ママは同級生



「じゃ、どうしてそんなに急いで帰りたいの? 今日はいい天気だから、ママ、茜ちゃんと一緒に公園をお散歩してから帰ろうって思ってるんだけど」
 茜が帰宅を急いでいる本当の理由を充分に承知していながら、美也子はわざとおおげさな身振りで青空を仰ぎ見て言った。
「……そんな、でも……」
 美也子の言葉に茜は瞳をきょときょとさせて口ごもるばかりだ。
「だから、どうしてそんなに急いでお家に帰りたいのか、きちんとママに話してごらんなさい。ちゃんとした理由だったらママも一緒に急いであげるから」
 美也子は、ねめつけるようにして茜の顔を覗き込み、有無を言わさぬ強い調子で重ねて訊いた。
 美也子の口調に茜は何度か浅い呼吸を繰り返してから弱々しい声で
「……ち、ちっちなの。だから早くお家に帰りたいの」
と打ち明けた。
「あ、ちっちだったの。もう出ちゃった? それとも、まだかな?」
 美也子は平然とした顔で聞き返した。かりにも高校生である茜に対して「ちっち、もう出ちゃったかな?」と、いかにも幼児を相手にしているかのような質問をしているのに、さもそれが自然に口から出てくるのだから、もはや美也子にとって茜はそれだけの存在だということなのだろうか。
「……まだ出てない。まだだから、早くお家に帰っておトイレ行くの。だから、ママ、早く帰ろうよぉ」
 羞恥にまみれながら、茜は幼児言葉で美也子に訴えかけた。ここで一言でも大人びた言葉を口にしてしまえば、それを口実に美也子がどんな仕打ちに出るかしれたものではない。そんなことになったら、トイレに間に合わなくなるのは目に見えている。
「そう、まだ出てないの。お利口さんね、茜ちゃんは。出ちゃうまえにちゃんとちっちを教えられるなんて、やっぱり高校三年生のお姉ちゃんになるとお利口さんなのね」
 茜の返答に、美也子はわざとおおげさに褒めそやした。それが茜の羞恥をこれでもかと煽る。
「……だから、早く帰ろうよぉ……」
 羞恥のために顔が熱くほてるのを感じながら、茜は上目遣いで繰り返し訴えかけた。
「でも、ここからお家まで十分ほどかかるわよ。それで、茜ちゃんがちっちしたくなって我慢できるのも十分間くらいよね。ちっち、いつからしたかったの?」
 美也子はすっと目を細めて言った。
「……ちょっと前から。早苗ちゃんがバスを降りてちょっとしてから……」
 茜はもじもじと左右の内腿を摺り合わせながら応えた。
「じゃ、もうあと五分も我慢できるかどうかじゃない。だったら、どんなに急いで帰ってもお家のトイレには間に合わないわね。でも、いいじゃない。茜ちゃんはおむつだもの。学校の保健室でおむつを取り替えてあげたんだから、ちっちしちゃっても大丈夫よ」
 茜の胸の内も知らぬげに美也子はなんでもないことのように言った。
「……い、いや……お外でおもらしなんて、そんなの……」
 茜は拳をぎゅっと握りしめて肩を震わせた。
「いやって言っても、茜ちゃん、教室でもおもらししちゃったじゃない。教室じゃよくって、お外じゃいやなの? なんだか変ね」
 美也子はからかうように言ってから、茜の目をじっと見ると、にっと笑って続けた。
「でも、いいわ。せっかく茜ちゃんがちっち教えてくれたんだもの、トイレへ連れて行ってあげる。ちっちを教えてくれたのにトイレへ行かなかったらいつまでもトイレトレーニングができなくて、ずっとおむつのままだものね」
「本当? ママ、本当におトレイへ連れてってくれる?」
 茜はぱっと顔を輝かせた。けれど、じきに切なそうな表情に変わってしまう。高校生にもなって、トイレに連れて行ってもらえるというだけで喜んでしまう自分自身が情けなくてならない。
「本当よ。ほら、このバス停からちょっと行った所に公園があったでしょ? お家とは反対方向だけど、ママ、あそこの公園をお散歩して帰りたかったのよ。それに、あの公園ならここから五分ほどで行けるから、間に合うんじゃないかな。ちゃんと間に合ったらおむつを外してあげるから、トイレでちっちしようね。そしてら茜ちゃん、パンツのお姉ちゃんになれるかもしれないね」
 美也子は腰をかがめ、茜のスカートをすっと捲り上げると、おむつでぷっくり膨らんだおむつカバーの上からぽんとお尻を叩いて言った。

