ママは同級生



 その瞬間、茜の瞳には、圧舌片を手にして冷たくそう言う怜子の顔と薫の顔とがだぶって映り、思わず首を振るのをやめ、おどおどと身をすくめてしまった。
「あら、今はちゃんとオシャブリを吸えてるわね。ふぅん、どうやら、口の中も喉も異常はないのかな。じゃ、いいわ。ママにおむつを取り替えてもらう間、そうやっておとなしくしているのよ」
 怜子は銀色に光る圧舌片を白衣のポケットにしまい、にっと笑って、こう付け加えた。
「これからもずっと、そんなふうにいい子にしましょうね。そうすれば、ご褒美に、体育の授業で実技を免除してくれるよう体育の先生に私から正式に文書でお願いしてあげる。でも、いい子にしないなら、普段通り体育の授業を受けなきゃ駄目よ。そうすると、クラスのみんなと一緒に教室で体操服に着替えなきゃいけないわね。でも、それでもいいかな。みんな、茜ちゃんのおむつカバー可愛いねって褒めてくれるでしょうから」
 面白そうにそう話す怜子の瞳には、薫の瞳と同じ妖しい光が宿っていた。
 薫が保健室を訪れたのは、茜に関する一連の説明と依頼を怜子に対して行うためだった。薫は、もともと茜に夜尿癖があったことを明らかにし、美也子と暮らし始めて間もなくすると昼間も尿失禁を繰り返すようになったと説明した上で(説明する際、茜の失禁の本当の原因は美也子と薫にあるのだが、そのことは固く伏せておき、幼い頃に母親に甘えられなかったことに対する代償行為として義理の母になる美也子の関心をひこうとして無意識のうちに失禁するようになったのではないかという『医師としての推察』を付け加えることを忘れなかった)、おむつを取り替える場所として保健室を使わせてもらえるよう依頼したのだった。それは、総合病院の副院長と保健室を管理する養護教諭という互いの立場上、きわめて事務的な会談に終始する筈だった。だが、薫は、説明を始めてすぐ怜子がなんとも表現しようのない奇妙な表情を浮かべていることに気づいた。そうして、説明を進めてゆくうちに、怜子の瞳に妖しい光が宿るのを見た。その瞬間、薫は、怜子が自分と同じ種類の人間だと直感した。職務に忠実な養護教諭という仮面をかぶりつつも、その内面には、表面からは決して窺い知れない妖しい欲望を抱いている異形の女。女子校の養護教諭という、世間から完全に隔絶された世界の住人で、なにやら物憂げな瞳で不埒な刺激を探してやまない魔性の女。そういえば、どこか爬虫類を思わせるその瞳は自分と瓜二つではないか――そう直感した薫は、それまでの事務的な説明を中断して、怜子の妖しい欲望を殊更に掻きたてるべく、甘い声で「あなちも、生徒会長をつとめる優等生の茜ちゃんが幼児扱いされてどれだけ羞恥に満ちた表情を浮かべるか見てみたいでしょ?」と囁きかけた。女の園で暇を持て余し、常に歪んだ刺激を求め続ける怜子は、最初こそ戸惑うふりをしてみせつつも、すぐに薫の誘いにのってきたため、薫は(心理的な要因に由来する失禁癖を抱える義理の娘に心痛める継母という役割を美也子に演じさせるため、実は全て美也子の企みだという事実は巧みに隠しおおして)容易に怜子から協力の約束を取りることができた。そうして、薫から怜子の協力を得られることになったと知らされた美也子が自ら何度も保健室を訪れ(春休みの後半、美也子は茜を京子や弥生に預けて何度も西村家から姿を消していたのだが、それは、この保健室を訪れるためだった)、言葉巧みに怜子を自分たちの協力者に仕立て上げることに成功し、最後に訪れた日には、茜の家のベビー箪笥にしまっていた布おむつやおむつカバーを預けて帰ったのだった。
「そんな、そんな……」
 怜子が美也子たちの側に立つ人間になってしまったことを直感し、顔色をなくして怜子の顔を見上げる茜の口から絶望的な呻き声が漏れた。
「よだれがこぼれちゃうから、オシャブリを咥えている間はお口を開いちゃ駄目よ。お家じゃよだけかけを着けているらしいけど、学校にはよだれかけはないから、制服を汚しちゃうわよ。教室に帰った時、制服やブラウスがよだれで濡れていたら、お友達からどうしたのって訊かれて茜ちゃんも恥ずかしいでしょ?」
 怜子は妖しく瞳を輝かせ、含み笑いを漏らして言って、茜の唇の端をそっと指先でぬぐった。
 その口ぶりから考えると、怜子は茜が家でおむつ離れできない赤ん坊そのままの生活を送っていることも知っているようだ。それを知った上で、美也子に協力しているのだ。そう思うと、茜は押し黙るしかなかった。世間から隔絶された保健室という狭い閉鎖空間、声を涸らして助けを求めても応じてくれる者はいないのだから。
「そう、それでいいのよ。それじゃ、ママにおむつを取り替えてもらいましょうね。その間、茜ちゃんがぐずらないよう先生がそばで見ていてあげるからおとなしくしているのよ」
 怜子はまるで幼児にするように茜のお腹を制服の上からぽんぽんと優しく叩いて言った。
「よかったわね、茜ちゃん、柳原先生にあやしてもらえて。これからも保健室でおむつを取り替える時は先生によしよししてもらえるわね。だから、心配しないでおむつをちっちで濡らしましょうね」
 美也子はすっと目を細めてそう言うと、スカートをお腹の上まで大きく捲り上げたためすっかり丸見えになってしまっている茜のおむつカバーに手を伸ばした。




