ママは同級生



 椅子から立ち上がって二人を迎え入れたのは、中等部と高等部共通の保健室を担当している養護教諭・柳原怜子だった。
「あら、西村さんじゃない。編入してすぐ保健室に来るなんて、どうしたの?」
 怜子は美也子の顔を見ると、なぜか親しげな様子で話しかけた。その様子は、どうみても、編入早々の生徒に対する接し方ではない。
「あ、いえ、用があるのは私じゃないんです」
 美也子は、傍らに寄り添う茜の体を一歩前に押し出した。
「あ、顔を伏せていたから誰だかわからなかったけど、佐野さんね。どうしたの、佐野さん。また熱が出ちゃったかな?」
 怜子は、ひょいと腰をかがめ、茜の顔を下から覗き込むなり、いたわるように言った。もともと少し体が弱い方で保健室には何度も足を運んでいる茜だから、怜子にとってはお馴染みさんといったところだ。
「やだな、先生。熱なんかじゃなくって、ほら、私が茜ちゃんを連れて来たってことは――」
 怜子の言葉に、美也子は謎々でも楽しむみたいな口調で言った。
「え? ――ああ、そうか。そうだったわね。
いいわ、すぐに用意するから待っていて」
 怜子は一瞬だけ訝しげな表情を浮かべたが、じきに美也子が何を言っているのかわかったようで、苦笑交じりにそう言うと、保健室の奥に二つ並べて置いてあるベッドのうち、奥の方のベッドに歩み寄った。そうして、ベッドにかかっている毛布を手早くたたむと、すぐそばにある丸椅子の上に置いてから、壁際に据えつけてある器具庫の一番下の引出を引き開けた。
「それじゃ、私はこれをベッドに敷いておくから、その間に西村さんは引出の中から必要な物を出して準備してちょうだい」
 引出を開けた怜子は、その中から淡いピンクの生地でできた少し厚めのシーツのような物を取り出し、それを持って再び奥のベッドに向かって歩きながら美也子に言った。
「わかりました、先生。じゃ、茜ちゃんはここで待っていてね。準備ができたら戻ってくるから、それまで、おとなしくしているのよ」
 美也子は怜子に向かって小さく頭を下げて応え、茜をその場に残して足早に器具庫の前に移動した。
 不安顔で茜が見守る中、怜子が引き開けたままにしておいた器具庫の引出の中を覗き込むと美也子は笑顔で頷き、腰を折って両手を伸ばすと、布地の束を掬い上げた。それはただの布地ではなく、布おむつの束だった。それも、柄から判断すると、どうやら、美也子が自分で手縫いして茜の家に送りつけてきたあの布おむつのようだ。
 一方、毛布を取り去ったベッドの上に怜子が広げている厚めのシーツのような物は、裏地が防水性の生地になっていて、表地は幾らか吸水性があるものの、それもすぐ綺麗におしっこを拭き取れるような合成繊維らしい淡いピンクの生地できたオネショシーツだった。ただ、普通のオネショシーツと比べると随分と大きくて、きちんと広げれば保健室のベッドいっぱいに広がってしまいそうなサイズに仕立ててあった。
「さ、準備ができたわよ。こっちへいらっしゃい、茜ちゃん」
 怜子がオネショシーツをベッドの上に広げるのを待ち、ベッドの端に布おむつを置いた美也子は、茜が身を固くして立ちすくんでいる場所に戻ってくると、改めて茜の肩を抱きすくめた。
「い、いや……こんな所で、お、おむつの交換だなんて……」
 そのまま美也子にベッドの方へ連れて行かれそうになるのを、茜は泣きそうな顔をして首を振り、あまり力の入らない両脚を踏ん張って頑なに拒んだ。
「何を言ってるの、茜ちゃんてば。そのままだとお尻が気持ち悪いでしょ? 他におむつを取り替えられる場所なんてないでしょ? それに、早くを取り替えないとおむつかぶれになっちゃうわよ。それでもいいの? 濡れたおむつのまま入学式の準備を済ませてお掃除をする気なの?」
 茜の肩にかけていた手を背中と腰に移し、ぐいっと引っ張りながら美也子が言った。
「だ、だって、柳原先生が……」
 大柄な美也子に体を引きずられながら、それでも茜は弱々しく首を振る。
「あ、なんだ、そんなことで茜ちゃんはおむつの交換を嫌がってたの? だったら大丈夫よ。柳原先生は茜ちゃんが学校へおむつして来てることなんてとっくにご存知だもの。でなきゃ、替えのおむつを器具庫に入れて預かってくれたり、ベッドの上に特注の大きなオネショシーツを広げたりして手伝ってくれないわよ。――ね、先生?」
