ママは同級生



 茜が自分の家や西村家でどんな目に遭っているかを知らないからこそ、そんなふうに屈託なく笑って、美也子のことを優しい優しいと褒めそやすことができるのだろう。茜が美也子に体を預けて教室を出て行ったのは、甘えてのことなどでは決してない。教室の中でおむつを濡らしてしまった羞恥に級友たちと目を合わせることができず、それで思わず美也子の胸元に顔を埋めたのだし、茜が席につくのを美也子が手助けしたのは、茜の具合を心配してのことではなく、おむつカバーがスカートの下から覗くことをおそれてなかなか体を動さない茜を強引に椅子に座らせるためだった。けれど、早苗が真実に気づくことはない。

 三人がそんな会話を交わしながら待っている間に、やがてバスがやって来た。
 他のクラスの生徒が二人先に乗って、列の並びは、その後が茜の番だった。が、茜はバスに乗ろうとせず、くるりと踵を返して列の最後尾にまわってしまう。
「ちょっと、何してるのよ、茜ったら」
 思いがけない茜の行動に、早苗が呆れ顔になった。
「あ、ううん、いいから先に乗って。私、最後でいいから」
 茜は力なく首を振って早苗に言った。
「ま、いいけどさ。ほんと、今日は朝から変だよ、茜」
 早苗は軽く肩をすくめると、呆れ顔のままバスの乗降口の前に立ち、二段あるステップを身軽に駆け上がってバスの中に姿を消した。
 続いて美也子が乗降口に進み、ステップの下の段に右足を載せると、くるりと振り向いて、後ろに立っている茜に向かって右手を差し出した。
 と、茜もおずおずと右手を伸ばして美也子の手を握る。
 それから改めて美也子は茜の手を引いてステップを昇り始めた。それに続いて、まるですがりつくようにして茜もステップを昇ってゆく。それは、まだ上手に歩けない幼児が母親に手を引いてもらってバスに乗り込む姿そのままだった。
「なぁんだ。茜ったら、私に順番を譲ってくれたんじゃなくて、西村さんに甘えたかっただけなのか。ほんと、妬けちゃうくらい仲よしさんなのね」
 乗降口のすぐそばで二人を待っていた早苗が、ますます呆れ顔で溜息をついた。
 それに対して茜は返す言葉がない。美也子に甘えたくて順番をかわったわけではないけれど、本当の理由を説明することもできない。ステップを昇る時、後ろに誰かいるとスカートの裾が翻っておむつカバーを見られてしまうかもしれないと思って早苗を先に行かせたなんて口にできる筈がない。ずっとベビーベッドに閉じ込められていたせいで脚に力が入りにくくなっていてちょっと油断すると転げ落ちてしまうかもかれないから美也子に手を引いてもらわないとステップを昇れないなんて言えるわけがない。
「ま、いいじゃない。従姉妹どうし仲よくするのは当たり前のことだし、教室でも話した通り、お家じゃ茜ちゃん、とっても甘えん坊さんなんだから。それで、そんな茜ちゃんが私は大好きなんだから」
 ステップを昇り、茜の手を引いて座席と座席との間の通路を中ほどまで歩いて行きながら美也子はしれっとした顔で言った。
「そりゃそうなんだけど……」
 早苗は美也子の言葉に頷いたが、ふと思案顔になって続けた。
「……なぁんか、ただの従姉妹どうしに見えないのよね。他の子とも話したんだけど、姉妹に見えてもおかしくないし、どうかすると親子にさえ見えちゃうんだもん、あなたたちって。やっぱり、しっかり者の西村さんと優等生だけど少し甘えん坊の茜っていう組み合わせだからかな?」
 どことなく二人の仲を不審がっているように聞こえなくもない早苗の言葉に、茜は美也子の制服の裾をぎゅっとつかみ、おどおどした様子で美也子の顔を横目で見た。美也子が面白がって余計なことを言い出さないか心配してのことだったが、すぐに、無意識のうちにそんな行動を取ってしまう自分が情けなくなってくる。勇作を奪うために茜を赤ん坊めいた無力な存在に仕立て上げた当の張本人である美也子に対して、けれど憎悪の念を正面からぶつけることもできず、むしろ美也子に対して依頼心さえ抱いてしまっている自分自身が腹立たしく惨めでならない。今や、憎い美也子がいなければ茜は自分だけでは何一つできない幼児そのままの存在になりさがってしまっていた。現に、茜たちを乗せたバスが走り出した時も、決して乱暴な発進ではないのに、筋肉の衰えが完全には回復していない両脚のため簡単に体のバランスを崩してしまい、美也子の制服をつかんでいなかったらその場に尻餅をついていたに違いない。
「あ、大丈夫だった? 遠慮しなくていいから、もっと私の体に寄りかかった方がいいわよ。ほら、こっちに来て」
 体がよろめくと同時に美也子はさっと手を伸ばして茜の背中を支え、優しげな口調で言ってそのままぐいっと体を引き寄せると、他の乗客たちには聞こえないよう小さな声で囁きかけた。
「倒れてスカートが捲れ上がったら、おむつカバーが丸見えになっちゃうわよ。そんなの藤崎さんに見られたらあっという間に学校中で評判になっちゃうし、バスのお客さんの中には近くに住んでいる人も何人かいるかもしれないから、近所で噂になっちゃうかもね。だから、ほら、しっかりママにつかまってなきゃ駄目よ、まだあんよが上手じゃない赤ちゃんの茜ちゃんは」
 言われて、茜の頬がかっとほてる。けれど、そうするしかないことは茜自身もわかっていた。美也子の手を振り払って自分の脚で立っていてもバスがブレーキをかけたりカーブに差しかかったりすれば簡単に倒れてしまって乗客たちの目におむつカバーをさらすことになるし、自分の手で吊革を握ろうとして腕を上げればそれに合わせてスカートの裾も持ち上がってしまい、スカートの裾からおむつカバーが覗かないとも限らない。今の茜にできるのは、それこそ、おぼつかない足取りであんよができるようになったばかりの幼児が母親の体にしがみつくように、美也子に体を預けて倒れないよう支えてもらうことだけだった。
「ほら、また茜ったら西村さんに甘えちゃって。何かあるたびにそんなだから、ただの従姉妹に見えないって言いたくなるのよ」
 美也子の制服の裾をぎゅっとつかんで体を預ける茜の姿に、本当のことを知らない早苗が、やれやれとでもいうふうな顔をして肩をすくめてみせた。




