ママは同級生



 それから一週間が過ぎ、カレンダーは三月から四月に装いを変えていた。
 普通の車なら、うららかな日差しが窓ガラス越しに射し込んでクーラーをかけないと暑いほどだろう。しかし、美也子と茜が乗っているリムジンの客席の窓はスモークになっているため、昼前の日光も決して眩しく感じられない。
「もうすぐ着くよ、茜ちゃん。おばあちゃま、茜ちゃんと会えるのを楽しみに待っているでしょうね。なんたって、初めての孫だもの」
 とても走行中とは思えないほど静かな車内、美也子は隣に腰かけている茜に向かって、いかにも楽しげに話しかけた。
 けれど、茜は無言だった。緊張した面持ちで、そうすることがもうすっかり習い性になってしまった唇に咥えたオシャブリをぎゅっと噛みしめるばかりだ。もっとも、美也子の実家である西村家に向かう車に乗せられているのだから、茜が緊張のあまり黙り込んでしまうのも仕方のないところだろう。
 茜が西村家からの迎えのリムジンに乗せられることになったのは、昨日の夕方にかかってきた一本の電話のせいだ。
 電話は美也子の母親・京子からで、翌日から家に誰もいなくなってしまい退屈だから遊びに帰っておいでという内容だった。どうやら、夫(つまり、美也子の父親)である邦夫が全国の支社を視察するため一週間ほどの出張に出るらしく、美也子の兄も邦夫に随伴して家を空けることになったというのだ。それに加えて美也子の姉はゼミの史跡歴訪旅行とかで数日前からいないということで、家には京子一人だけになるらしい。実は若いメイドが何人もいるのだが、彼女たちは自分の業務に忙しくて話し相手にはなってくれそうにないとのことだった。もっとも、退屈だからというのは単なる口実で、高校生にもなって美也子の手で強引に赤ちゃん返りさせられてしまった茜に対する好奇心が抑えきれなくなったというのが本当のところだ。もうすぐ十八歳になるというのに赤ん坊そのままの生活を強要されている茜という娘がどんな少女なのか見てみたいという思いが抑えきれなくなって、美也子に命じて家に連れてこさせることにしたというわけだった。
 美也子は母親の申し出を快諾し、茜に対してはおばあちゃまが誰もいない家で寂しそうにしているからと言葉を端折った簡単な説明をしただけで西村家へ向かうことにした。もちろん、茜が承知する筈もない。赤ん坊そのままの羞恥に満ちた姿を他人の目にさらすなど、到底受け容れられるわけがない。けれど、迎えの車の運転手である大柄で屈強な男性の手から逃れられることはできず、大きなベビーベッドから軽々と抱え上げられて強引にリムジンの座席に押し込まれてしまったのだった。

