ママは同級生



「そう、そんなに弥生お姉ちゃまがいいの。茜ちゃんはママよりも弥生お姉ちゃまがいいのね?」
 頑なにスプーンと哺乳壜を拒む茜に、美也子は語気を荒げることなく、確認するように言った。その静かな口調が却って不気味だ。
「じゃ、弥生お姉ちゃまの所へ連れて行ってあげる。哺乳壜と食器はこのまま歩行器に載せていけばいいから、弥生お姉ちゃまのいる所でもまんまは食べさせてあげられるものね」
 美也子は静かな口調のままそう言うと、茜の返事を待つこともなくキャスターのロックを外して歩行器を押し始めた。

 勝手口のすぐ手前にちょっとしたスペースがあって、そこに洗濯機が置いてある。茜の乗った歩行器を押して美也子がその場所へやって来た時には、洗濯機から取り出した洗いたてのおむつを入れた洗濯篭を手に提げて、弥生が勝手口から外に出て行こうとしているところだった。が、歩行器のキャスターが転がる音に気づいた弥生は、ドアのノブに手をかけた手を離して、くるりとこちらに振り向いた。
「どうしたの、茜ちゃん? まだまんまが残っているのに、どうしてここへ来ちゃったの?」
 振り向いた弥生は僅かに首をかしげて茜の顔を見た。
「茜ちゃん、弥生お姉ちゃまがいいんですって。弥生お姉ちゃまじゃないとまんまを食べないんだって。ママじゃいやなんだって。だから連れて来てあげたのよ。本当にすっかりお姉ちゃまっ子になっちゃって、妬けるったらないわ」
 歩行器をゆっくり押しながら美也子が意味ありげな笑みを浮かべて説明した。
「あ、そうだったの、茜ちゃん。そんなになついてもらって、お姉ちゃま、とっても嬉しいな。でも、お姉ちゃまはまんまを食べさせてあげられないのよ。これから、茜ちゃんが汚しちゃったおむつを干さなきゃいけないの。夜までにおむつが乾かなかったら茜ちゃん、おねしょでベッドをびしょびしょにしちゃって、ねんねする所がなくなっちゃうものね」
 弥生は勝手口のドアのすぐ前に立ったまま、手に提げた洗濯篭を茜の目の高さまで持ち上げた。篭の中には、保健室で取り替えられたおむつと公園のベンチで取り替えられたおむつ、合わせて二十枚の布おむつが入っていた。
 自分が汚してしまい、弥生が洗った布おむつを目の前に突きつけられて、茜の顔が真っ赤に染まる。
「あらあら、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのよ。だって、茜ちゃんは赤ちゃんだもの。歩行器に乗ってまんまを食べてせてもらうような小っちゃな赤ちゃんだもの、おむつを汚しちゃってもちっともおかしくないのよ。だから、恥ずかしがらなくていいの」
 弥生は、恥ずかしそうに洗濯篭から目をそらす茜に向かってにこやかに微笑みかけた。
 そこへ、春の日のような弥生の笑い声とは対照的に氷のような笑いを含んだ美也子の声が割って入る。
「でも、お家の中じゃ赤ちゃんでも、お家を出て学校へ行ってまたお家に帰ってくるまでの間は高校生のお姉ちゃんの筈よね。弥生お姉ちゃまがお洗濯してくれたおむつ、ママが保健室と公園で取り替えてあげたおむつなんだけど、その間は茜ちゃん、高校生のお姉ちゃんじゃなかったのかな? 赤ちゃんじゃないのにおむつを汚しちゃったんじゃなかったかな?」
 美也子の言葉が茜の胸にぐさりと突き刺さる。周囲から徹底的に幼児扱いされるうちに、茜は、いっそこのまま身も心も赤ん坊になりきってしまった方が楽かもしれないと何度か思ったことがある。赤ん坊のようにおむつを濡らすことを強要され、哺乳壜のミルクしか与えられない日々が続くなら、心の底まで赤ん坊そのものになりきってしまえば羞恥を感じずにすむかもしれないと思ったことが二度や三度ではない。そんな思いは、弥生の母性に触れることでますます大きく膨らみかけていた。常にそうすることはかなわなくても、一日の内の僅かな間だけでもそうすることができるなら、それだけでどんなにか心安かな時間を過ごすことができるだろう。それが可能なら、父親が帰ってくるまでの一ヶ月強の間、千々に乱れて我をなくしてしまいそうな心の平静を保つことができそうな気がする。
 なのに、そんな茜の心の動きを察してか、美也子は茜を容赦なく現実の世界に引き戻すのだった。「茜ちゃんは赤ちゃんだから」と弥生に言われて甘く切ない羞恥にひたっている茜を、美也子は「本当は高校生なのに」と冷たい言葉を投げかけて苦く刺々しい屈辱のどん底に突き落とすのだった。胸の中で鎌首をもたげる支配欲に命じられるまま、茜をこれでもかと赤ん坊扱いしつつも当の茜が赤ん坊になりきってしまうことは絶対に許さず、高校生としての生活と赤ん坊としての日常を延々と行ったり来たりさせることに妖しい悦びを覚える美也子の手から、いかなる意味でも逃れる術を茜は持っていなかった。