 それからしばらく後、公園の中にあるトイレまであと二十メートルあるかないかという場所で茜は身を固くして立ちすくんでいた。
 バス停から公園の入口までは四分もかからなかったのだが、公園の中の通路が真っ直ぐな舗装路ではなく、大小様々の玉砂利を敷いた曲がりくねった遊歩道になっていたせいで、おぼつかない茜の足取りでは思ったよりも時間がかかってしまい、もうあと少しでトイレという場所でもうそれ以上は一歩も先に進めないほどに尿意が高まってしまったのだ。へんに体を動かせば、たちまちにして膀胱の筋肉が緊張を解いてしまうのは火を見るより明らかだった。尿意を覚えた時からだと十分は過ぎているから、茜にしてみればよく我慢した方だが、そんなこと、茜自身にとってはなんの慰めにもならない。
「あらあら、どうしたの? もうちょっとだけ頑張ったらトイレなんだけどな。ほら、あんよは上手」
 美也子が、尿意に耐えかねて歩みを止めてしまった茜の両手をぐっと引いた。
「や、やだ! 引っ張っちゃ駄目!」
 力まかせに両手を引っ張られて、茜は反射的にその場に踏みとどまろうとして下腹部に余計な力を入れてしまう。
 その直後、茜の両目が大きく見開いた。しかし、その瞳は何も映していないかのように、まるでどこにも焦点が合っていない。
「あ……ああ……」
 無意識のうちに茜はおむつカバーの上から両手で股間を押さえた。けれど、そんなことで、生温かな奔流を止めることなどできる筈もない。
「あーあ、間に合わなかったみたいね、茜ちゃん。でも、よく頑張ったわよ。保健室でおむつを取り替えてあげた後は、入学式の準備の間も教室のお掃除の間もバスに乗っている間も、おもらししなかったもの。最後は間に合わなかったけど、とってもお利口さんだったわよ、茜ちゃんは。だから、茜ちゃんがちっちでおむつを汚しちゃっても、ママ、叱らないわよ。だって、こんなに頑張ったんだもの。本当に、なんてお利口さんなのかしら」
 茜がとうとう我慢できなくなってその場に立ち尽くしたままおしっこを溢れ出させてしまったことを知った美也子は、茜の背中に両手をまわし、茜の体を正面から抱きしめた。
「……マ、ママ……茜、ちっちなの。茜、おむつにちっちなの……」
 春休みの間中、おしっこが出そうな時も出てしまった後もちゃんと幼児言葉で知らせるよう『躾け』られた茜は、どこにも焦点の合っていない瞳をきょときょと動かしながら、呆けたような表情で繰り返した。最初の頃こそ、高校生にもなっておむつをおしっこで濡らしてしまった屈辱と羞恥に何度も涙を流したものだが、いつしか、涙さえ出なくなっていた。涙が涸れ果ててしまったのか、それとも、自分でも気づかないうちにおむつをおしっこで濡らす行為に次第次第に慣れてきてしまっているのか、それはわからない。ただ、どちらにしても、そんなことを繰り返すたび、ひょっとしたら生涯に渡っておむつを手放すことができないのかもしれないという思いが強くなってきていたたまれなくなり、そうして、そのたびに、そこから逃げ出す道は既に固く閉ざされてしまっていることも痛いほど身にしみて思い知らされてきた茜だった。
 
「みんな出ちゃったみたいね」
 しばらくして、茜の腰がぶるっと震え、茜の瞳にいつもの光がうっすらとながら戻ってくるのを確認して美也子が言った。
 と、茜が自分の右手の甲を唇に押し当てて弱々しく頷く。



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