 卒業式の準備と教室の掃除が無事に終わり(もっとも、『無事に』というのは『おむつのことが級友たちに知られることなく』というくらいの意味しかないが)、茜と美也子は午前十一時前にはバス停に立ってバスが来るのを待っていた。美也子が編入前に通っていた私立の女学校ほどではないにせよ啓明女学院も地元ではどちらかというとお嬢様学校として名が知れていて、車で送り迎えしてもらう生徒も少なくない。それに加えて浜手側から通学している生徒の大半は電車を使うから、山手側の住宅街に向かうバスに乗る生徒は数えるほどしかいない。そのため、今もバスを待っているのは茜と美也子、それに早苗の三人に、他のクラスの生徒が二人いるだけだ。

「ね、本当に大丈夫なの? なんだか顔が赤いけど、まだ熱があるんじゃないの?」
 顔を伏せ気味にしてバスを待つ茜に、早苗が横合いから心配そうに声をかけた。
「う、ううん……大丈夫だから気にしないで」
 伏し目がちに小さく首を振る茜の頬がうっすらと赤く染まっているのは決して熱のせいではない。学校の保健室でおむつを取り替えられた恥ずかしさが顔色に表れているのだ。しかも、おむつを外したわけではなく、改めて新しいおむつでお尻を包まれているままだから、ことあるたびに布おむつの柔らかな感触が下腹部から伝わってきて恥ずかしさがいや増す。
「そう? なら、いいんだけど。でも、よかったよね、西村さんが同じクラスで。茜、これまでもたびたび熱を出してたけど、一人で保健室に行くのを見て心配してたんだよ、私。熱に浮かされて転ばないかなとか階段で足を滑らせなきゃいいなとか。だけど、なかなか付き添って行きますって先生に言えなくてさ。でも、従姉妹の西村さんが同じクラスになったし、西村さん、とっても優しそうだから、これからはいつでも気軽に保健室まで付き添ってもらえるもん」
 早苗は気遣わしげに言って、茜の横顔と美也子の顔を見比べた。
「え、私、そんなに優しそうに見える? だったら嬉しいな」
 美也子は胸の中で真っ赤な舌を突き出しつつも、そんなことおくびにも出さず、いかにも嬉しそうに言った。
「うん、優しそうに見える。っていうより、本当に優しいんでしょう? だって、そうじゃないと、茜があんなに甘えるわけないもん。西村さんと茜が二人で教室を出てくとこや、保健室から戻ってきて茜が席につくのを手伝ってあげてるとこを見たら、そうとしか思えないよ」
 早苗は屈託のない笑顔で応えた。



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