ママは同級生



 一方、父親の帰国が随分と遅くなることを告げられた茜は、ますますの絶望感に打ちのめされていた。美也子によって強要されている赤ん坊めいた生活も父親が帰ってくれば幕を閉じるに違いないと自分に言い聞かせ、父親の帰宅だけに一縷の望みを託していたのだ。それが、一ヶ月以上も先にならないと父親が帰ってこないと聞かされたのだから、かろうじてたった一本だけ残っていた希望の糸が目の前で断ち切られたような思いにとらわれる。
「心配しなくても大丈夫よ、茜ちゃん。お父様、お船の修理が終わったらすぐに帰ってきてくださいますからね。お病気になったわけでもないし、お怪我をなさったわけでもないから、そんなに心配しなくていいのよ」
 顔色を失った茜に、弥生がさかんにいたわりの声をかける。
 茜の顔色がなくなったのは、勇作の安否を心配してのことではない。現地にとどまらなければならないとはいえ、航行用のエンジンが破損していても動力用の補助エンジンさえ無事なら船内の照明やエアコンは動かせるし、病気にかかったとしても、設備の整った医務室があって腕の立つ船医も乗船していると常々父親から聞かされていたから、その点はまるで心配していない。茜にとっては、そんなことよりも、父親の帰る日がずっと先に伸びてしまったというそのこと自体に落胆しているのだ。いくら強引な美也子でも、実の父親の目の前で茜を赤ん坊扱いすることはできないだろうと期待していたのに、その期待が脆くも音を立てて崩れ落ちてしまったのだった。
 そんな茜の胸の内を知ってか知らずか、弥生はいささか的外れないたわりの言葉を茜にかけ、それでも茜の顔色が冴えないままなのを見て取ると、再び茜の顔を自分の胸元に抱き寄せた。
 どっくん。
 どっくん。
 厚手のトレーナーの生地を通して、大きな弥生の体の隅々まで血液を送り届ける心臓の鼓動が伝わってくる。
 その力強い鼓動に触れて、茜の心の奥底に芽生えた弥生に対する依存心がますます大きく育ってゆく。弥生も美也子の協力者の一人だということは痛いほどわかっている。わかっているけれど、弥生だけは薫や京子や怜子とは違っているように思えてならない。他の三人に比べて弥生だけが明らかに若いということもあるが、それだけではなく、見返りを求めない本当の意味の母性が感じられるような気がする。あるいは次期院長としての自分の立場を守りながら奇妙なゲームに興じるため、あるいは実の娘が新しい家庭で支配的な地位を手に入れられるよう協力するため、あるいは孤独な保健室での生活に病んだ心を倒錯的な悦びで慰めるため。そんな目的で美也子に手を貸す三人とは違って、弥生だけは、茜に対して、まるで自分の幼い妹に対するのと同様の無償の愛情を注いでいてくれるように感じられてならない。自分よりも二つ年上の茜を赤ん坊扱いして笑う姿だけを目にすれば他の三人と同じに見えるかもしれないけれど、まるで目が笑っていない三人とは異なり、弥生だけは心の底から笑っているように思える。いささか異形の喜こびではあるものの、弥生だけは純粋に『育児の喜び』を味わっているのかもしれない。
 父親の帰りがずっと先に延期されてしまった今、茜は、助けを求める相手は弥生しかいないという思いがふつふつと胸の中に湧きあがってくるのをどうしても止められないのだった。

