ママは同級生



「うん、いいよ。じゃ、二人とも用意して。――ほら、ちゃんとなさい、茜ちゃん。せっかく恵美ちゃんが一緒に遊ぼうって言ってくれてるんだから、いつまでもぐずぐずしてちゃ駄目でしょ。ずっとそんなだと、よしみちゃんにも笑われちゃうわよ」
 羞恥にまみれて顔を上げられない茜に向かって美也子が強い調子で言った。
「あ、美也子お姉ちゃん、茜ちゃんを叱らないで。恵美、ママに叱られたら悲しくて何もできなくなるの。でも、優しくしてもらったら嬉しくなってお手伝いしたり、ちゃんとお昼寝できたりするの。だから、茜ちゃんを叱らないで」
 うなだれるばかりの茜の横顔をちらと見た恵美は、我が事のように真剣な表情を浮かべて美也子に懇願した。そうして、自分の小さな掌を茜の手の甲に重ねて言う。
「さっきは美也子お姉ちゃんに教えてもらったけど、今度は恵美が茜ちゃんに教えてあげる。だから、仲よく競争しようよ。もしも茜ちゃんが負けそうになったら、恵美の花びら、たくさんあげる。だから、頑張ろうね。ほら、お手々を動かして」
 そう言って恵美は、茜の手に自分の手を添えてそっと動かし始めた。茜に比べればずっと年下でずっと小さな体だけれど、そんなふうにして茜をゲームに誘っているところなど、まるで恵美の方が年上めいて見えてくる。それに対して、いつまでも顔を伏せてなかなか体を動かそうとしない茜は、それこそ自分だけでは何もできない幼児そのままだ。それも、いつまでもおむつ離れできない無力な赤ん坊。
「わかった。美也子お姉ちゃん、茜ちゃんを叱らないから、その代わり、そうやって恵美ちゃんが茜ちゃんを遊ばせてあげてね。じゃ、号令をかけるよ」
 三歳の恵美から逆に妹扱いされる茜の様子を面白そうに眺めながら美也子は言い、腰をかがめて、茜の顔を下から覗き込んだ。
 美也子の冷たい瞳に睨みつけられて、茜がおずおずと顔を上げる。
「いい? はい、よーい、どん!」
 茜が顔を上げ、恵美に手を添えてもらってスカートの裾を持ち上げるのを待って、美也子は大声で号令をかけた。
 途端に、恵美が顔を輝かせて自分のスカートを右に左にと動かし始めた。その隣では、美也子に強要されるまま偽りの笑みを浮かべた茜が、おむつカバーをあらわにしてスカートを広げ持っていた。




