ママは同級生



「結局、自分でトイレへは来られたけど、最後まではちゃんとできなかったみたいね、茜ちゃん。でも、これで、ママとの約束を守る気になってくれたかな。ちゃんと自分でトイレへ行っておしっこできなかったらずっとおむつよって、ママと約束したよね? 茜ちゃんは、ママとの約束をちゃんと守るいい子よね?」
 歩行器のサドルから滴り落ちるおしっこの雫と茜の顔とを見比べながら、美也子が妙な笑みを浮かべて言った。
 それに対して茜は、もぞもぞと両脚を動かすが、サドルに跨っているため、内腿を摺り合わせることもできず、ぎゅっと瞼を閉じて顔を伏せ、弱々しく首を振るだけだ。
「お返事はどうしたの、茜ちゃん? ひょっとして茜ちゃん、お口もきけないほど小っちゃな赤ちゃんだったのかな。あ、そうか。ちっちも教えられないんだもの、まだお口はきけないわよね」
 美也子は歩行器のすぐ前に立ち、茜の顎先に人差指と中指をかけて強引に顔を上げさせた。
 それでも茜は伏し目がちにおずおずと顔をそむけるだけだ。
「じゃ、おむつを取り替えてあげるから、お部屋に戻りましょうか。可愛いベビー箪笥や綺麗なサークルメリーや大きなベビーベッドが置いてある茜ちゃんの育児室に。大きな赤ちゃんの茜ちゃんのためにおばあちゃまが用意してくれたベビールームへね。歩行器はママが押してあげるから、茜ちゃんは何もしてくていいわよ。おとなしく乗っていればいいからね」
 だんまりを続ける茜に美也子は呆れたように肩をすくめてみせて歩行器の後ろに移動し、フレームに軽く両手を添えて前方にすっと押した。
 茜ちゃんは何もしなくていいわよと美也子は言ったが、言われるまでもなく、茜には何もできなかった。おしっこがまだ溢れ出している最中、両脚に力を入れることもままならず、体をよじることもできない。今の茜にできるのは、歩行器のサドルに跨ったままわなわなと唇を震わせ、下腹部をとめどなく濡らし続ける生温かいおしっこの感触に耐えることだけだった。
「ね、茜ちゃん。ちょっとだけ後ろを見てごらん」
 美也子の押す歩行器が何メートルか進んだところで、京子が茜の頬を両手の掌で包むようにして顔を後ろに向けさせ、意味ありげに廊下を指差した。
 京子が指差す先には、点々と続く水滴の跡があった。それが茜の股間から漏れ出し歩行器のサドルを濡らして滴り落ちたおしっこの跡なのはいうまでもない。
「あらあら、茜ちゃんがおもらしで汚しちゃった廊下、後で弥生お姉ちゃまにお掃除してもらわなきゃいけないわね。あ、でも、その前に茜ちゃんのおむつを取り替えてもらわなきゃいけないし、大変ね、弥生お姉ちゃまは」
 京子が指差すおしっこの跡を踏まないよう注意しながら保育器を押す美也子が、茜と弥生の顔を見比べて言った。
「いえ、いいんです。可愛い茜ちゃんのお世話をまかせていただけるんですから、ちっとも大変なんかじゃありません。二つ年上の大きな赤ちゃんの妹ができて、とっても嬉しいんです」
 歩行器に寄り添うように歩きながら、弥生は美也子の方に振り向いて明るい笑顔で応えた。
 同い年の少女をママと呼び、自分よりも二つ年下の少女をお姉ちゃまと呼んでおむつを取り替えてもらう屈辱と羞恥の日々。ほんの一週間前には想像もできなかった異様な光景がそれまでの当たり前の日常生活にとって代わることが、今この瞬間、宿命づけられたのだ。無力な茜は、その宿命から逃れる術を何も持っていなかった。




