ママは同級生



 今、茜が身に着けているのは、歩き始めたばかりの頃の赤ん坊が着るようなベビードレスだった。三分袖のパフスリーブは袖口を細かなフリルで絞って柔らかな丸みをもたせ、胸元にあしらった二段の飾りレースと襟元のリボンが女の子らしい可愛らしさを際だたせて、ウエストを絞り込まずにふんわり広げたラインにしたことで幼児らしさを強調したベビードレス。まだあんよが上手ではない赤ん坊の足運びの妨げにならないように丈を短く仕立てたデザインになっているため、スカートの裾から、ドレスと同じ生地でつくったオーバーパンツが三分の一ほど覗いている、いかにも幼児めいた装いだ。ベビードレスの胸元を大きなよだれかけが覆っていて折角の可愛らしい飾りレースとリボンを隠してしまっているのが残念だが、ずっとオシャブリを咥えているために時折こぼれ出るよだれがベビードレスを汚さないようにするためには仕方ないところだ。頭は、後ろをツインテールに結わえ、サイドと前にふんわりボリュームを持たせた髪の毛を比較的大きなフリルのレースで縁取りしたボネットでふわっと包み込んでいる。足の方は、くるぶしよりも少し上までの短めのソックスに、甲のところが幅の広いベルトになっている幼児用の靴といういでたちだった。
「ほらほら、せっかくおばあちゃまからいただいた可愛いお洋服を着てるんだから、そんなお顔をしちゃ駄目」
 それこそ幼児をたしなめる口調で美也子は言って、ふと思い当たったように続けた。
「あ、そうか。もうお昼だし、お腹が空いているのね、茜ちゃん。じゃ、お家に入ってぱいぱいにしましょう。おばあちゃまが用意してくれたぱいぱい、きっとおいしいわよ」
「なんだ、そうだったの。だったら、ぱいぱいほしいのって教えてくれたらよかったのに。おばあちゃま、すごく心配しちゃったんだから。あ、でも、まだあんよもできなくてずっとオシャブリを咥えてる赤ちゃんだからちゃんと教えられないんだっけ」
 京子はくすくす笑って言い、茜を抱いて屋敷の中へ連れて行くよう弥生に命じた。