 茜の家を出発して一時間半ほど経っただろうか。車は、見るからに豪奢な邸宅やお屋敷が建ち並ぶ高級住宅地の一角を走っていた。道路の幅も広く、背の高い街路樹がどこか外国の風景を思わせるような閑静な住宅地だ。
 やがて車は、住宅地の中ほどに建っている洋館の敷地へ滑るように入って行き、青銅製のどっしりした屋根のある車寄せで停車した。スモークの窓ガラスだが、車内から明るい外の様子ははっきり見える。車の到着を待っていたのだろう、若いメイドが四人こちらに近づいてくるのを見て茜が身を固くした。
「お帰りなさいませ、美也子お嬢様」
 先におりた運転手がドアを引き開けると同時に四人のメイドが声を揃えて言い、深々と頭を下げた。
「出迎え、ご苦労様。お母様は中?」
 悠揚迫らぬ身のこなしでリムジンのシートからおり立った美也子はメイドにねぎらいの声をかけ、車寄せに続く玄関の扉をちらと見て言った。
「はい、お嬢様のお帰りを今か今かとお待ちかねでございます。只今ご連絡を差し上げましたので、すぐにおいでになるかと」
 四人の中では年長者らしい、列の右端に立ったメイドが軽く会釈をして応えた。
「そう。それじゃ、茜ちゃんを車からおろしている間に来るわね。中野さん、茜ちゃんをお願いね」
 美也子は得心顔で頷き返し、列の左端に立つ、四人の中でも抜きん出て大柄なメイドに命じた。
「承知しました、美也子お嬢様」
 命じられるまま、中野と呼ばれた大柄なメイドは列からすっと離れると、開いたままになっているドアから上半身だけを車の中に乗り入れるようにして、シートの隅で身を固くしている茜に向かって手を伸ばした。
 けれど、茜は反対側のドアに体を押しつけるようにして身をすくめるばかりだ。
「あらあら、駄目じゃない、茜ちゃんたら。せっかく車からおろしてくれるっていってるのに茜ちゃんがいつまでもそんなじゃ弥生お姉ちゃまが困っちゃうわよ」
 弥生というのが中野の下の名前だろう、美也子は大柄なメイドと並んで車の中を覗き込み、僅かに首をかしげてたしなめるように言った。
 それでも茜は一向にこちらへ来ようとはしない。
「こっちへいらっしゃい、茜ちゃん! いつまでも聞き分けの悪い子のままだったら、ママ、本当に怒るわよ。お仕置きがいやだったら、さっさとなさい!」
 いつまでも身をすくめたままの茜にとうとう業を煮やしたかのように美也子が声を荒げた。
 その強い口調に、思わず茜はびくっと体を震わせ、すがるような目つきで美也子の顔を見上げる。
 ここ一週間以上に渡って、茜は美也子によって徹底的に赤ん坊扱いされてきた。熱が下がらないからという口実で解熱剤(実は小麦粉の固まり)と一緒に利尿剤をのまされて一時間弱ごとに一度おむつを汚すように仕組まれ、飾り毛が二度と生えてこなくなる強力な脱毛クリームを下腹部に塗り込まれ、食事の代わりに哺乳壜のミルクを飲むことを強要された日々。その間、少しでも反抗的な態度をとろうものなら、美也子から容赦ない折檻をくわえられた。掌の形が赤く残るほど何度もお尻を叩かれたこともあるし、お腹が空き喉が渇いているのにミルクを飲ませてもらえなかったこともある。また、美也子の携帯電話に保存してある写真をみんなに見せるわよと脅されたり、自分の部屋のバルコニーに洗濯したおむつを干してもいいのかなと迫られたりといった精神的なお仕置きも受けた。そんな執拗な折檻が幾度となく繰り返され、いつしか茜は心身共に美也子の支配の下に置かれ、『ママの言うことをよく聞く素直でいい子の赤ちゃん』になるよう躾けられてしまっていた。それに加えて、診察と称して二日に一度の割合で訪れる薫と美也子との巧みな連携プレイによって次第に美也子に対する依存心を胸の内に抱くように仕向けられたこともあって、今や美也子の命令にはまるで逆らえない体になっていた。
 そんな茜だが、けれど、初めて会った見ず知らずの他人に取り囲まれる中、まだおむつの取れない小さな赤ん坊そのままの格好で車からおりることはできなかった。叱りつけるような美也子の口調に心は怯えきり、つい、弥生が差し伸べる手に身をまかせかけるのだが、胸の中に渦巻く羞恥の方が勝ってどうしても体が動かない。
「どうしたの、茜ちゃん! ほら、早くこっちへいらっしゃい!」
 美也子が再びきつい口調で命じた。
 だが、茜は弱々しく首を振るばかりで、ますます体を固くしてしまう。
 そこへ、玄関の扉が開く気配があって、髪をアップにまとめた優美な身のこなしの中年女性が姿を現し、涼やかな声で
「帰ってくるなり、そんなに大声を出すもんじゃありません。もう少し静かになさい」
と美也子をたしなめた。
「あ、お母様。ただいま帰りました」
 反射的に振り向いた美也子は、声の主が母親の京子だとわかって慌てて頭を下げた。けれど、じきに不満顔で言葉を返す。
「はしたない大声を出したのは謝るけど、でも、茜ちゃんが私の言うことをきかなくて……」
「でもじゃありません。子供が言うことをきかないからといって叱ってばかりじゃ、おどおどした性格に育ってしまうのよ。いいから、私にまかせなさい。私には三人の子供を育ててきた経験があるんだから」
 美也子の言葉を途中で遮り、京子はつかつかと車のそばに歩み寄ると、美也子を押しのけるようにして車内を覗き込んだ。
 京子の顔を目にした途端、茜がはっと息をのむ。



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