ママは同級生



「え、お家じゃそんなに甘えん坊さんなの、茜ってば。学校でも少しはそんな感じはあるけど、でも、西村さんが添い寝してあげないと眠れないなんて、ちょっと予想外過ぎなんだけど」
 早苗が少しばかり訝しげな表情になって美也子に聞き返した。他の級友たちもいささか面食らったようで、改めて大勢の視線が茜の顔に集まる。
「や、やめてよ、マ……美也子さん」
 多くの視線の中でも、とりわけ美也子の視線に気圧されるように伏し目がちになりながら、茜が弱々しい抗議の声をあげた。
「だって、本当のことだもん。それに、お風呂に入る時もそうじゃない。私か妹と一緒に入って体を洗ってもらってるのは誰だっけな。それだけじゃないわよね。ご飯の時だって……」
 美也子は机の上に右腕の肘をつき、顎先を手の甲に載せて、茜の顔を斜め下の位置から覗き込むようにして言った。
「いいから、もうやめてったら!」
 美也子の言葉を途中で遮って、茜が激しく首を振りながら金切り声をあげた。顔中を口にして叫ぶのだが、どこかおどおどしたような感じがするのは否めない。甲高い金切り声からは、怒りというよりも、むしろ、切羽詰まった無力感が伝わってくる。
 美也子は、そんな茜の顔をねめつけるように見上げている。
 その視線を受け、はっと我に返った茜は、再びおどおどと顔を伏せ、後ろに倒れた椅子を引き起こすために右手で椅子の背もたれをつかんだ。
 が、すぐに顔をこわばらせて身をすくめ、空いている方の左手でスカートの裾を押さえてから、ようやくのことおずおずと腰をかがめて僅かに膝を曲げる。男子生徒の目がない女子校では、或る程度名の通ったお嬢様学校でも、生徒たちの行動が少しばかりがさつになるのは仕方がない。たとえば、倒れた椅子を引き起こすために腰をかがめる際、少しくらいショーツが見えたとしても気にしないことも珍しくない。以前だったら、茜もさしてそんなことを気にするふうもなく無造作に椅子を引き起こしただろう。けれど、今、スカートの下に身に着けているのはショーツなどではなく、おむつだ。それも、一瞬だけならショーツと見分けがつきにくいパンツタイプの紙おむつではなく、十枚の布おむつのせいでぷっくり膨らんだパステルピンクのおむつカバーだ。ちらりとでもスカートの裾から覗いたりしたら、それが普通の下着ではないことが一目でわかってしまう。それを防ぐためには、いやでも身のこなしに気をつけざるを得ない。
 茜がスカートの裾を気にしながら椅子を引き起こす様子を美也子が面白そうに眺めている間に、一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。もっとも、一時間目とはいっても、春休み明けの始業日だから授業があるわけではない。日直の順番を確認したり、一学期の主な行事の日程を説明したり、選択授業の希望票を配布したりといったことをするだけだ。その後、翌日に行われる入学式の準備をしたり教室や廊下の掃除をして、午前中のわりと早い時間で今日はおしまいということになる。