 弥生はしばらくの間そうしておいてから、そっと茜の体から手を離し、再び歩行器の前に膝をついて茜の顔を正面から見て優しく言った。
「さ、もう機嫌は直ったかな? 直ったら、まんまにしましょうね」
 弥生の声に茜がおずおずと頷いた時、廊下の奥の方から何やらピーピーという音が聞こえてきた。
「あら、何の音かしら?」
 一人だけ先に食事を終えた美也子が急須に手を伸ばしながら、誰にともなく呟いた。
「あ、あれは洗濯機から出ている音よ。洗濯が終わったのを知らせるの。お姉ちゃんの鞄に入っていた袋から汚れたおむつを出して洗濯していたのが終わったんだわ」
 スプーンを持つ手の動きを止めて弥生が説明した。
「ああ、保健室で取り替えてあげたおむつと公園のベンチで取り替えてあげたおむつね。そういえば、弥生、お昼ご飯の準備をしている途中で勝手口の方に行ってたけど、あれって、洗濯機をまわしてたのね。でも、そんなに急いで洗濯しなきゃいけないの?」
 最初は得心顔で頷いた美也子だが、わざわざ昼食の準備の合間をぬってまで洗濯機を動かさなくてもよさそうなものだと気がついて、途中から少しばかり訝しげな表情になる。
「うん、急がないと心配なのよ。少しでも早く洗濯して干しとかないと夕方までに乾かないから、干物を焼いてる間に洗濯機をまわしといたの。じゃ、私は洗濯の終わったおむつを干してくるから、茜ちゃんのまんま、お姉ちゃんが食べさせてあげてね」
 そう応えて弥生はスプーンを美也子に手渡すと、廊下に向かって歩き出した。
「はいはい、わかりました。茜ちゃんのまんまは私がちゃんと食べさせておきます」
 やれやれ人使いの荒いメイドだこと、と美也子は冗談めかして胸の中で肩をすくめ、姉妹らしい振る舞いがすっかり板に付いてきた弥生の態度に、苦笑交じりに頷いた。が、そんなに洗濯を急ぐ理由が改めて気になって、ダイニングルームを出て行こうとする弥生を呼び止めた。
「あ、ちょっと待って、それにしても、夕方までに乾かさなゃいけないって、ひょっとして、おむつ足りないの?」
「そうよ。もともとこの家のベビー箪笥にしまってあったおむつはお姉ちゃんがみんな学校の保健室に預けちゃったから、今あるのは、西村のお屋敷から持ってきた、お姉ちゃんが赤ちゃんの時に使っていたお下がりのおむつだけなのよ。かなり枚数があったからそれで足りるかなとも思ったんだけど、昨日の茜ちゃんの様子を見てると心配になってきたの」
 くるりと振り向いた弥生は美也子にそう説明してから、歩行器の中の茜に向かってくすっと笑って言った。
「だって、茜ちゃん、一日に何度もおもらししちゃうんだもの。それに、大きな赤ちゃんだからちっちの量も多くて、一度にたくさんおむつを汚しちゃって、ママのお下がりだけじゃ足りなくなるかもしれないのよ。だから、こまめにお洗濯して早めに乾かしとかないとね」
 美也子と違って、弥生には、意地悪く茜の羞恥を煽るつもりはないかもしれない。けれど茜にしてみれば、にこやかな笑顔でそう言われると自分が本当の幼児そのままに扱われてれているよう思われて、却って気恥ずかしくなる。そうして、気恥ずかしいくせに、同時に、なぜとはなしに胸がきゅんとなるような切なさを覚える。
「じゃ、弥生お姉ちゃまが茜ちゃんのおむつを干している間、ママがまんまを食べさせてあげようね」
 気恥ずかしさと切なさに頬をほんのりとピンクに染めて弥生の後ろ姿を見送る茜の唇に、美也子がプラスチック製のスプーンを押し当てた。
 その途端、茜が激しく首を振り、
「いや!」
と叫んで、固く唇を閉ざしてしまう。
「あらあら、どうしたの、茜ちゃんてば。何をそんなにむずがっているのかしら。まんまよりぱいぱいの方がいいのかな?」
 スプーンからこぼれそうになったチキンのクリーム煮をかろうじて皿で受け止めて、美也子はスプーンの代わりに哺乳壜を持ち上げ、ゴムの乳首を茜の口にふくませた。
 が、茜は哺乳壜の乳首も吐き出してしまう。そうして、ミルクの雫が唇の端から顎先へ伝い落ちるのも気にならないかのような表情で美也子の顔を見上げ、
「お姉ちゃまがいいの。茜、弥生お姉ちゃまがいいんだから」
と、すがるように訴えかけるのだった。それは、茜の胸の内に芽生えた弥生に対する依存心が何に遮られることもなく見る見るうちに大きく育ってゆくことの表れに他ならなかった。父親が帰ってきさえすればという一縷の望みを断ち切られた絶望の中でようやくみつけた唯一の心のよりどころが弥生の母性だった。その弥生が勝手口に姿を消し、酷薄な笑みを浮かべる美也子の手で離乳食のスプーンを唇に押し当てられて、茜は思わず感情を高ぶらせてしまったのだ。



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