ママは同級生



「なんかさ、茜と西村さん、従姉妹っていうより本当の姉妹みたいに見えない? もち、西村さんがお姉さんだけど」
 茜を気遣い、茜の体をしっかり自分の方に抱き寄せてゆっくり歩く美也子と、まるで美也子に頼りきってしまっているかのように胸元に顔を埋めて美也子につき従う茜。教室を出て行く二人の後ろ姿を見送りながら、すぐ後ろの生徒が早苗に言った。
「うーん、姉妹っていうか、親子くらいに見えない? なんか、わけわかんないけど、そんな感じがしちゃうんだよね」
 早苗は僅かに首をかしげて、なにか不思議なものでも見るような目で茜と美也子を見送った。




「そうそう、あんよは上手。ほら、今度は階段だから頑張って。おばあちゃまのお家であんよのお稽古をしておいてよかったわね、茜ちゃん。ちゃんと立っちできないままだったらベビーカーで学校へ来なきゃいけなかったもの。ま、でも、ママはそれでもよかったんだけど」
 教室を出て廊下の中ほどまで歩き、階段に差しかかったところで美也子が言った。
 それに対して茜は何も応えず、のろのろと足を運ぶだけだ。大きなベビーベッドに閉じ込められていた間に萎縮してしまった両脚の筋肉は西村家での『あんよのお稽古』でも完全には元に戻らず、どうしても足取りがおぼつかない。それに加えておしっこをたっぷり吸った布おむつがスカートの中で垂れ下がり気味になっていて更に足の運びをおぼつかなくさせている。しかも、不用心に大股で歩を進めたらおむつカバーの裾からおしっこが漏れ出しそうで、いきおい歩幅が小さくなってしまうから、それこそ、幼児めいたよちよち歩きしかできない。
「さ、ここから階段よ。ちゃんとママにつかまって。あ、そうそう。スカートがあんよに絡まると歩きにくいから、こうしておこうね」
 階段をおりる最初の一歩を踏み出しかけたところで、美也子が茜のスカートの裾を持ち上げた。
 突然のことに茜は身をすくめた。が、空いた方の手で茜の肩を抱いたまま美也子が階段をおりてゆくものだから、それに引っ張られて歩みを止められない。思わず茜は体のバランスを崩して階段を踏み外しそうになった。
「ほらほら、気をつけないと駄目よ。でも、そうよね、茜ちゃんはまだ立っちができるようになったばかりだから、階段は難しいのかもしれないわね」
 美也子はそう言って茜の体をぐいっと引き寄せた。
「だって、だって、マ……美也子さんが急にスカートを捲り上げるから……」
 茜は顔を伏せておずおずと言った。
「あらあら、わざわざ言い替えなくてもいいのよ。そりゃ、学校の中じゃ私のことは『ママ』じゃなくて『美也子さん』て呼ばなきゃいけないけど、でも、周りに誰もいない時はお家でいつもそうしているように『ママ』でいいのよ。だって、茜ちゃんは、高校生のお姉ちゃんの格好をしているけど、本当は私の可愛い小っちゃな赤ちゃんだもの。まだちっちも教えられない赤ちゃんじゃなきゃ、教室でみんながいる中でおむつを汚したりしないものね?」
 美也子は、スカートの裾から半分ほど覗いた茜のおむつカバーをぽんと叩いた。中のおむつが乾いている時なら、ぱふんという感じなのだが、おしっこをたっぷり吸ったおむつのせいで、ぐしゅっという感触が掌に伝わる。
「立っちができるようになったばかりの小っちゃな赤ちゃんだから、スカートがあんよに絡まないようにしてあげたのよ。あ、そうだ。今日お家に帰ったら、スカートの丈を短く仕立て直してあげましょうか。そうすれば、茜ちゃん、あんよがもう少し上手になるかもしれないわよ」
「そ、そんな……それより、早くスカートをおろして……こんな格好を誰かに見られたら……」
 美也子に引きずられるようにして階段を中ほどまでおりながら顔を伏せたまま懇願する茜だが、言葉の途中ではっとしたようにに息をのんだ。踊り場の下から足音が聞こえてきたのだ。誰かが階段を昇ってきているに違いない。
「いいわよ。その代わり、ママにお願いしてちょうだい」
 美也子が声をひそめて言った。
「お願い……?」
 茜は上目遣いに美也子の顔を見上げて聞き返した。
「そう、お願いよ。『ママ、早く保健室で茜のおむつを取り替えてください』ってお願いするのよ」
 けれど、それに対して茜は弱々しく首を振る。
 美也子は、茜のスカートをますます高く捲り上げた。
「いや、そんなことしちゃ駄目……お、お願いする。お願いするから……」
 茜は思わず大声をあげかけたが、階段を昇ってくる人物に気づかれまいと、美也子の胸元に顔を埋めるようにして、叫び出しそうになるのを必死にこらえた。そうして、美也子と目を合わせないよう顔をそむけて、よく注意していないと聞こえないような小さな声で言った。
「……マ、ママ、は、早く、ほけ……保健室で茜の……お……おむ……おむつを取り替えてください。……お願いします」
「そうそう、それでいいのよ。ちゃんと言えて、茜ちゃんはいい子だわ。ママの言いつけをちゃんと守ってくれる本当にいい子ね、茜ちゃんは。そんな茜ちゃんのこと、ママは大好きよ。茜ちゃんもママのこと大好きよね?」
 ようやく美也子はスカートの裾を握っていた左手を離し、茜の頭を何度も撫でた。
 そこへ、コンクリートの階段を踏みしめて昇ってくる足音が間近まで近づいてきたかと思うと、二人の目の前でびたりと止まった。
「どうしたの、あなたたち。今はどの教室でも担任の先生が新学期の行事の説明をしている筈なのに、こんな所で何をしているのかしら?」
 足音の主は、校内の様子を見回っている途中らしい教頭だった。教頭は、不審げな表情で二人の顔をじろっと睨みつけた。
 が、一人が生徒会長の茜、もう一人が編入してきたばかりで多額の寄付金を申し出た西村家の子弟である美也子だということがわかった途端、教頭は表情を変えて
「あら、誰かと思ったら、佐野さんと西村さんじゃないの。一体こんな所でどうしたの?」
と一転して穏やかな口調で話しかけてきた。
「はい、佐野さんが急に具合が悪くなったので保健室に連れて行くところです。鈴本先生のお許しはいただいています」
 胸元に顔を埋める茜の背中を左手の掌で何度かさすって美也子が応えた。
「あら、そうだったの。それじゃ、編入してきたばかりの新学期早々で大変だけど、ちゃんと連れて行ってあげてください」
 美也子が応えると教頭はねぎらうように言って大きく頷いた。
「はい。義理とはいえ、私は佐野さん――茜ちゃんの母親ですから、茜ちゃんの健康状態にも責任があります。保健室の先生によくお願いして診ていただきます」
 美也子は、幼児をあやすように茜の背中をとんとんと叩きながら言った。
「確かに、そうですね。母親が子供を気遣う気持ちは並大抵ではないでしょう。だけど、学校では二人は従姉妹どうし。くれぐれも、このことは忘れないように注意してください」
 教頭は笑顔で頷き、最後の方は表情を引き締めて強い調子で言った。
「はい、わかっています。充分に気をつけます」
 美也子は落ち着いた声で応えて顎を引いた。




 厚めの木製の戸をノックすると、
「はい、どうぞ」
と、中から優しそうな女性の声が返ってきた。
「失礼します」
 美也子はそう言葉を返すと、一拍の間を置いて戸を引き開け、茜の背中を押すようにして保健室に足を踏み入れた。



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