 風に乗って誰かの声が聞こえてきたのは、恵美と茜が競争を始めて十五分ほど経った頃だった。
 最初は微かに聞こえていただけの声が、次第次第にはっきり聞こえるようになり、やがて、それが一人の声ではなく何人かの子供の甲高い嬌声だということがわかるくらいに近づいてくる。それに、よくよく耳をそばだてれば、嬌声の中に、子供たちの母親らしき若い女性たちの話し声が混ざっているのも聞こえる。
 声に気づいた茜は、すがるような目つきで美也子の顔を見上げた。このまま恵美とのゲームを続けていれば、こちらに近づいてくる何組もの親子連れの目におむつカバーをさらすことになる。かといって、美也子の許しを得ずに勝手にスカートを元通りに戻したら後でどんな仕打ちが待ち受けているかしれたものではない。茜はゲームを中断してくれるよう無言で美也子に懇願するしかなかった。
 が、美也子が指示するまでもなく、ケームはあっけない形で幕を閉じた。子供たちの声に気づいた恵美が
「あ、よしみちゃんの声だ。それに、さっちゃんやふみやくんの声も聞こえる」
と嬉しそうに言って、せっかくスカートの上に集めた花びらが落ちてしまうのも気にとめずに、ベンチから地面にひょいとおり立ったからだ。
「あ、もう競争はいいの?」
 ベンチからおり立って子供たちの声が聞こえてくる方をじっと見つめる恵美に美也子が訊いた。
「うん、お友達が来るから、もういいの」
 恵美はこくんと頷いた。それから改めて茜の方に向き直ると、にまっと笑って言った。
「ごめんね、茜ちゃん。恵美が途中で競争やめちゃったから茜ちゃんの勝ちでいいよ。でも、茜ちゃん、もっと遊びたかった? だったら、本当にごめんね。あ、そうだ。茜ちゃん、もっと遊びたかったら、恵美のお友達と一緒に遊ぶといいよ。よしみちゃんの他はみんなパンツのお兄ちゃんやお姉ちゃんだけど、砂場でお山の作り方や川の作り方も教えてくれるし、芝生で追いかけっこして遊んでくれるよ」
「う、ううん。私ももういい。たっぷり遊んだから、もういいの」
 恵美がゲームをやめたのを幸いに、茜は早口にそう言うと、さっとベンチから立ち上がってスカートの裾をおろし、手早く乱れを整えた。
 が、ゲームは終わったものの、美也子が今度また何を言い出すかしれたものではない。それこそ、恵美の言葉を口実に、子供たちと一緒に砂場やブランコで遊ぶよう命じるかもしれないのだ。
 茜は不安げな表情で美也子の顔をちらと盗み見た。
「あら、もうこんな時間。恵美ちゃんのお友達がお昼ご飯を食べ終わって遊びに来ても不思議じゃないわね。じゃ、私たちもそろそろ帰ろうか」
 美也子は、茜の胸の内を読み取ったかのように意味ありげな笑みを浮かべはしたものの、とりあえず今日のところは茜にこれ以上恥ずかしい目に遭わせる気はないようで、腕時計をちらと見ると、穏やかな口調で帰宅を告げた。
 もっとも、それは、茜を気遣ってのことなどでは決してない。美也子にしてみれば茜を際限なく恥ずかしい状況に追い込んで楽しみたいというのが本当のところだが、へたに急ぐと却って楽しみが減ってしまうことも充分に承知していた。どうせなら、長い時間をかけてじわじわと楽しもうというわけだ。そのために今日のところはこのへんで切り上げて明日以後にお楽しみをとっておくことにしたという、ただそれだけのことだった。
「う、うん……お昼ご飯が冷めちゃうかもしれないから、早く帰りましょう。」
 あからさまに安堵の表情を浮かべて、茜は美也子に帰宅を急かせた。一刻でも早くこの場を離れたいという気持ちがありありだ。
 が、もうはっきりと姿が見えている何組もの親子連れと、そちらに向かって大きく手を振っている恵美の姿を目にして、急に何かを思い出したような顔つきになると、これ以上はないくらいに真剣な声で恵美に話しかけた。
「あのね、恵美ちゃん。私のおむつのこと、誰にも言わないでちょうだいね。どんなに仲のいいお友達でも、お友達のお母さんでも、高校生のお姉ちゃんがおむつしてたよって言っちゃ駄目よ」
「うん、わかった。恵美もおむつ恥ずかしいから、茜ちゃんもおむつ恥ずかしいよね。だから、誰にも言わない。恵美、約束するよ」
 まるで哀願するかのような茜の訴えに、恵美は大きく頷いた。その様子は、傍目には、まるで年齢が逆転したかのように映る。
「ありがとう、お願いね。お願いだから、誰にも言わないでね」
「うん、言わない。――それより、茜ちゃん、明日も公園へ来てくれる? いつも恵美が一番に来て、お友達が来るのを待ってなきゃいけないの。だから、その間、茜ちゃんが一緒だと嬉しいんだけどな」
 恵美は茜の念押しにもういちど大きく頷いてから言った。
「え……」
 恵美の言葉に茜は息をのんだ。
 恵美にしてみれば何気ない一言だったに違いない。友達が来るのを待つのが寂しくて、その間に茜と遊べればいいなとふと思って発した素直な言葉に過ぎない。けれど、茜の受け取り方はまるで違っていた。日頃から美也子に容赦ない仕打ちを与えられている茜は、いつしか、言葉の裏の意味を考えるのが習い性になってしまっていた。表面上は優しげに聞こえるくせに、その裏に屈辱と羞恥に満ちた企みを併せ持った美也子の言葉に接しているうちに、実際には微塵も悪意のない言葉を耳にしても、その裏に何か目的があるのではないかと疑ってみる習慣が身にしみついてしまったのだ。そのため、まるで他意のない恵美の言葉を、茜の耳は『明日もこの公園へ来なさい。もしも来なかったら、恥ずかしいおむつことをみんなに話すわよ』と脅しているように聞こえてしまったのだった。
「……あ、明日は入学式だけだから、今日と同じくらいの時間に来られると思うわ。だ、だから、明日も一緒に遊ぼうね、恵美ちゃん」
 悪意のかけらもない恵美の言葉を自分勝手に悪い方に曲解した茜は、微かに震える声でそう応えた。



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