歩行器に乗せられたまま独り廊下に放り出された茜はどうしていいのかわからず、ただ途方にくれるばかりだった。部屋に戻して欲しいと言ってドアを叩くことなどできるわけがないし、かといって、不案内な屋敷の廊下に独りぽつんと置かれて何かできることがある筈もない。しかも、こうして独りでいると、自分がこれから先どんな目に遭わされるか知れたものではないという恐怖めいた不安がじわじわと高まってきて、いてもたってもいられなくなってくる。
けれど、そんなふうにして歩行器に乗ったまま放心したように独り佇んでいられる時間も限られていた。もともとおしっこが近い体質に加えて、春とはいえ底冷えのする廊下に放置されたものだから、美也子の手でおむつを取り替えられる姿を弥生の目にさらしてから二時間も経たないうちに尿意が高まってきて、いやでも廊下の奥にあると教えられたトイレへ向かわざるを得なくなったのだ。
脚をびんと伸ばすと、ようやく爪先が廊下に届く。歩行器のサドルに跨った茜は、まるで力の入らない両脚を交互に動かしてぎこちなく廊下を蹴り続けた。そのたびに、サドルに跨っているため体重のかかる下腹部が柔らかい布おむつに撫でさすられて、いいようのない疼きを感じる。茜は、思わず口から漏れ出しそうになる喘ぎ声を押し殺すためにオシャブリをぎゅっと噛みしめ、歩行器のフレームを握りしめて、のろのろと歩行器を進めていった。
ようやくのこと廊下の突き当たり付近まで進んだところで、他の部屋のとは少しばかりデザインの異なるドアがあることに気がついた。
そこがトイレだと直感した茜は、ドアのノブを掴もうと右手を伸ばした。が、歩行器の前部は幅を広くして食器や哺乳壜を置くトレイになっているため、手を伸ばしてもノブには指先も届かない。仕方なく茜はおぼつかない足取りで何度も廊下を蹴って歩行器の方向を変え、体の右側をドアに向けるようにして改めて右手を伸ばした。そうすると、かろうじてノブをつかむことができる。茜は精一杯力を入れてノブを廻し、やっとの思いでドアを引き開けた。
ドアが開くと、トイレの入り口から、清掃の行き届いた清潔そうな便器が見えた。
茜は再び歩行器の向きを変えて正面を向き、脚を伸ばして廊下を蹴った。
けれど、歩行器は僅かに進んだだけで、すぐに止まってしまう。
慌てて周囲を見まわした茜は、ようやく気がついた。他の部屋の入り口に比べてトイレの入り口がかなり狭い雑作になっているため、歩行器のフレームが引っかかって通り抜けられないのだ。歩行器の幅が最も狭いのが左右方向で、それでも入り口を通り付けられないとなると、それ以上は幾ら向きを変えても無駄だということは明らかだった。それでも茜は諦めることもできず、何度も何度も廊下を蹴っては、そのたびに歩行器の進行を阻まれるばかりだった。
背後から美也子の声が聞こえたのは、茜が廊下を何度蹴った後のことだろう。
「あらあら、すっかり元気になったわね、茜ちゃん。やっぱり、自分のあんよで動けるのが嬉しいのかな」
ひやかすような美也子の声に茜がはっとして振り返ると、三人が揃ってこちらの様子を眺めていた。歩行器のキャスターが転がる音が聞こえ出したと同時に部屋から出て歩行器のあとをついてきていたのだが、トイレへ行くことしか意識のなかった茜が、それに気づかなかったのだ。
「でも、えらいわね、茜ちゃん。ママの言いつけを守ってちゃんと自分のあんよでトイレまで来れたんだもの。ひょっとしたら、パンツのお姉ちゃんになれるのもすぐかもしれないわよ」
わざとらしい優しげな笑みを浮かべて京子が言葉を継いだ。
「でもね、茜ちゃん……」
他の二人とは違って、弥生は少しばかり茜を憐れむように言った。
「……歩行器のままじゃトイレへ行けないの、茜ちゃんもわかってるでしょ? だから、いつまでもそんなことしてないで、こっちへ戻ってらっしゃい。茜ちゃん、高校生だけど、おむつを汚しちゃってもいいじゃない。私の方が年下だけど、でも、年下のお姉ちゃまにおむつを取り替えてもらってもいいじゃない。そんなに乱暴に歩行器をトイレの入り口にぶつけてばかりじゃ、お腹に余分な力がかかって却っておしっこが出ちゃうよ。だから、ね?」
