ママは同級生



 それは、決して強制されたものではない。美也子が脅したものでもなく、恵美の母親が強要したものでもなく、ましてや幼い恵美が無理強いしたものでも決してない。結局のところ、(無意識のうちに恵美の言葉を曲解してしまった)茜が明日も公園へ来ることを自ら約束したということになるわけだ。誰かに強制されたものなら言葉を翻すこともできるだろうが、自らの意思で口にした言葉を反故にすることはかなわない。知らず知らずのうちに茜は自身を羞恥の罠へと追い込んでしまっていたのだった。




「お帰りまさいませ、奥様。お帰りなさいませ、茜お嬢ちゃま」
 公園から家に戻った美也子と茜が玄関に入ると、足早に廊下を走ってきた弥生が恭しくお辞儀をして二人を迎えた。
「やだ、よしてよ、奥様だなんて。堅苦しいじゃない」
 弥生の仰々しい呼び方に美也子は苦笑した。
「西村のお屋敷では美也子様のお父様が旦那様、お母様が奥様で、美也子様がお嬢様ですけれど、こちらのお屋敷にお仕えする間は、美也子様のご主人様が旦那様で、美也子様が奥様、美也子様のご令嬢が茜お嬢ちゃまということになります。そうお呼びしてはいけませんでしょうか」
 西村家でマナーや口のききかた等を厳しく教え込まれた弥生は、まだ十五歳という若さに似合わぬ慇懃な態度で美也子に訊き返した。
「ううん、それで間違ってないわよ。間違ってないけど、学校でそんな呼び方をしたら大変なことになっちゃうじゃない。私と中野さんが姉妹で、茜ちゃんとは従姉妹どうしということになっているんだから注意しなきゃ。だから、そういう設定に慣れるために、家の中でも堅苦しい呼び方はしないようにしましょう。私は中野さんのことを弥生って呼ぶから、中野さんも私のことは『お姉ちゃん』って呼ぶようにしてちょうだい」
 美也子は軽く首を振って弥生に言って聞かせた。
「承知しました。奥様のことをお姉ちゃんなどとは畏れ多い呼び方ではございますが、事情を鑑みてそう呼ばせていただきます。ところで、茜お嬢ちゃまのことはどうお呼びすればよろしいでしょうか?」
 弥生はかしこまって応えたが、茜の顔に目をやると、思案顔になって美也子に尋ねた。
「それはなにも難しく考えることはないわ。普通に『茜ちゃん』でいいわよ。茜ちゃんの方が弥生よりも年上だけど、従姉妹どうしなら年齢に関係なく『ちゃん』付けで名前を呼び合うことも珍しくないし、これなら、家の中でも学校でもおかしくないでしょ」
 美也子は弥生に向かって説明した後、茜の方に振り向いてこう付け加えた。
「ただ、茜ちゃんが私や弥生のことを呼ぶ時は気をつけなきゃ駄目よ。私と弥生は家でも学校でも年齢通りの高校生だけど、茜ちゃんはそうじゃないからね。茜ちゃんは学校へ行っている間だけは高校生だけど、家の中じゃ赤ちゃんに戻るのよ。だから、学校では私のことは美也子さん、弥生のことは弥生ちゃんって呼べばいいけど、家の中では私のことはママ、弥生のことは弥生お姉ちゃまって呼ばなきゃ駄目なの。わかったわね?」
 そう決めつけられて、美也子と弥生の手から逃れる術を持たない茜には返す言葉がない。
「さ、そうと決まったら、お昼ご飯にしましょう。弥生の作ってくれるご飯とってもおいしいのよね。あ、でも、その前に着替えなきゃいけないんだっけ。弥生、茜ちゃんを着替えさせてあげてね」
 弱々しく頷く茜の様子を満足そうに眺めて、美也子は上がりがまちに足を乗せた。
「はい、奥……じゃなかった、お姉ちゃん。さ、茜ちゃん、靴を脱ぎ脱ぎしたら、お姉ちゃまが抱っこしてお部屋に連れて行ってあげるわね。早くお部屋に行って着替えましょう。いつまでも制服だと窮屈で可哀想だもの、いつもの可愛いお洋服に着替えましょうね」
 大柄な美也子よりも更に首一つ背が高くバスケットボールで鍛えた逞しい体つきの弥生は、美也子に言われるまま茜の体を軽々と抱え上げて階段に向かった。

