ママは同級生



「でも、そんな心配はママとお姉ちゃまにまかせておけばいいのよ。赤ちゃんの茜ちゃんは、そんなこと心配しないで、たくさんちっちしておむつを汚していいんだからね。さ、弥生お姉ちゃまの所へ連れて来てあげたんだから、今度こそちゃんとまんまにしましょう。これでまだ言うことをきけないような悪い子はお仕置きよ」
 自分が汚した恥ずかしい洗濯物を間近に見せつけられ、そんなふうに指摘されて思わず顔を伏せる茜の様子を面白そうに眺めながら美也子は、歩行器の付いた食器置きから持ち上げたスプーンでチキンのクリーム煮を掬い取った。
「ほら、まんまよ。弥生お姉ちゃまも言っていた通り明後日からは学校でお弁当を食べなきゃいけないんだから、ちゃんと今のうちにまんまを食べるお稽古をしとこうね」
 美也子は右手にスプーンを持ち、顔を伏せる茜の顎先を左手の人差指と中指でくいっと持ち上げた。
 美也子にそうされて、茜は観念したような表情でのろのろと顔を上げた。これ以上『まんま』を拒み続ければ美也子の言う通り容赦ないお仕置きが待っているのを茜は身にしみて思い知らされていた。そして、この状況で与えられるお仕置きは、おそらく、丸一日間の食事抜きだろう。食物はともかく、丸一日に渡って一滴の飲み物も口にできない苦痛を、茜は、美也子と一緒に暮らし始めて三日後に経験していた。その時の苦痛を思い出すと、とてもではないが、もうこれ以上は美也子に反抗できるものではない。
「さ、ちゃんと食べるのよ。ほら、お口を開けて」
 美也子がそう言ってスプーンを口元に近づけると、茜はおずおずと唇を開けた。
 が、美也子はわざと狙いを外し、スプーンの先端を開いた口ではなく下唇に押し当てて、すっと傾けた。すると、スプーンに掬い取っていたチキンのクリーム煮が、口の中に入らず、茜の唇から顎先にかけてとろりと伝い落ち、首筋から胸元に滴り落ちて、よだれかけにクリーム色のシミを作る。
「あらあら、今までぱいぱいばかりだったから、まだまんまは上手に食べられないのね。でも、いいのよ、気にしないでゆっくり食べればいいんだから。まんまのお稽古をするうちに上手に食べられるようになるからね」
 チキンのクリーム煮をこぼしてよだれかけを汚してしまったのは茜の食べ方が下手なのではなく自分がわざとそうしたことなのだが、それを充分にわかっていながら美也子は、初めて離乳食を口にする赤ん坊に対するように言って茜の羞恥をくすぐった。しかも、羞恥はそれだけでは終わらない。昼食が終わったら、チキンのクリーム煮をこぼしてシミになったことを理由に、茜は美也子の手によってよだれかけを取り替えるられることになるのだ。高校生のくせに自分では何もできない赤ん坊と同じように吸水性のいい生地でできたよだれかけで胸元を覆われる屈辱と羞恥を改めてたっぷり味わいながら。
「さ、もういちど。急がないで、ゆっくり食べようね」
 美也子は再びチキンのクリーム煮を掬い取り、今度は、おずおずと半分ほど開いた唇の間にスプーンを持って行く。
 けれど、二度目も、やはりスプーンからクリーム煮がこぼれ出してよだれかけを汚してしまった。しかし、今回は美也子が仕組んだことではない。半分ほど開いた唇の間に美也子がスプーンを持って行ったところ、急に茜がぎゅっと瞼を閉じて顔を伏せたため、慌てて美也子がスプーンを手元に引き戻そうとしたものの間に合わず、茜の上唇に触れたスプーンが傾いてクリーム煮がこぼれてしまったのだった。
「どうし……」
 どうしたの、茜ちゃん? 突然のことにそう訊きかけた美也子だが、顔を伏せた茜が、歩行器のサドルを両脚できゅっと挟むようにして内腿をもじもじと摺り合わせているのを見て、何があったのかじきに理解した。
「……ああ、そういうことだったの。ちっちが出ちゃったのね。本当は、まんまの最中におもらしだなんてお行儀の悪い子ねって叱りたいけど、赤ちゃんだもの仕方ないわよね。いいわ、まんまを食べながらちっち出しちゃいなさい。まんま食べ終わったらおむつを取り替えてあげる。だから、早くまんまを食べちゃわないと駄目よ。歩行器のサドルに跨ったままだと茜ちゃんの体重がお尻に集まって、せっかくおむつが吸ってくれたちっちが、体重のせいでおむつから滲み出してオーバーパンツもサドルも廊下も濡らしちゃうのよ。だから、ほら、ちっちしながらでいいから、早くまんまを食べちゃおうね」
 美也子は茜の口元にこぼれたクリーム煮をよだれかけの端で拭い取ると、今度は野菜のペーストをスプーンに掬い取り、ぎゅっと瞼を閉じて顔を伏せる茜の顎先に再び指をかけた。
 心ここにあらずといった茜だが、美也子のなすがまま、今はおしっこでおむつを濡らしながら離乳食を口にするしかない。物干し場に揺れるたくさんのおむつとおむつカバーのすぐそばで歩行器のサドルに跨り、、殆ど食べ物の形も残っていない薄い味付けの離乳食を美也子の手で食べさせてもらっている間も絶え間なくおしっこを溢れ出させておむつを濡らし続ける茜の姿は、それこそ、自分では何もできない無力な赤ん坊以外の何者でもなかった。