 茜が両脚の内腿をもじもじと摺り合わせ始めたのは、教室に入ってきた晴美が生徒たちにプリントを配り終わってすぐのことだった。本人はなるべく目立たないように気を遣ってはいるのだろうが、両手を握りしめて拳を太腿の上に置き、幾らか背中を曲げ気味にして内腿を摺り合わせる動作が何を意味するのか、美也子にはすぐわかった。茜がプリントに目を通すふりをして顔を伏せているため晴美は異常に気づかず、プリントの内容を説明する晴美に注目しているため他の生徒たちも気に留めなかったが、すぐ隣の席で茜の様子をそれとなく窺っていた美也子には、茜の体の動きが何を表しているのか手に取るようにわかる。
 やかて、級友たちと同じように晴美の説明に耳を傾けながら茜の様子をちらちらと横目で盗み見していた美也子は、茜の内腿を摺り合わせる動作がぴたっと止まったことに気がついた。そして、その代わりに腰のあたりが何度かぶるっと震え、太腿の上に置いた両手の拳が更に固くなって、両腕が小刻みに震え出している。必死になってプリントの内容を読むふりは続けているものの、その実、焦点がプリントに合っていないことなど美也子にはお見通しだった。両肩が大きく上下しているのは荒い息遣いのせいだろう。
 美也子はそのまま茜の様子を横目で窺っていたが、それまで不規則に上下していた両肩が不意にがくっと落ち、茜が今にも泣き出しそうな顔をして瞼をぎゅっと閉じるのを見届けると、
「すみません、先生」
と大声で晴美を呼んで、さっと右手を上げた。
「はい、どうしました、西村さん?」
 呼ばれた晴美は、プリントの内容を細かく説明するのを中断して美也子の方に顔を向けた。
「あの、茜ちゃん……佐野さんが気分がすぐれないみたいだから保健室に連れて行ってあげたいんですけど、よろしいでしょうか」
 美也子は遠慮がちに言って、そっと茜の方を指差した。
「え? ――あ、大丈夫、佐野さん? お腹が痛いのかな、それとも熱かしら。いいわ、西村さん、保健室に連れて行ってあげて。場所はわかる?」
 太腿の上に固く握った拳を置いてぷるぷると両腕を震わせ顔を伏せる姿を見るなり晴美は教壇をおりて茜の席に駈け寄り、両肩をそっと抱きかかえるようにして椅子から立たせながら美也子に言った。
「はい、編入手続きで来た時に校内の様子は見せていただいたから大丈夫です。――どう、ちゃんと立てる、茜ちゃん? ほら、私が支えてあげるから、もっとこっちに体を寄せて」
 晴美に両肩を抱えられてのろのろと立ち上がった茜の体に両腕を絡め、自分の胸元に顔を引き寄せるようにして、美也子は、いかにも仲のいい従姉妹の具合を気遣うふうな口調で言った。が、その直後、茜の耳元に唇を寄せると、わざとらしく優しげな、それでいて聞く者の心臓を凍りつかせるような冷たい声で囁きかけた。
「本当に困った子ね、茜ちゃんてば。学校に着いてすぐでも、さっきの休憩時間でも、トイレへ行く時間は幾らでもあった筈よ。なのにトイレへ行かずにちっちをおもらししちゃうなんて。ほんと、見た目は高校生のお姉ちゃんなのに、中身はいつまでもおむつ離れできない赤ちゃんなんだから」
 そんな羞恥に満ちた囁き声に、茜は一言も言い返せない。
 家から最寄りのバス停まで十分ほど歩き、バスが来るのを待つのに五分くらい、バスに乗っているのが三十分ほどで、おりたバス停から学校までがやはり十分間くらいだから、通学に小一時間かかることになる。いつも乗るバスを使うと、学校に着いてからホームルームが始まるまで二十分くらいあって、ホームルームが十五分間。中等部の一年生からからこれまで丸々五年間、ほぼ毎日のように過ごしてきてすっかり体にしみついた学校生活の朝のリズムだ。そのリズムに従い、茜はホームルームと一時間目との間の休憩時間を使ってトイレを済ませるのが習い性になっていた。そして、これからの一年近い時間も、それと寸分たがわぬリズムを刻む筈だった。けれど、美也子が茜の家にやって来て、全てが崩れてしまった。春休みの前半は大きなベビーベッドから一歩も出ることを許されず、それこそ生まれたての赤ん坊めいた生活を余儀なくされ、動かす機会を殆ど与えられなかった手足の筋肉が萎縮してしまって自力では何もできなくなり、後半は西村家で少し成長した赤ん坊と同じように『はいはい』や『伝い立ち』の練習を繰り返させられた毎日。練習のおかげでなんとか自力で歩けるまでには脚の力は回復したものの、足取りはまだどこかおぼつかない。しかも利尿剤の副作用のため、尿意を覚えるとおしっこを十分間も我慢できない体になってしまい、片時もおむつを手放すことができない。
 茜にしても、本当は休憩時間のうちにトイレを済ませておきたかった。これまで通りスカートの下がショーツなら問題ないし、たとえショーツではなくパンツタイプの紙おむつを身に着けさせられていたとしてもトイレへ行っただろう。パンツタイプの紙おむつなら、ショーツと同じようにさっと引き下げてトイレを済ませた後は、やはりショーツと同じよう手早く引き上げてスカートで隠してしまえばいい。なのに、今、茜の下腹部を包んでいるのは十枚の布おむつとパステルピンクの生地でできたおむつカバーだ。トイレでおしっこをしようとしておむつを外した後、それをどうすればいいだろう。学校の女子トイレにデパートの婦人用トイレのような赤ん坊のおむつを取り替えるための簡易ベッドがあるわけがない。おしっこの後、改めて自分でおむつをあてるにしてもトイレの個室で立ったままということになるけれど、そんなことできる筈もない。かといっておむつをあてずにトイレを出たとして、いったん外したたくさんの布おむつとおむつカバーをどこに隠して教室に戻れるというのだろう。制服の中に押し込んで隠したりすれば不自然な膨らみが目につくのは間違いないし、トイレに残していったとしてもいずれはそれが誰の物かわかってしまう。だいいち、スカートの下に何も着けずに教室へ戻る勇気などない。それどころか、おしっこをまるで我慢できない体になってしまっている今、教室で尿意を催したが最後、級友たちの目の前でスカートや椅子や床をびしょびしょに濡らしてしまうことにならないとも限らない。
 自分の意志とは裏腹に、休憩時間のうちにトイレへ行きたくても行けない茜だった。



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