ママは同級生



「そう、出ちゃいそうなの。じゃ、茜ちゃんがせっかくちっち教えてくれたんだから、トイレへ行こうね。もうお熱も下がったし、ここからなら階段を使わなくてもいいから、はいはいでついてらっしゃい。トイレは廊下の一番奥だから、頑張ってはいはいしてね」
 京子に代わって、今度は美也子が手を打ち鳴らしながら茜の前を歩き出した。
 その時には、さっきからずっと同じ姿勢をとっていた茜の手と足がぷるぷると小刻みに震え始めていた。ずっとベビーベッドで横になっていたせいで両脚の筋力が落ちただけでなく、哺乳壜くらいしか持たない生活が続いたせいで両手の力もすっかり弱くなってしまっている。そんな状態で四つん這いの姿勢を続けたものだから、這って前に進むどころか、自分の体重を支えるのが精一杯だ。
「……うぐぅ……」
 どうにか最初の一歩を踏み出すだけで茜の口から弱々しい呻き声が漏れる。
 はいはいで京子につい行くのをさっきはあれほど頑なに拒んだ茜だが、今は必死になって手足に力を入れてもなかなか体が前に進まないのが苛立たしくて、ぎゅっとオシャブリを噛みしめるばかりだ。
「ほらほら、頑張って。こっちよ、こっちへいらっしゃい」
 美也子が茜の前に立ってゆっくり歩き始めた直後に姿を消した京子が、どこからかガラガラを持って戻ってくると、茜の目の前で大きく振ってみせた。
 からころ。からころ。
 京子が手をふるたび、ガラガラの奏でるかろやかな音が、幾つも並んだドアに反響して長い廊下に響き渡る。一刻でも早くトイレへ行こうとして、慣れない姿勢で盛んに身をよじる茜。その前で腰をかがめて何度も手を打ち鳴らす美也子と、ガラガラを振る京子。そんな三人の姿は、優しい祖母と若い母親と幼い赤ん坊という仲睦まじい家族そのままだった。

