ママは同級生



「じゃ、茜ちゃんもご飯にしましょうね。茜ちゃん、これまではずっとぱいぱいだけだったけど、もうすぐお昼はお弁当になるから、まんまのお稽古もしなきゃいけないと思って離乳食を用意してあげたのよ。西村のおじいちゃまやおばあちゃまから送っていただいた瓶詰や缶詰がたくさんあるから助かるわ」
 大きな歩行器の前に膝をついた弥生は、プラスチック製のスプーンで野菜のペーストを掬い取って茜の口に近づけた。けれど、茜はなかなか口を開けようとしない。もっとも、高校生にもなって他人の手でベビーフードを食べさせられようとしているのだから、屈辱が先に立ってしまって、口を開けられないのも当たり前のことだ。それでも、茜の胸の内などまるでお構いなしに弥生がスプーンを力まかせに押しつけるものだから、とろっとしたペーストがとうとうスプーンからこぼれ落ちてしまう。
「あらあら、やっぱり茜ちゃんにはまだ離乳食は早いのかな。でも、ちゃんとまんまを食べるお稽古をしとかないと、学校へも哺乳壜を持って行かなきゃいけなくなっちゃうわよ。茜ちゃん、それでもいいのかな?」
 弥生はスプーンを皿に置き、よだれかけの端で茜の口から顎先にかけてこぼれたペーストを拭い取りながら、あやすように言った。
 それに対して、茜には返す言葉がない。羞恥と屈辱に耐えかねてこの場から逃げ出そうにも、歩行器のキャスターがロックされているため、ただでさえ滑りやすい生地のソックスを履かされていることもあって、幾ら床を蹴ってもびくとも動かない。
「いい加減にしないと、ママ、怒るわよ。弥生お姉ちゃまは自分のご飯も食べないで先に茜ちゃんにまんまを食べさせてくれているのよ。それなのに、なんなの、その態度は!」
 美也子が茜の顔を睨みつけてきつい調子で言った。
 途端に茜は身をすくめてしまう。顔には、怯えの色がくっきり浮かんでいた。
「駄目よ、お姉ちゃん。小っちゃい子は叱るだけじゃ駄目なんだから。小っちゃい子が言いつけを守らないのは、本当は誰かに甘えたいからなのよ。甘えたいけど甘えられないから、つい駄々をこねちゃうの。茜ちゃんもそうなんだよね?」
 弥生は、叱責する美也子をやんわりたしなめ、そっと歩行器の左横に移動すると、その場に立ち上がって、茜の顔を自分の胸元に抱き寄せた。
 突然のことに茜は両手をばたつかせて抵抗しかけるのだが、すぐに、その手がぴたっと動きを止めてしまう。まだ固いくせにぷりんと張りのある二つの乳房の谷間に顔を埋めると、どっくんどっくんと脈打つ弥生の心臓の鼓動が聞こえてくる。生命力に溢れ熱い血液を全身に送り出す精気みなぎる鼓動の音を耳にすると、なぜか心が安まる思いがする。むずがる赤ん坊を胸元に抱き上げて心臓の鼓動の音を聞かせると泣きやむことが多いのは、母親の胎内にいる時に常に接していた生命力に満ちた神秘の音を思い出して安堵するからだという。今の茜も、まさにそんな状態にあった。美也子と薫の企みによって、また、京子の登場によって、茜は、美也子に対する依存心を胸の中に抱えるよう仕組まれた。そのせいで、美也子から強い調子で叱責されると、途端に身も心も萎縮してしまう。そんなところに、肉体的にも精神的にもまるで母性の申し子のような弥生が現れ、心の底からいつくしむように茜の体を抱きしめるものだから、たまらない。茜は、すっと気分が落ち着くと同時に、美也子に対するのとはまた別の、弥生に対する哀しいくらいに切ない依存心が自分の心の奥底に芽生えてくるのを感じた。
(やだ、何を考えているのよ、私ったら。中野さんは私より二つ年下の、明日ようやく高等部の入学式を迎えるばかりの、まだ十五歳の少女なのよ。そんな子に甘えたくなるだなんて、絶対に駄目よ、茜。美也子さんのせいで、いろんなことをまともに考えられなくなっているのよ、茜は。だから、もっとちゃんとなさい。ちゃんとして自分を取り戻しなさい)自分の心の奥底で甘く切ない感情が芽生えかけていることを察知して、茜は自身を叱咤した。このまま感情の動きに身を委ねたが最後、取り返しのつかないことになるだろうことが痛いほどわかる。わかるのだが、いったん芽生えた禁断の感情の芽を摘み取ることもかなわない。