 早苗が降りたバス停の次が茜の家から最寄りの停留所になる。
 美也子は乗る時と同じように茜の手を引いてバスを降りると、バスが走り出すのを待って茜に言った。
「よく頑張ったわね、茜ちゃん。バスに乗っている間ちゃんと立っちできていて、とってもお利口さんだったわよ。明日からも頑張ろうね」
 そう言って美也子は茜の頭を何度も撫でるのだが、茜は周りに誰かいないかと気になってしようがない。
「いいから、早く帰ろうよ。ね、早くってば、ママ」
 おどおどと周囲の様子を見渡した限りでは近くに誰かがいるような様子はなく、小さな子供のように頭を撫でられる姿を見られる心配はなさそうだった。が、周囲に誰もいないとなると、学校にいる時のように従姉妹どうしを装う会話の仕方ではなく、家でいつもそうしているように幼児めいた言葉遣いを強要される。茜は、春休みの間中ずっとそうしていてもなかなか慣れることのできない舌足らずの幼児言葉で美也子を促した。
「あらあら、何をそんなに急いでるの? あ、そうか。大好きな弥生お姉ちゃまと離れ離れになったのが寂しくて早くお家に帰りたいのかな?」
 茜が恥ずかしそうに頬を染めて幼児言葉を口にすると、美也子は満足げに頷いて、もういちど頭を撫でた。
「……う、ううん……」
 何か言いかけて、けれど茜は途中で言い淀んでしまう。
 そんな茜の仕種に美也子は思い当たる節があった。



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