜のミルクを欲しがるようになるから。ほら、こんなふうに、まるで本当の赤ちゃんみたいに哺乳壜の乳首を咥えて離さなくなるのよ。試しに美也子さん、哺乳壜から手を離してごらんなさい。それで、茜ちゃんがどんな行動を取るか見物しているといいわ」
 そう耳元に囁きかける薫の言葉に従って、半信半疑の顔つきで美也子が哺乳壜を支え持つ手を離した。と、まるで奪い取るようにして茜が両手で哺乳壜を握りしめ、少しでもたくさん乳首からミルクが流れ出るようにと哺乳壜を斜め上に向けて、それまで以上に強くちゅぱちゅぱと音をたててゴムの乳首を吸い始めた。それは、喉の渇きに我慢できず空腹にこらえられなくなった赤ん坊が哺乳壜にむしゃぶりつく姿そのままだった。



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