ママは同級生



 少し遅い昼食代わりのミルクを哺乳壜で飲みながらおむつを取り替えられたのは、午後1時を少し過ぎた時分だった。
 そうして、それから一時間も経っていない午後2時になるかならないかという頃、茜は再び尿意を覚えた。どうしてこんなにおしっこが近くなっちゃったんだろうと訝りながらも、それが薫の用意した薬のせいだとは思ってもみない。いくらなんでも、医師たる地位にある薫が美也子の企みに肩入れしていようとは、まだ世間知らずな高校生の茜には想像もつかない。尿意を感じる頻度が増したのは熱のせいとしか思っていない。
「あら、どうしたの、茜ちゃん? まだお熱があるんだから、ねんねしてなきゃ駄目よ」
 ティーカップを手にお喋りに興じていた美也子と薫だが、ベビーベッドの上で横になっている茜がもじもじと体を動かすのに気づいて、美也子が先にすっと立ち上がった。
「ミルクは一時間ほど前に飲んだからお腹は空いてないと思うんだけど、ひょっとしたら喉が渇いたのかしら。茜ちゃん、目を覚ましてから今まで何度もおむつを濡らしているから体内の水分がかなり排泄されちゃっているでしょうし」
 続いて薫も立ち上がりながら、大きなベビーベッドの枕元に近づく美也子の背中に声をかけた。
「それじゃ、湯冷ましを用意してあげなきゃいけないかしら。――茜ちゃん、喉が渇いたの?」
 薫の言葉を確かめるように、美也子はベビーベッドのサイドレール越しに茜に訊いた。
 二人とも茜がなぜ所在なげに体を動かし始めたのか、その本当の理由はわかっている。わかっていながら、面白半分にからかっているだけだ。
 美也子の問いかけに、茜は無言で小さく首を横に振った。言葉にして否定しようにも、唇に咥えさせられているオシャブリのせいで口を開けない。朝、食事代わりのミルクを飲みながらおむつを取り替えられている途中で哺乳壜が空になった後、ずっとオシャブリを咥えているよう強要されたのだ。昼食代わりのミルクを飲む時やオヤツ代わりのジュースを飲む時は哺乳壜の乳首を吸わされるのだが、それ以外の時は一時の例外もなくずっとオシャブリだ。そのせいで口の中に絶え間なく唾が湧き出し、ちょっとでも油断すると唇からよだれになってこぼれ出して胸元に滴り落ちるため、フリルのレースで縁取りした大きなよだれかけには、うっすらとながら大きなシミが広がっていた。ここで何か言おうとして口を開けば、そのシミが更に大きくなってしまう。
「そう、喉が渇いているわけじゃないのね。じゃ、どうしたのかしら。ママに教えてくれるかな」
 今、ベビーベッドのサイドレールは二段式になっている内の一段目だけを立てている状態だから、美也子が腰をかがめれば茜のオシャブリに手が届く。美也子は茜が喋れるようにオシャブリを指でつまみ取って返答を待った。
 が、もじもじするばかりで茜はなかなか口を開こうとしない。
「ほら、どうしたの。ちゃんとこっちを向いて、どうして欲しいのかママに教えてちょうだい」
 美也子はサイドレールを乗り越えるようにして両手を伸ばし、掛布団を捲り上げて茜の脇の下に掌を差し入れると、上半身を起こさせてこちらに向かせた。
 それでようやく茜がおずおずと美也子の顔を見上げた。
「どうしたの、茜ちゃん?」
 少しばかり強い口調で美也子は重ねて訊いた。
「……ト、トイレ……お願い、トイレへ……」
 しばらく迷ってから、茜は重い口を開いた。朝になって目が覚めてからこれまで、恥ずかしい粗相でおむつを汚しては、そのたびにからかいの言葉をかけられながら美也子の手でおむつを取り替えられていた。それが何度も続いて、とてもではないが耐えられないほどの屈辱を味わってきた。それを今また繰り返すよりは、自尊心も何も擲ってでもトイレへ行かせてくれるよう懇願する方がまだましなように思えたのだ。
「あら、トイレに行きたいの? えらいわね、茜ちゃん。ちっち、今まで教えられなかったのに、ちゃんと教えられるようになったのね。本当に茜ちゃんはお利口さんだわ」
 美也子はおおげさに驚いてみせ、茜の頭を何度も撫でた。が、じきに冷たい笑みを浮かべると、口調だけは優しく続けた。