 三人の姿が一階のダイニングルームに揃ったのは、茜と美也子が帰宅して半時間ほど経った頃だった。
 制服から普段着に着替えた美也子は、紺のタイトスカートに純白のブラウスと淡いクリーム色のカーデガンという、派手なところがまるでない上品ないでたちだ。高校三年生になったばかりでまだ十七歳の美也子だから、本当はもっと華やかで若やいだ格好をしたいところだが、この家の全てを取り仕切っているのが自分だということを無言で宣言するために、敢えて、いかにも良家の若奥様という風情の地味な装いを選んだのだった。
 そして、ダイニングテーブルを挟んで美也子の向かい側に座った弥生は、ジーンズにトレーナーという軽装に、髪をショートカットにした頭にバンダナを巻いた、見るからに体を動かしやすそうな格好をしていた。西村家の屋敷では常に長袖のメイド服とエプロン、ヘアドレスといういでたちだったが、平均よりは敷地も広くて閑静な住宅地に建っているとはいえ西村家に比べればいたって庶民的な佐野家にメイド姿はさすがに馴染まないということで、十五歳という若さと家事のしやすさを考慮して、そんな装いにしたわけだ。
 そんな二人に対して茜は、実際の年齢を物語る啓明女学院高等部の制服を弥生の手で剥ぎ取られ、肩口から袖口までふわっとした感じに仕立てた七分袖や、胸元と裾にあしらったフリルの飾りレースに、全体のふんわりした丸っこいラインが可愛らしい丈の短いベビードレスに身を包まれていた。内巻きのカールでボリュームを持たせた髪を優しく包む、可愛い柄の生地を細かいフリルで縁取りしたボネット。首筋と背中の二カ所できゅっと結わえた紐でしっかり留めた、ベビードレスの胸元を覆うガーゼ地の大きなよだれかけ。たくさんのおむつでぷっくり膨らんだおむつカバーの上に履かされた、ベビードレスと同じ生地で仕立てたオーバーパンツ。厚めの生地でできた、足首までの長さで、くるぶしのあたりにサクランボの形をしたボンボンを付けたソックス。
 茜の装いは、まだおむつの外れない赤ん坊そのままだった。しかも、きちんと椅子に腰掛けて食卓に向かっているの美也子や弥生と違って、茜がお尻を載せているのは歩行器のサドルだった。西村家に滞在していた時に使っていたのを美也子が気に入って、メーカーに追加で作らせた特別注文の大きな歩行器だ。それも、茜のいる場所に合わせて移動させるのも面倒ということで、一階と二階にそれぞれ一台ずつ配置するというこだわりようだった。そうして、美也子と弥生の食卓には卵焼きと魚の干物にホウレンソウのおひたし、豆腐の味噌汁といった献立の皿やお椀が並んでいるのとは対照的に、茜の目の前に並んでいるのは、ミルクの入った哺乳壜と、野菜のペースト、すりつぶしたチキンのクリーム煮、米の形が殆ど残っていないほど柔らかく炊きあげた粥といった離乳食を小分けにして一枚に盛りつけたプラスチック製の皿に、やはりこれもプラスチックでできたスプーンだった。それも、食卓の上に置いてあるのではなく、歩行器の前部フレームにしつらえた食器置きの上に並んでいる。
「じゃ、いただきましょう。弥生の料理はどれもおいしいけど、こういう家庭的な料理を作らせたら本当に最高ね」
 美也子は食卓に並ぶ食器を見渡して相好を崩した。
「最高だなんて……母が忙しくて、小さい時から食事は私が作っていたから慣れているだけです。そんなにお褒めいただけるような料理じゃありません」
 弥生が恐縮気味に応えた。
「ほらほら、またそんな他人行儀な喋り方をする。私たちは姉妹なんだから、そんな堅苦しい話し方はしないようにって言ったでしょ? ま、それはそれとして、明後日から授業が始まるから、弥生の作るお弁当を持って行くことになるのね。どんなおかずなのか、今から楽しみだわ。あ、この卵焼き、お母様の作ってくれたのより、ずっとおいしい」
「奥……お姉ちゃんがそんなに気に入ってくれたら、本当に作り甲斐があるわ。これからも頑張るからね、お……お姉ちゃん」
 少し照れ臭そうに弥生は言って、自分はまだ箸に手をつけずに、茜が乗っている歩行器の前に膝をついた。



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