 茜が手足の動きを止め、這い進むのをやめたのは、最初の所からまだ五メートルも進んでいない、廊下の一番奥にあるトイレからはまだまだ距離のある場所だった。
「どうしたの、茜ちゃん。ちっち出ちゃいそうなんでしょ? トイレへ行きたいんでしょ?」
 そう言って美也子が手を打ち鳴らし、京子がガラガラを振るが、茜の手足はぴくりとも動かない。もうすっかり体力も使い果たしてしまったのだろう、弱々しく首を振ると、廊下にぺたんとお尻をおろして力なく座りこんでしまった。
「……トイレへ連れてって……茜、もうはいはいできない……トイレへ連れてってよ、ママぁ……」
 美也子のことをママと呼ぶ屈辱も、口を開くたびによだれがこぼれ出してよだれかけにシミをつくる羞恥も忘れたかのように、茜は美也子の顔を振り仰ぎ、声を震わせて訴えかけた。
 まるで力の入らない手足をどう動かしても、進む距離はたかがしれている。その上、硬いフローリングの廊下のせいで膝にひどい痛みが走る。それに加えて、下腹部に力を入れればたちまち漏れ出そうなほどに尿意がますます高まってきて、もうとてもではないがこれ以上は這い進むことができなくなってしまったのだ。こうなっては、美也子に助けを求める以外、茜にできることはない。
「……トイレ、トイレなの。茜、トイレに行きたいんだってば……」
 茜は幼児めいた口調で繰り返し懇願した。
 しかし、美也子は茜の顔を冷たい目で見おろして首を横に振る。
「ママも連れて行ってあげたいけど、でも、駄目よ。ちっちを教えられるだけじゃ、まだお姉ちゃんじゃないのよ。ちっちを教えて、自分でちゃんとトイレへ行けるようにならなきゃ、パンツのお姉ちゃんになれないの。だから、いつまでもおむつが嫌なら自分でトイレへ行けるよう頑張らなきゃ」
 首を振りながらそう言う美也子の言葉に茜は絶望的な表情を浮かべ、少し迷ってから、美也子の傍らに立つ京子の顔を躊躇いがちに見上げた。
「……お、おばあちゃま、茜、ちっちなの。ちっち出そうだから、トイレへ連れてってほしいの。お願いだから、おばあちゃま……」
 初めて顔を会わせる人間に取り囲まれておむつを汚したりしたらどんな恥ずかしい目に遭わされるかしれたものではない。もう、なりふりかまってなどいられなかった。茜はすがるような目で京子の顔を見上げて懇願した。
 しかし、京子も無言で首を横に振るだけだ。
 茜は、廊下にぺたんとお尻をつけて座りこみ、両脚をだらしなく広げ、両脚の間の床に両手の掌をついて、傍らに控える弥生の顔をおずおずと見上げた。
「……お願いだから、弥生お姉ちゃま……」
「駄目なのよ、茜ちゃん。奥様とお嬢様のお許しが出ないと、私は何もしてあげられないの。ごめんね、茜ちゃん」
 茜の言葉を途中でやんわり遮って、弥生は申し訳なさそうに首を振った。同時に、他のメイドたちも、茜と目を合わせる前に首を振る。
 そうしている間にも、尿意は更に高まってきていた。美也子は一昨日には茜に利尿剤をのませるのをやめていたから、一時間弱ごとに尿意を覚えるようなことはない。とはいえ、もともと二時間に一度くらいの割合でトイレへ行くのが常の茜だから、車に乗せられて今までが精一杯だ。それに、利尿剤の服用は中断したものの、膀胱の神経には幾らか副作用めいたものが残っていて、尿意を覚えてから十分間くらいしか我慢できない体になってしまっている。
 茜は廊下の奥に向かって右手を差し伸べてオシャブリをぎゅっと噛んだ。
 その直後、廊下にお尻をぺたんとつけて座り込む茜の下腹部がぶるっと震えた。唇がわなわなと震え出し、直前にぎゅっと噛みしめたオシャブリがよだれの糸をひきながら茜の口を離れ、大きく開いた両脚の間にぽとりと落ちる。
「……ちっちなの。茜、ちっち出ちゃうの……」
 うつろな目で京子と美也子の顔を見上げる茜の唇から弱々しい呟き声が漏れ出る。
「そうよ。茜ちゃんはちっちなのよ。茜ちゃんは赤ちゃんだから、おむつにちっちなのよ。でも、ちゃんとちっちを教えられていい子だったね。自分でトイレへ行くって頑張ったよね。だけど、もういいの。まだパンツのお姉ちゃんにならなくていいから、おむつの中にちっち出しちゃっていいのよ」
 すっと廊下に膝をついた美也子が茜の耳元に唇を寄せて、一言一言をしっかり言い聞かせるように囁きかけた。
「今朝まではずっとベビーベッドからおりられなくておむつを汚しちゃうのも仕方なかったけど、今は自分でトイレへ行きかけたわよね。なのに、おむつを汚しちゃってるのよ。ママ、茜ちゃんがトイレへ行く邪魔なんてしなかったよね。それどころか、トイレの場所もちゃんと教えてあげたのに、茜ちゃんはトイレへ行く途中でおむつを汚しちゃってるの。でも、いいよね。茜ちゃんはいつまでもおむつ離れできない赤ちゃんなんだから」
 美也子の言う通りだった。背の高いサイドレールのせいで大きなベビーベッドに閉じ込められていた間なら、例えおむつを汚してしまっても、自分ではどうすることもできなかったからだと自分自身に言い訳することもできなくはなかった。全ては美也子のせいだと思い込むこともできただろう。しかし、今はまるで状況が違う。美也子の企みのせいで手足に力が入らなくなって、そのためにゆっくりしか這い進むことができなくて間に合わなかったからとはいっても、自力でトイレへ行こうとしてその途中でおもらしをしてしまったのは紛れもない事実だ。トイレを目前にして(というには、いささか距離が離れているかもしれないけれど)おむつを汚してしまったという事実から目をそむけることはできない。そう、今や茜は自身に対して言い訳をする術さえ失ってしまったのだ。




 両手で哺乳壜を支え持ってミルクを飲む茜の目には、かろやかなメロディーを奏でながらくるくる回るサークルメリーが映っていた。茜が寝かされた大きなベビーベッドの傍らには京子と美也子、それにメイドの弥生が立っている。



戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き