ママは同級生



 京子の顔と、胸の奥底に残っている母親の顔とが瞬時にして重なって見えたのだ。茜の父親である勇作が美也子に心惹かれたのは亡き妻に似た外見のためだが、いくら大人びて見えるとはいっても実際は高校生の美也子だから、内面的にはまだまだ未成熟なところが目につく。それに対して京子は、実の親子なのだから当然だが外見は美也子によく似た美貌の持ち主で、しかも、成熟した大人の女性としての魅力が内面から溢れ出しているかのような雰囲気を漂わせている――もしも母親が生きていたら、こんな人になっていたのかもしれないと茜に思わせるような女性だった。そんな京子と目を合わせたのだから、茜が衝撃を受けて息をのんだのも、ごく当然のことだろう。
「初めまして、茜ちゃん。私が美也子ママのお母さん、つまり、茜ちゃんから見ればおばあちゃまですよ。仲良くしてね」
 京子に名前を呼ばれて、茜の胸がどきんと高鳴る。外見はそっくりなのに、内面はまるで正反対。きつく激しい性格の持ち主である美也子に対して、優しく穏やかな性格の京子。まだ若く攻撃的な美也子に対して、成熟してまろやかな京子。茜は一瞬にしてそう感じ取り、自分の身を包む羞恥に満ちた装いのことも忘れて、思わず心ときめかせてしまった。
「さ、こっちへいらっしゃい。おばあちゃまと一緒にお家に入って、お昼のまんまにしましょう。茜ちゃんはまだ離乳食は無理よってママから聞いているから、ちゃんとぱいぱいを温めてあげていたのよ。だから、ほら」
 京子はまるで本当の赤ん坊に言い聞かせるように優しく声をかけた。
 高校生の茜を赤ん坊扱いするその行為は美也子と同じなのに、当の茜の受け止め方はまるで違った。高校生にもなって哺乳壜でミルクを飲むことを強要されるのは同じなのに、なぜとはなしに京子にそう言われると素直になれそうな気がしないでもない。自ら進んでそうするわけでは決してないが、京子の言うことになら敢えて反抗しないでもいいかなくらいには思えてしまう。
 少し迷った後、茜は反対側のドアから体を離し、幅の広い座席に両手をついて、おそるおそるこちらに近づいてきた。それこそ幼い子供を誘導するみたいに、弥生が茜の目の前でぱんぱんと両手を打ち鳴らし、もうすぐ座席の端という所まで近寄ってきた茜の脇の下に掌を差し入れて体を抱き上げ、車からおろしてしまう。さすがに軽々とというわけにはゆかないものの、大柄な弥生にとって小柄な茜を抱き上げることは、さほど難しくはないようだ。
 弥生は、車からおろした茜を、車寄せから玄関へと続く石造りの通路に、京子と向かい合わせになるようにして立たせて手を離した。
 途端に茜の脚がよろめいて、仰向けに倒れてしまいそうになる。
 それに気づいた弥生が再び手を差し伸べて茜の体を支えたから尻餅をつかずにすんだものの、弥生が体を支えた後も茜の両脚は小刻みに震えている。そのままでは自力で立っているのが無理だということは誰の目にも明らかだった。
 茜はまだ真実に気づいていないが、茜が自分の力だけでは立っていられなくなってしまったのも、実は美也子の企みの結果だった。この一週間、茜は大きなベビーベッドに監禁状態になっていたと言っていいだろう。熱が下がらないからという偽りの理由で階段の昇降を許されず、薬剤の効果もあって、トイレへ行くことができずに排泄はおむつの中だし、食事もベビーベッドに寝そべったまま哺乳壜のミルクを飲まされる日々。背の高いサイドレールのせいで一歩もベビーベッドから床におり立つことがかなわず、所在なげに横になっているしかない毎日。一週間以上に渡って寝たきりの生活を続けていれば、よほど基礎体力に優れた者でない限り脚の筋肉は細く無力になってしまう。それでも、僅かでも自分の足で歩く機会が与えられていたのなら、自分の脚が弱まっていることに気がついて、ベッドの上でもできる限りの運動をしたかもしれない。けれど、食事も排泄も全てを美也子の手に委ねることを強要された茜には、そうすることさえできなかった。そのため、茜は自分の両脚からどんどん力が抜けていってしまっていることに気づくこともなく、リムジンの運転手をつとめる男性に抱きかかえられて座席に押し込まれ、ここまで連れて来られて初めて自分の体に起きた異変を知る羽目になったのだった。