「ま、いいわ。おむつを汚しちゃった時は高校生のお姉ちゃんだったけど、今は、まんまも自分で食べられない小っちゃな赤ちゃんだものね。じゃ、茜ちゃんが学校の教室で汚しちゃったおむつとお外を歩きながら汚しちゃったおむつを洗濯してくれた優しい弥生お姉ちゃまが洗濯物を干してるところを見ながら、ここでまんまにしましょう」
 美也子はそう言って歩行器を廊下の端まで押し進めてから、キャスターをロックした。
 それを待って、弥生が勝手口のドアを押し開けた。大きく開いた勝手口からは物干し場がすぐそこで、たくさんの洗濯物が穏やかな風に揺れる様子が間近に見渡せる。
 洗濯物は、二人が学校へ行っている間に弥生が洗って干しておいたもので、美也子と弥生の下着類も混ざっているが、大半は茜の衣類だった。ただ、衣類とはいっても、実際の年齢にふさわしいショーツやジーンズなどではなく、様々な柄の数え切れないほどの枚数の布おむつに、大きささえ気にしなければ赤ん坊のと見分けがつかないほど可愛らしいデザインのおむつカバーが四枚、それに、丈が短く丸っこいラインのベビードレスとオーバーパンツにロンパース、何枚ものよだれかけといった、高校生の茜を年端もゆかぬ赤ん坊に変貌させるための羞恥の衣装だ。
 弥生は、勝手口から出てすぐの所に掛けた物干し竿に新しいパラソルハンガーを吊すと、洗濯篭から取り出した布おむつを一枚ずつ両手で広げては、空中でぱんっと空気をふくませてシワを取ってから、丁寧にパラソルハンガーにかけていった。
「あれもあれも、それにあれも、みんな茜ちゃんが汚しちゃった物なのよ。一昨日の夜、おじいちゃまのお家から帰ってきてすぐおもらししちゃって、それからずっとおもらしとおねしょが続いて、ほら、あんなにたくさんおむつを汚しちゃって。茜ちゃんは大きな赤ちゃんだからちっちの量も多くて、おむつカバーも何度も取り替えてあげなきゃいけなかったのよ。それに、よだれやぱいぱいで、よだれかけもたくさん汚しちゃって。それだけじゃないわ、今日も学校から帰ってくるまでの間だけで二度もおむつを汚しちっゃたのよ。これじゃ、おむつが足りるかどうか弥生お姉ちゃまが心配するのも無理ないわね」
 美也子は歩行器の後ろから右横に移動し、すっと膝を折って茜と目の高さを合わせると、物干し竿やパラソルハンガーに吊されて風に揺れている洗濯物を順番に指差してみせた。
 しかし、本当のことを言うと、おむつやベビードレスは実際に汚してしまったのだから仕方ないしとて、おむつカバーとよだれかけは、そんなにこまめに取り替える必要はなかった。おしっこが横漏れしてしまっておむつカバーを取り替えなければならなかったのは実は二度だけだし、よだれかけに関しては、日に何度も取り替える必要がないのに、食事代わりのミルクを飲ませるたびに何度も新しい物に取り替えていたから余計に洗濯物が増えてしまったというのが実情だ。そんな余分な手間をかけてまでおむつカバーやよだれかけを取り替える回数を増やした目的が茜の羞恥を煽るためなのは言うまでもない。おむつにしてもよだれかけにしても、それを初めて身に着けさせられた時には言葉では表現しようのない恥ずかしさを覚えるのだが、そのまま時間が経つと、決して慣れるとはゆかないものの、心の片隅では、どこかそれが当たり前のことのように感じられ、幾らかは羞恥もおさまってくるものだ。けれど、そんな時に、「たくさんちっちしちっゃたからおむつを取り替えるだけじゃ駄目ね」と諭されておむつカバーまで取り替えられ、「あらあら、ミルクの滲みがこんなに大きくなっちゃって」と囁かれてよだれかけを取り替えられたら、一旦はおさまりかけた羞恥の炎が再びこれでもかと煽りたてられ、胸の中に激しい渦を巻くのだった。おむつやよだれかけを『外して』もらうのではなく『取り替えて』もらうという行為は、初めておむつをあてられ、初めて大きなよだれかけで胸元を覆われるのと同じくらいに激しい羞恥を覚えさせられる行為だった。美也子はそんなふうにして茜をいたぶるために、あるいは自分の手で、あるいは弥生に命じて、余分な手間をかけてまで洗濯物の量を増やしたのだった。



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