 歩行器のサドルに跨った茜が様々な思いに翻弄されている真っただ中、電話の着信を報せる電子音が鳴り響いた。
「はい、佐野でございます」
 美也子が食事を中断して、食卓の隅に置いておいたコードレスの子機を持ち上げた。
「はい。――いえ、娘は只今、電話に出ることができません。――ええ、そうです。私が佐野の家内です。いえ、正式な入籍は今回の航海から帰ってきてからということになります。はい、それで――承知しました。娘にも申し伝えます。何か変化がございましたら連絡をお願いいたします。それでは失礼いたします」
 かかってきた電話にてきぱきと応え、子機を置いた美也子は、再び自分の席につくと、何やら思うところのありそうな表情を浮かべて茜の方に向き直った。
 弥生の胸に顔を埋めて倒錯の安らぎにひたっていた茜が、なんとも言えない気配を察して不安に顔を曇らせる。弥生も、それまで抱きしめていた茜の体から手を離し、なにごとがあったのかと美也子の顔を見つめた。
「電話は勇作さんの会社からだったわ。予定通りなら勇作さんの船は明日の午前中に港に戻る筈だったんだけど、それが延期になるんですって――」
 美也子は言葉を選びながら二人に説明した。茜の父親である勇作が航海士として乗り込んでいる大型旅客船の今回の航海は、船会社や旅行会社が乗客を募って行う通常のクルージングではなく、石油関係で潤った中東方面の王様がありあまる財力に物を言わせて開催した洋上バースデーパーティーのためのチャーターだったらしい。だから通常よりもずっと短期間の航海で、出港から二週間ちょっとで帰港する予定だったのだが、帰途についてしばらく航行したところで、エンジンのトラブルにみまわれたらしい。しかも、そのトラブルが軽微なものではなく、タービン関係の主要部品を取り換える必要があるとかで、ヨーロッパにあるメーカーから取り寄せなければならないということだった。しかもかなり特殊なオーダーメイド品だから、これからメーカーの工場で組み立てて現地に運搬し、作業が完了するまでに一ヶ月ほどかかるそうだ。その間、下級船員たちは空路で帰途につかせることもできるものの、勇作を含むオフィサーたちは船を離れることができないらしい。
「――というわけで、勇作さんが帰ってくるのは、来月の中ごろになりそうだということらしいわ」
 そう言って美也子は説明を終えたが、説明している間、妙に淡々とした口調で話していたことに、自分で気づいていた。あれだけ勇作に心惹かれ、勇作を独占するために、勇作の実の娘である茜を無力な赤ん坊めいた存在に変えてしまおうと企み、自分の周りの何人もの人物を協力者に仕立てた美也子。本当なら勇作が航海を終えて帰ってくるのを千秋の思いで待ち詫び、じりじりした気持ちで日々を送り、帰ってくる日が延期になったと告げられれば落胆の色を隠せないのが本当だろう。なのに、いざこうして電話で帰港の延期を知らされても、さしたる感慨も持たず、どこか他人事のように受け容れているのが実際のところだった。そんな、思いと現実との奇妙な齟齬感に美也子は微かな戸惑いを覚えた。だが、そんな戸惑いもじきに気にならなくなってしまう。
 もともと美也子が勇作に心惹かれたのも、強引に結婚にまで突き進んだのも、結局のところ、子供が新しいオモチャを欲しがって駄々をこねるのとさほど違わない。美也子は、支配欲と独占欲が人並み外れて強く、自分の思った通りに事が運ばないと激しい攻撃性をしめす反面、新しいオモチャを手に入れることができた瞬間、そのオモチャに飽き、すぐに見向きもしなくなるという性向を持っていた。そのため、本来は勇作を奪うために茜を強引に赤ちゃん返りさせていたのが、いつのまにか、茜に対する幼児化調教そのものに妖しく加虐的な悦びを覚えるようになり、茜の羞恥にまみれた表情を目にすることで歪んだ満足を感じるようになっていた。そのため、今や勇作の存在は、美也子にとっては意識の片隅にしかない。むしろ、勇作が当分は帰ってこないとわかり、誰に邪魔されることなくいよいよ存分に茜を責めたてることができると知って、ますます異形の悦びの炎を燃えたぎらせる美也子だった。



戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き