 更に一週間が過ぎて、啓明女学院では幼稚舎、初等部、中等部、高等部が揃って始業日を迎えた。春休み明けの始業日は、夏休み明けや冬休み明けに比べて、どこかしら華やいだ感じがする。それは、色とりどりの花々が咲き誇る季節ということもあるが、それぞれに学年が上がり新しいクラスメートができる、年に一度の特別な日でもあるからだろう。
「よかったね、茜、また同じクラスになれて。それに、席も隣どうしだし」
 左隣の席についたクラスメートが声を弾ませて茜に話しかけた。茜とは中等部からずっと同じクラスで仲のいい藤崎早苗だ。
「え……ああ、うん……」
 笑顔の早苗とは対照的に、茜の方は物憂げな顔で、何か考え事でもしているのか煮えきらない返事をするだけだ。
「どうしたのよ、ほんやりしちゃって。何かあったの?」
「う、ううん。なんでもないのよ……本当に、なんでも……」
 茜はおどおどした様子で応えた。
 けれど、本当は、なんでもないわけがない。春休みの間に美也子によって(そして、春休みの後半は弥生も加わって)徹底的に赤ん坊扱いされ、排尿も排便もおむつの中にするよう強要されてトイレへは一度も行かせてもらえなかった上に薫が調合した利尿剤の後遺症で膀胱の機能に変調をきたし、片時もおむつを手放せない体になってしまったのだ。もちろん、学校へ来る時も例外ではない。今も茜は制服のスカートの下にはショーツの代わりにおむつを着用している。それも、使い捨ての紙おむつではなく、水玉模様や動物柄の布おむつに、パステルピンクのキルティング生地にアニメキャラのアップリケをあしらった可愛らしいおむつカバーの組み合わせだ。
 茜は、おもらし癖が治るとはゆかないもののもう少しマシになるまでは学校を休むつもりだった。だが、弥生によって強引にベビーベッドから抱きおろされ、美也子と弥生の手でベビー服から高校の制服に着替えさせられた後、美也子に手を引かれて学校へ連れて来られてしまったのだ。その後、掲示板に貼ってあるクラス分け表を確認した茜がのろのろと教室に向かうのを見届けてから、美也子は職員室に向かったのだった。
「随分と元気がないみたいだけど、本当になんでもないの? ――ま、いいや。ところで茜、そっちの席がまだ空いたままだけど、誰の席か知ってる?」
 早苗は、茜の右隣の席を指差して興味深そうに言った。始業日早々、もうすぐ朝のチャイムが鳴るというこの時間に主が席についていない机は確かに目立つ。
「あ……ああ、……え、ううん……」
 茜は、早苗が指差す右隣の机をちらと見て答にならない答を口にした。
「ちょっと、本当に大丈夫なの、茜? 何か悩み事でもあるんじゃないの?」
 茜の曖昧な返事に、早苗が僅かに首をかしげて身を乗り出した。
 そこへ、朝のホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴り響く。
 待つほどもなく教室の戸を引き開けて、新しく三年B組の担任になった鈴本晴美が入ってきた。晴美は出席簿を教卓の上に置くと、戸が開いたままの入り口に向かって小さく頷いてみせた。
 全員の目がいっせいに入り口の方を見つめる中、コツコツと革靴の音を響かせて教室に入ってきたのは美也子だった。
 美也子は晴美の傍らに立つと、深々とお辞儀をして爽やかに微笑んだ。
「編入生の西村美也子さんです。高等部の三年生で編入というのは珍しいのですが、ご両親がお仕事の都合で一年間外国に住まわれることになったので、身内にあたる佐野茜さんのお宅で妹さんと一緒に住まわれることになり、啓明に編入してこられました。みんな、なにかと協力してあげてください」
 晴美は教室中を見渡しながら穏やかな声で説明した。
「西村美也子です。新しい学校でわからないことばかりですが、一日でも早く馴染んでいきたいと思います。一応、従姉妹の佐野茜さんからおおまかなことは聞いていますが、みなさん、いろいろ教えてください」
 晴美の説明が終わるのを待って。日頃の様子からは想像もできないような殊勝な口ぶりで美也子が挨拶をした。
 晴美の説明でも美也子の挨拶でも、美也子と茜は従姉妹どうしということにしているが、それは、無用の騒ぎを避けるための方便だ。美也子と茜が実は義理の母娘だということを教職員は知っているのだが、その事実が年ごろの多感な少女たちの好奇の的になるのを避けるため、生徒たちには二人を従姉妹どうしだと説明するよう教職員たちの間で申し合わせ、美也子と茜にも学校の中では従姉妹どうしとして振る舞うよう指示していたのだ。ただでさえ男女の仲や性に対する興味が強い年ごろの少女たちのことだ、美也子が人妻だとわかったりしたら、どんな騒ぎになるか知れたものではない。



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