 屋敷の中は、外から見るよりもずっと広くて、玄関だけで普通の家の一部屋くらいありそうだった。それに、外観は洋館なのだが、内部の造りは幾らか和洋折衷気味で、外国のように靴のまま屋敷の中を歩き回るのではなく、玄関で靴を脱いで上がりがまちから廊下に上がるというような造作になっていた。
 茜を横抱きにして上がりがまちの前に立った弥生は、美也子が靴を脱がせるのを待って、茜を四つん這いの姿勢で廊下の端におろした。と、先に廊下に上がっていた京子が腰をかがめ、茜の顔を見おろして、ぱんぱんと手を打つ。
「さ、はいはいでついてらっしゃい。ぱいぱいが用意してあるお部屋へ連れて行ってあげるから、一生懸命はいはいするのよ」
 そう言って京子は手を打ち鳴らしながら、後ろ向きにゆっくり歩き出す。
 けれど、茜が動き出す気配はない。もっとも、それも当たり前の話だ。赤ん坊の装いに身を包まれた上に、まだあんよもできない赤ん坊そのままの行動を強要されて素直に従える筈がない。
「ほら、どうしたの、茜ちゃん。ぱいぱいをあげるわよっておばあちゃまが呼んでくれてるんだから、ほら、ちゃんとはいはいしなきゃ駄目じゃない」
 そう言って美也子がお尻を押しても、茜は頑なにその場から動こうとしない。
 しかし、茜がそんなふうにして二人に抵抗してみせられたのも、ほんのしばらくの間だけだった。
 京子が手を打ち鳴らし続け、美也子がおむつカバーの上からお尻を押し続けているうちに、茜の顔つきが変わってきた。それまで茜の顔に浮かんでいた、理不尽な仕打ちに対するやりきれなさと羞恥とがない混ぜになったなんとも表現しようのない表情が、次第次第に、切羽詰まったような表情に変わってきたのだ。
 その表情に美也子は見憶えがあった。
「どうしたの、茜ちゃん。どこか具合が悪いのかな? ぽんぽんが痛いの?」
 美也子は、茜の顔に浮かんだ表情が何を意味しているのか充分に承知していながら、まるでそんなこと知らぬげに、しれっとした顔で言った。
「……ち、ちっち……」
 茜は、しばらく迷った後、諦めたような顔つきで力ない声を絞り出した。
「あ、ちっちが出ちゃったのね。大変大変、すぐにおむつを取り替えてあげなきゃね」
 茜の返答を聞いた美也子は、わざとおおげさに驚いてみせた。
 それに対して、茜は弱々しく首を振って再びおずおずと口を開いた。
「ちっち、出てないの。でも、ちっち、出ちゃいそうなの」
 この一週間、茜は幼児言葉を使うよう強要されていた。ミルクではなく、ぱいぱい。眠るのではなく、ねんね、おねむ。お腹ではなく、ぽんぽん。ベビーパウダーではなく、ぱたぱた。そうして、おしっこではなく、ちっち。一言でも大人らしい言葉を口にした途端、容赦ないお仕置きを受ける日々が続いて、いつしか、ひどい羞恥を覚えつつも幼児言葉を使うのが習い性になっていた。
「あら、ちっち、出ちゃいそうなの? ちっちを教えられるなんて、お利口さんなのね、茜ちゃん。あんよもできないし、ぱいぱいが欲しいって言えない小っちゃな赤ちゃんなのに」
 茜の今にも消え入りそうな弱々しい返答に対して京子は皮肉めいた声をかけ、美也子の方に向き直って言った。
「でも、美也子。あなた、茜ちゃんはずっとおむつを汚してるのよって言ってなかった? 美也子が勇作さんの家に行ってからずっと、茜ちゃんはトイレを使ってないって」
「うん、そうよ。茜ちゃん、トイレへは一度も行ってないわよ。だって、二階の部屋からトイレのある一階まで階段を使わなきゃいけないんだけど、病気だったから危なくて、トイレへ行かせられなかったのよ」
 なんでもないことのように美也子が言った。
「ふぅん。じゃ、茜ちゃん、ちっちを教えられなくておむつを汚しちゃうんじゃなくて、ちゃんと教えられるのね?」
 京子は確認するように重ねて訊いた。
「うん、ちゃんと教えてくれるわよ。おしっこが出そうになったら『ママ、ちっち出ちゃうよ〜』って教えてくれるの。それで、おむつを汚しちゃったら『ママ、ちっち出ちゃったの。ごめんなさい』って可愛い声で教えてくれて、『ママ、茜のおむつ取り替えてください』っておねだりするんだから、本当に可愛い赤ちゃんよ、茜ちゃんは」
 美也子はすっと目を細め、自分の足元で四つん這いになっている茜を見おろして言った。
 この一週間、茜は、幼児言葉を使うよう強要されたと同時に、おしっこが出そうな時もおしっこが出てしまった後も、そのことを美也子に報告するよう強要されていた。但し、「おしっこをしたいからトイレへ行かせてください」「おしっこが出てしまいました」というようなちゃんとした言葉遣いでの報告は許されず、いかにも幼児が口にするような「ちっち、出そうなの」「ちっち出ちゃった」というようなたどたどしい幼児言葉しか認められなかった。それに反した場合は、おむつが汚れても取り替えてもらえず、放っておかれるという折檻が与えられたものだ。おしっこで濡れただけならともかく、うんちで汚れたおむつのまま何時間も放置される苦痛を一度でも味わうと、もう二度と反抗する気にはなれなかった。離乳食さえ口にできずミルクしか飲めない毎日だったから、量は少なく、どちらかというと水っぽいゆるゆるのうんちなのだが、それでも、おむつの中はぬるぬるにべとつくし、すぐに下腹部が痒くてたまらなくなるのだ。もちろん、おしっこが出そうだと教えても、美也子が茜にトイレを使うことを許すわけがなかった。最初から許す気もなく、茜が幼児めいた言葉で「ママ、ちっちなの」と恥ずかしそうに告げる様子を眺めて楽しむことを目的に仕組んだ企てだったのだから。
「……ママ、ママぁ……ちっち、ちっち出ちゃうよぉ……」
 自分をこんな惨めな目に遭わせている相手をママと呼ぶことを強要され、トイレへ行かせてくれるよう懇願する屈辱はどんなだろう。それは、味わったことのある者にしかわかる筈のない、想像を絶する屈辱だろう。けれど、そうすることを容赦ない折檻で体に滲みて教え込まれた茜には、いよいよ高まってくる尿意に耐えかねて、すがるような目で美也子の顔を見上げ、甘えるような声で救いを求めることしかできなかった。



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