ママは同級生



 体格の良さにばかり目を奪われていたため気づかなかったが、美也子に言われ、改めてそう思って見ると、第一印象とは違って弥生の顔つきが随分と幼いことがわかる。確かに、中学校を卒業したばかりだと言われればその通りだろう。
「それと、もう一つ、いいことを教えてあげる。弥生お姉ちゃまは、茜ちゃんや美也子ママと同じ《啓明女学院・高等部》に通うことになっているの。それで、啓明はここからだと遠いから、茜ちゃんのお家に住むことになるの。よかったわね、茜ちゃん。大好きな弥生お姉ちゃまとお家でも学校でもずっと一緒にいられて」
 何度も睫毛をしばたかせて弥生の顔を見上げる茜に、京子が、思ってもみなかった事実を告げた。
 茜が、弥生の手に抱かれたまま、大きく両目を見開いて京子の方に振り向いた。
「心配しなくても、ちゃんとパパのお許しをいただいているわよ。弥生お姉ちゃまのお家の事情を説明したら、苦学生の手助けになるならっていって、すぐに賛成してくれたわ」
 美也子が、京子の傍らにすっと寄ってきて言葉を引き継いだ。
「本当によかったわね、茜ちゃん。お家に帰っても、大好きなママやお姉ちゃまと一緒に暮らせるのよ。これまで寂しかった分、赤ちゃんに戻ってうんと甘えるといいわ。同い年のママにおむつを取り替えてもらって、二つ年下のお姉ちゃまに哺乳壜でミルクを飲ませてもらって、うんと甘えなさい」
 弥生お姉ちゃまは茜ちゃんのお世話係――その言葉の本当の意味がようやく茜にもわかった。この屋敷にいる間だけ面倒をみるのではなく、茜の家に戻った後も、更には学校でも、美也子の手助けをして茜の世話をするのが弥生に与えられた仕事なのだ。いや、単に世話をするだけにとどまるわけがない。茜が美也子の手から逃れないように見張る役目もおおせつかっているに違いない。
「い、いや……年下の子に赤ちゃん扱いされるだなんて、そんなの……そんなの、絶対いやぁ!」
 茜は改めて弥生の顔を見上げ、京子と美也子の顔に視線を走らせ、再びおずおずと弥生の顔に目を向けた後、美也子に強要されている幼児言葉も忘れて金切り声をあげた。
 その弾みにオシャブリが茜の口を離れて顎先から胸元へ転がり、吸水性のいいパイル生地でできた大きなよだれかけの上に落ちて止まった。それを追いかけるように唇からよだれの条が滴り落ちて、オシャブリの近くにシミをつくる。
「でも、茜ちゃんは廊下で『お願いだから、弥生お姉ちゃま』って言ってトイレへ連れて行ってくれるように頼んだわよね? もうあの時から中野さんは『お姉ちゃま』なのよ。いくら茜ちゃんの方が本当は二つ年上でも、お姉ちゃまはお姉ちゃまなの。いつもおむつを汚しちゃう赤ちゃんの茜ちゃんから見れば、たとえ幼稚園の年少さんでもお姉ちゃまなのよ。わかったわね?」
 美也子は、よだりかけの上に落ちたオシャブリを再び茜の口に突っ込み、有無を言わさぬ口調で言った。
 が、今回ばかりは茜も抵抗を続ける。弥生に抱かれたまま茜は激しく首を振り、これでもかと身をよじった。
「あ、駄目よ、茜ちゃん。そんなに暴れちゃ落ちちゃうじゃない」
 慌てて弥生があやすように言いながら体を揺すり上げるのだが、茜の抵抗は止まらない。
「あらあら、何をぐずっているのかしら、茜ちゃんは。そうか、抱っこに飽きて自分で歩きたいのね。でも、茜ちゃんはまだ伝い立ちもできないし、はいはいも上手にできない赤ちゃんなのよ。どうしたらいいでしょう、本当に困ったわね」
 まるで困ったふうもなく、言葉だけで困ったわねと言いながら、京子が美也子に部屋の隅を目で指し示した。
 京子が示した方に目をやった美也子は、そこに置いてある物に気がつくと、にっと笑って頷き返し、足早に部屋の隅に歩み寄った。
「いいわよ、中野さん。どうやら茜ちゃん、自分のあんよで歩きたがっているみたいだから、この中へおろしてあげてちょうだい」
 京子は、部屋の隅に置いてあった物を美也子が押して戻ってくるのを待って弥生に言った。
「あ、この中ですね。承知しました、奥様」
 弥生は、美也子が押してきた物が何なのかわかると、ぱっと顔を輝かせて茜の体を静かにおろした。
 美也子が持ってきたのは、大きな歩行器だった。まだ自力では歩けない赤ん坊を乗せて遊ばせ、あんよの練習をさせるための丸っこい乗り物だ。
 けれど、京子が用意しておいたのは普通の大きさの歩行器などではない。茜の体に合わせて造らせたのが一目でわかるほど大きな特別注文の歩行器だった。
「さ、これなら自分のあんよで歩けるわね。元気に動き回って何かにぶつかっても大丈夫なように体を守る囲いも頑丈に作ってあるから、ほら、あんよを動かしてごらん」
 弥生が茜の体を歩行器の中におろし、お尻をサドルに載せるのを待って、京子は軽く腰をかがめて言った。
 本来は幼児の乗り物である歩行器のサドルに座らされた茜は顔を真っ赤に染め、そこから逃れようと盛んにもがいた。けれど、茜がぴんと脚を伸ばしてようやく爪先が床に届く高さにサドルの位置が設定してあるため、床を蹴るようにして歩行器から抜け出すことはできない。もっとも、仮にサドルがもっと低い位置にあったとしても、手も足も思ったように力を入れられない体では、周囲のフレームをつかんで身を乗り出すようにして逃げ出すこともできないだろう。