 美也子は、茜を強引に引きずってゆきながら、ベッドのすぐそばで二人の様子を見守っている怜子に同意を求めた。
「ええ、そうよ。三月の終わり頃だったかしら、田岡先生というお医者様がわざわざ保健室までいらっしゃって、なんだか、佐野さんの体に異変が起きたみたいだから新学期になったら気をつけてあげてほしいとかおっしゃって、いろいろ説明してくださったの」
 そう言う怜子の言葉を聞いた瞬間、茜は、薫が美也子の指示を受けて養護教諭である怜子に会いに来たに違いないと直感した。そして、薫が遠路はるばる啓明女学院までやって来た理由に瞬時にして思い至った茜は、絶望のあまり全身から力が抜けていってしまいそうになった。薫は怜子に、茜が片時もおむつを手放せない体になってしまったことを知らせるためにこの保健室を訪れたに決まっている。しかも、茜がそんな体になったしまった本当の理由が自分たちにあるということなどきれいに隠しおおし、さも茜自身に責があるのだと怜子が思うよう巧みに話を誘導しただろうことは想像に難くない。
「ほら、柳原先生もああおっしゃってるいんだから、さっさとベッドに横になりなさい」
 美也子は、茜の体から力が抜ける瞬間を見逃さず、強引にベッドのそばに押しやり、そのまま背中から抱え上げるようにして強引にベッドの上に敷いたオネショシーツの上に横たわらせた。
「ふう、やっぱり私一人だと大変ね。でも、明日になれば弥生も学校へ来るから手伝ってもらえるわね。お母様が弥生を啓明に入れるよう手筈を整えてくださって、本当に助かるわ」
 美也子は軽く溜息をつきながら呟いた。おむつを取り替える時に濡れないよう制服のスカートを背中やお腹の上までたくし上げながら茜の体をベッドの上に押し上げなければいけなかったため、思ったより力が必要だった。
「い、いや……こんな所で、学校の保健室でおむつだなんて、そんなのいやぁ」
 強引にベッドに横たわらされた後も茜は激しく首を振り、体をよじって抵抗をやめない。
 そんな茜の肩を抑えつけたのは怜子だった。
「駄目よ、おとなしくしてなきゃ。西村さん――ううん、優しいママにおむつを取り替えてもらうんだから、いい子にしなきゃいけないわ」
 茜の肩をベッドに押しつけた怜子の口をついて出たのは、思いもかけない言葉だった。怜子も教職員の一人だから、美也子と茜の本当の間柄は知っているだろう。けれど、他の生徒が動揺しないよう、そのことは伏せておくことになっている。それを、今は三人しかいないとはいえ、こうも簡単に口にするとは。
 驚きのあまり大きく両目を見開いた茜の瞳に映った怜子の顔には、なんとも表現しようのない笑みが浮かんでいた。
 しかも、怜子の思いがけない言動はそれで全てというわけではなかった。
「佐野さん――茜ちゃんがこんなにむずがるのは、ひょっとしたらお口が寂しいせいかもしれないわね。茜ちゃんのママ、器具庫の一番上の段に小さな引出が六つ並んでいるから、その一番右のを開けて、茜ちゃんが大好きな物を持って来てあげて。そうすればおとなしくなると思うから」
 怜子は美也子のことを『西村さん』ではなく『茜ちゃんのママ』と呼んで指示をし、待つほどもなく美也子が器具庫の中から持ってきた物を茜に咥えさせた。それは、茜の家の育児室に置いてあったのと同じオシャブリだった。
 茜は首を振ってオシャブリを吐き出そうとした。家の中ではすっかり習い性になってしまったオシャブリだが、さすがに学校で、しかも養護教諭の手で咥えさせられたオシャブリを口にふくむことなどできるわけがない。
 けれど、吐き出しかけたオシャブリが茜の唇を離れることはなかった。怜子が冷たく光る圧舌片を手にして
「田岡先生から聞いているわよ。茜ちゃん、時々オシャブリを落としちゃうことがあるんですってね。そんな時は口の中や喉に異常がないかどうか丁寧に診てあげてほしいって田岡先生から依頼を受けているの。さ、きちんと診てあげるから、お口をあーんしてごらん」
と、にこやかな笑みを浮かべながらも背筋がぞくりとするような冷たい声で囁きかけたからだ。



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