「でも、そんなに慌ててお姉ちゃんにならなくてもいいのよ。茜ちゃんはまだちっちを教えられない赤ちゃんのままでいいの。これまでずっとおむつを汚してもママは叱らなかったでしょう? 茜ちゃんがちっちをおもらしするたびにママは優しくおむつを取り替えてあげたでしょう? だから、無理してちっちを教えてくれなくてもいいのよ。それに、茜ちゃんはまだお熱が下がってないから、階段でころんしちゃうかもしれないの。そんなことになったら大怪我しちゃうから、トイレには行けないのよ」
「で、でも……」
 茜は美也子と目が合うたびにおどおどと視線をそらしながら力なく首を振った。そのたびに、ツインテールに結わえた髪がゆらゆら揺れ、大きなよだれかけが空気をふくんでふわっと舞う。
「あれを見てごらんなさい、茜ちゃん」
 尚も必死に訴えかけようとする茜の顔をちらと見て、不意に美也子が窓際に歩み寄り、ベッドからさほど離れていない出窓のカーテンをさっと引き開けた。
 美也子が指差す先には、大きな出窓のガラス越しに、勝手口に続く物干し場が見えた。物干し場には幾つものパラソルハンガーが掛かっていて、その一つ一つにたくさんの布地が干してあった。
 目を凝らすと、パラソルハンガーで早春の優しい風に揺れているのは、様々な柄の布おむつだということがわかる。そうして、一番手前のパラソルハンガーに掛かっているのは、赤ん坊用のとはまるでサイズが違うことが一目でわかるほど大きなおむつカバー。更に、その奥の細いロープでは、純白のシーツと二着分のベビードールがゆらめいていた。
「わかるわね? あれはみんな茜ちゃんが汚しちゃった物なのよ。ちっちを教えられなくて、おねしょやおもらしで汚しちゃった物をママがお洗濯して干したのよ」
 寝汗をたっぷり吸ったベビードール。お仕置きの途中でしくじって濡らしてしまった布団から外したシーツ。一時間弱ごとに一度の割合で繰り返しぐっしょり濡らしてしまった布おむつ。昼前に粗相した時、布おむつからおしっこが滲み出して横漏れしてしまったおむつカバー。美也子の言う通り、そのどれもが、茜が汚した物ばかりだった。
「今までこんなにたくさんおむつを濡らしてきたんだから、これからもそうしていいのよ。ちっちを教えてトイレへ行けるようなお姉ちゃんになるのは、ずっとずっと先でいいの。今はちっちを教えられなくておむつを汚しちゃう小っちゃな赤ちゃんでいいのよ」
「で、でも……」
 そよ吹く風に揺れるたくさんのおむつを目の当たりにして思わず頬を赤く染めながら、茜は尚も弱々しく首を振った。今また恥ずかしい粗相をしてしまって物干し場に並ぶおむつの枚数が増えると思うと、とてもではないがやりきれない。
「あ、そうそう。ママ、いいことに気づいちゃったから茜ちゃんにも教えてあげるね。あそこの物干し場、確かに日当たりはいいんだけど、でも、このお家の中にもっと日当たりのいい場所があるのよ。下の物干し場は洗濯機を置いてる場所に近いから便利は便利だけど、おむつを乾かす時は少しでもたっぷりお日様の光を当ててあげたいから、どこかいい所がないかなって探してたらみつけたの。どこだと思う?」
 美也子は突然、茜の訴えをはぐらかすかのように言った。
 そうして、思わず茜が訝しげな表情を浮かべるのを待って
「あのね、このお部屋のバルコニーと、お隣のお部屋のバルコニーなの。もともと子供部屋にするくらいだから日当たりがいいお部屋を選んだんでしょうね。それに二階だから、お庭の木の日陰になりにくいし。ね、これからは、おむつとおむつカバーはバルコニーに干しましょうか。――あ、でも、茜ちゃんが今まで通り下の物干し場の方がいいっていうのなら、ママはどっちでもいいのよ。茜ちゃんの言うことをきいてあげる。だから、その代わり……茜ちゃん、お利口さんだもの、わかるわよね?」
と思わせぶりに続けるのだった。






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