「出して、ここから出してよ……お願いだから」
 さんざん身をよじり、力の入らない手足をばたつかせた後、どうしても歩行器の中から抜け出せそうもないことを覚った茜は、弱々しい声で懇願した。
 が、茜の訴えに耳を貸す者はいない。
「ねぇ、茜ちゃん。ママはずっと注意してあげたわよね、茜ちゃんは赤ちゃんなんだから大人みたいな喋り方は似合わないわよって。なのに、またそんな口のききかたをしているのね」
 美也子は、ぞくっとするような流し目を茜の顔にくれた。
「だって、だって……私は赤ちゃんなんかじゃない。高校生なんだから、こんな歩行器なんて……」
 茜は、おどおどした様子ながらも、なけなしの気力を振り絞って訴えかけた。
「ふぅん、茜ちゃん、赤ちゃんじゃないんだ。じゃ、毎日何度もおむつを汚しちゃうのは誰かしら。自分じゃ伝い立ちもできないのは誰かしら。それどころか、はいはいもできなくて廊下でおむつを汚しちゃったのは誰かしら。お仕置きの途中でおもらししちゃってお布団を汚しちゃったのは誰だったかしら」
 美也子は茜の顔を正面から見おろして言い、よだれかけで乱暴に茜の口のまわりをぬぐって続けた。
「それに、ほら、オシャブリを咥えたままお喋りするからよだれがこぼれてよだれかけを汚しちゃって。これが赤ちゃんじゃなくて何なのかしらね」
「……で、でも、それは……みんな、美也子さんのせいで……」
「あ、そう。みんな、私のせいだって言いたいのね。いいわ、そう思いたいなら思えばいい。でも、だったら、茜ちゃんが赤ちゃんじゃないってところを見せてちょうだい。今だったら歩行器に乗ってるから、ちゃんと歩けなくても自分で移動できるわよね。なら、自分でトイレへも行けるわよね。いいわ、私もおばあちゃまも弥生お姉ちゃまも絶対に手を出さない。絶対に邪魔しないから、今度おしっこしたくなったら自分でトイレへ行ってごらん。今度おむつを汚さなかったら、茜ちゃんは赤ちゃんじゃないって認めてあげる」
 美也子はきっぱり断言して、茜を乗せたままの歩行器を広い廊下に押し出し、内側からバタンと音を立ててドアを閉めてしまった。




 それから二時間近くが過ぎて、もうすぐ午後三時になろうかという頃。
 まるで人の気配のない廊下を、合成樹脂のキャスターが転がるきゅっきゅっという音を途切れ途切れに立てながら、茜の乗った歩行器がぎこちなく動き始めた。



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