それに対して、茜は激しく首を振る。けれど、弥生の言葉に反発してのことではない。茜にしても、トイレまで辿り着いたとしてもちゃんとおしっこをできないことは最初からわかっていた。入り口が狭くてトイレに入れないということまでは予想していなかったものの、たとえ入り口を通り抜けられたとしても、歩行器から抜け出せない限りは便器にお尻をおろせないのはわかっていた。わかっていても、こうしてトイレへ来るしかなかった。おむつを汚さず、ちゃんと便器に跨っておしっこをすることを諦めきれなかったから……いや、ひょっとしたら、それを諦めるしかないということを自分自身に言い聞かせるためかもしれない。これまでに与えられた羞恥と屈辱に満ちた責め苦に茜がいささか自暴自棄になったとしても、それは仕方ないところだろう。いっそ、自分の置かれた状況を受け容れてしまった方が楽になれる。ふと、そんな思いが胸をよぎったとしても不思議ではないだろう。これまで通りの自分であり続けたいと願う気持ちと、もうどうなってもいいやという捨て鉢な気持ちとが絡み合い、千々に乱れた心を抱えて、茜は歩行器のサドルに跨り廊下を蹴るしかなかった。。
「いいから、こっちへいらっしゃい。お姉ちゃまが歩行器から出して抱っこしてあげる。抱っこして背中を撫でてあげるから」
弥生は膝を折って茜と目の高さを合わせ、両手を大きく広げた。
が、憐れむような、それでいてどこか慈しむような声に誘われるまま弥生の腕に抱かれたら、もうそのまま後戻りできなくなってしまうような気がして、茜は弱々しく首を振った。
「お姉ちゃまが抱っこしている間におしっこしちゃっていいのよ。お姉ちゃまの腕の中でおむつを汚しちゃっていいのよ。茜ちゃんはお姉ちゃまより二つ年上だけど、おむつの外れない赤ちゃんだもの。高校生だけど、まだちっちを教えられない小っちゃな赤ちゃんだもの」
大きく両手を広げたまま、弥生が足を踏み出した。
それを見た茜が、反射的に廊下を蹴って後ずさった。その弾みで、これまでにない勢いで歩行器がトイレの入り口にぶつかる。
「あ……」
茜の口から、声にならない声が漏れた。
それまで我慢に我慢を重ねてきたのが、歩行器がぶつかった衝撃に耐えようとして体に余計な力を入れたせいで、とうとう限界を超えてしまったのだ。
最初は、ほんの数滴が遠慮がちに出ただけだった。いわゆる、ちびっちゃったという感じだ。が、それだけで済む筈がない。いったん出始めると、もうどうしても止められない。尿道のあたりが微かに湿っぽくなったかと思うと、すぐにそれがおむつの中にじわっと広がり、生温かくじっとりした感触が一気に下腹部を包み込んでゆく。
「……」
茜はオシャブリを噛みしめ、絶望的な目つきでトイレの中を見た。その奥に、純白の便器がある。下腹部全体に広がるじくじくした感触が、茜ちゃんはもう二度とあそこにお尻をおろすことはできないんだよと無言で囁きかけているような気がして思わず身震いしてしまう。
「や……、そんなの、や……」
茜は歩行器のフレームを握って両脚を伸ばした。けれど、そんなことで歩行器から抜け出すことはできない。まるで力の入らない脚のせいですぐに体が崩れ落ち、再びお尻が歩行器のサドルに引き戻される。
と、おむつカバーの上に穿いているオーバーパンツの裾から、おしっこの雫が一つ、内腿から足首へ、つっと伝い落ちた。せっかく布おむつが吸い取ったおしっこが、茜がまるで尻餅をつくみたいにして再び歩行器のサドルに跨ったために絞り出されて横漏れしてしまったのだ。それに、或る程度おしっこの量が多くてもじわじわ出てくるなら布おむつはちゃんと吸い取れるのだが、我慢に我慢を重ねていたおしっこが一気に溢れ出したせいで、おむつが吸い取れる余裕を超えてしまったという事情も加わっている。
待つほどもなく、おむつカバーのギャザーからも漏れ出たおしっこの水滴は二つ三つと数が増えてきて、やがてオーバーパンツをびしょびしょにし、歩行器のサドルを濡らした後、そこから更に、綺麗にワックスのかかった廊下にぴちゃぴちゃと滴り落ちるようになった。
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