 すっかり日が暮れ、少し早めの夕飯をとって後片つけも終えた弥生は、茜の乗った歩行器を押してダイニングルームをあとにした。
 向かう先はバスルーム。もちろん、茜をお風呂に入れるためだ。西村家の屋敷ではバスルームも浴槽も大きいから三人で一緒に入浴していたのだが、こちらの家のバスルームは二人が精一杯ということで、美也子と弥生が一日おきに交互に茜をお風呂に入れるということにして、今日が弥生の当番の日だった。
 二人が浴室の前までやって来ると、脱衣場の床に大きめのバスタオルを敷いて美也子が待っていた。脱衣場の隅には、風呂上がりの茜に着せる肌着やロンパース、それに、新しいおむつといった物が入った、藤で編んだバスケットが置いてある。どうやら、弥生が片づけ物をしている間に美也子が『育児室』から運んで来たようだ。
「あ、ごめんね、お姉ちゃん。さっさと後片づけを終わらせて私が持ってくればよかったんだけど」
 藤製のバスケットに気がついた弥生は美也子に向かってにっと笑いかけた。
「いいのよ、そんなこと気にしなくても。もうあと二週間もしたら学校もクラブ活動が本格的になって弥生も遅くまで練習することになるじゃない? そうなったら私もいろいろ家事をしなきゃいけないんだから、今のうちに慣れておこうと思ってね。それに、私が茜ちゃんのママなのよ。茜ちゃんは普通の赤ちゃんに比べるとずっと体の大きな赤ちゃんだからお世話係として弥生にこの家に来てもらったけど、本当だったら私がみんなしてあげなきゃいけないんだから」
 美也子は軽く首を振って弥生に言ってから、腰をかがめて茜の顔を覗き込んだ。
「もっとも、茜ちゃんはママよりも弥生お姉ちゃまの方がお気に入りらしいけどね。そりゃ、優しく甘えさせてくれる弥生お姉ちゃまの方が厳しいママよりも好きになるわよね。でも、ママは茜ちゃんが憎くて厳しくするんじゃないのよ。茜ちゃんが素直ないい子に育ってくれるようにちゃんと躾けてあげているの。それはわかってほしいわね」
 美也子はそう言って笑ってみせたが、目はまるで笑っていなかった。素直ないい子という言い方にしても、それが実は『美也子にとって素直ないい子』を意味しているのだということを茜は痛いほど思い知らされている。けれど、それに対して一言も言い返すことはできない。
「じゃ、大好きな弥生お姉ちゃまに抱っこしてもらって歩行器からおろしてもらおうね。晩ご飯が終わる前にちっち出ちゃっておむつが濡れてるんでしょ? 濡れたおむつのまま歩行器のサドルに跨ってると、ちっちがおむつから滲み出しちゃうから、早くしないといけないわね」
 尚も茜の顔を覗き込んで美也子は続けた。
 けれど、それに対しても茜は何も言い返せない。昼食の時も、オヤツの時も、お昼寝の最中も、そうして夕食の時も、茜は何度も何度もおむつを汚してしまったのだから。そうして、そのたびにもじもじと内腿を摺り合わせる仕種をして美也子にみつかり、「茜、ちっちなの。ちっち出ちゃったからおむつ取り替えて欲しいの」と幼児言葉で美也子と弥生に教えるよう強要されたのだから。



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