「あらあら、まだあんよもできない赤ちゃんだったのね、茜ちゃんは」
 弥生の手で腰を支えられてやっとのこと立っている茜に向かって、京子がわざとらしく驚いてみせた。その口調がからかっているように聞こえるのは、決して茜の気のせいなどではない。
 その瞬間、茜は覚った――ついさっき、リムジンのシートに座って顔を会わした時には、京子が美也子とはまるで正反対の性格の持ち主だと感じたが、本当は決してそうではないということを。成熟した女性の落ち着いた物腰やどことなくぬくもりを感じさせる雰囲気のせいで茜は京子に亡き母親の面影を重ねたのだが、こうして改めて正面から向かい合って、どこか皮肉めいて聞こえる声をかけられると、京子と美也子とは外見だけでなくその内面も、親子というよりもまるで双子のような合わせ鏡になっているのがひしひしと実感される。
(そういえば、初めて美也子さんと会った時にも同じように感じたんだったっけ)やるせない思いに、茜は思わず唇を噛みしめた。が、実際に唇から伝わってきたのは、オシャブリを噛む頼りない感触だった。
「あらあら、そんなに強くオシャブリを吸うなんて、茜ちゃんは本当にオシャブリが大好きなのね。でも、仕方ないかな。まだあんよもできない赤ちゃんだものね」
 京子の口から紡ぎ出される言葉は、そう思って聞くと、美也子の口をついて出る言葉と瓜二つだった。
(こんな人のことを――こんな人やこんな人の娘のことを一時でもお母さんとだぶらせてたなんて……)不意に茜は無性に悲しくなってきた。だが、おむつをあてられ、ベビードレスを着せられて胸元を大きなよだれかけに覆われた惨めな姿では何もできない。と、若くして亡くなった母親のことが恨めしくさえ思えてくる。(どうしてよ。どうして、私を残して死んじゃったのよ。それに、どうして私がおねしょをしちゃうような体に生んだのよ。お母さんが死んで、お祖母ちゃんが死んで、それで私、毎晩毎晩おねしょなんてするようになっちゃって。そんなことさえなきゃ、こんなに恥ずかしい格好をさせられることもなかったかもしれないのに)(お母さんが死んだ時、とても悲しんだ。なのに、死んでからずっと時間が経つ今まで、どうしておねしょなんかで私をもっと悲しませるの? 私、何か悪いことした?)母親に対する様々な思いが一気に噴出してくる。そうして、それをどうしても止められない自分自身が無性に腹立たしい。気持ちが千々に乱れ、今にも泣き出しそうになってしまう茜。
「あら、どうしたの、茜ちゃん? せっかくおばあちゃまと会えたのに、そんな悲しそうな顔しちゃって」
 切ないくらい哀しい色を瞳に浮かべて京子と向き合う茜の様子を目にして、茜が京子の本性に気づいたらしいと直感した美也子。けれど、かといって、それで美也子の企みが頓挫するわけでもない。薫と美也子とで演じてきた連携プレイの役割を変えて美也子が厳しい母親を演じ、京子が優しい祖母を演じることで茜の心を更に徹底的に絡め取ろうと仕組んだのを今回は見破られたとしても、これからチャンスは幾らでもあるのだ。
「本当だ。車の中で初めて会ったときはあんなに嬉しそうなお顔をしてくれたのに、どうして急にそんなお顔になっちゃったのかな。茜ちゃんがそんなお顔をするとおばあちゃまも悲しくなっちゃうじゃない。喜んでもらおうと思ってプレゼントした可愛いお洋服を茜ちゃんが着てきてくれたから、おばあちゃまは嬉しくて仕方ないのに、どうして茜ちゃんはそんなお顔をするの?」
 京子が美也子に調子を合わせて問いかけるように言い、丈の短いスカートの上から茜のおむつカバーのお尻をそっと撫でた。
 京子の言葉に改めて自分の屈辱に満ちた装いを指摘され、物哀しさに羞恥がない混ぜになって、茜の顔が歪んだ。



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