ママは同級生



 美也子は冷たく笑ってそう言い、特製の大きな歩行器を顎先で指し示した。
「そ、そんな……」
 思わず口を開いた茜だが、すぐに、出かかった言葉を飲み込んでしまう。昨夜の浴室での弥生との会話を美也子に聞かれたことを思い出すと、とてもではないが何も言い返せない。
「それじゃ、歩行器にお座りしようね、茜ちゃん。お姉ちゃまも制服に着替えてくるから、その間、ママにまんまを食べさせてもらっていてちょうだい」
 弥生は、押し黙った茜の体をそっとおろすと、歩行器のサドルに跨らせて二度三度と頭を撫でてからダイニングルームをあとにした。三人の内で一番早く起き出して朝食の用意をし、茜が汚してしまったおむつの洗濯をして物干し場に干すといった家事をこなしている間に着ていたジーンズとトレーナーを、茜を美也子の手に委ねて余裕ができた今のうちに制服に着替えるためだ。
「い、いや……茜、お姉ちゃまがいいの。茜、弥生お姉ちゃまがいいの」
 歩行器に乗せられた茜は、ダイニングルームを出て行く弥生の後ろ姿に向かって手を伸ばし、さかんに床を蹴った。けれど、キャスターをロックした歩行器は微塵も進まない。
「ほらほら、弥生お姉ちゃまは忙しいんだから我儘を言っちゃ駄目よ、茜ちゃん。お姉ちゃま、お着替えが終わったらすぐに戻ってきてくれるから、その間にちゃんとまんまを食べておこうね。しっかり食べないと入学式のご挨拶の時に気分がわるくなっちゃうかもしれないんだから。そんなことになったら一番困るのは茜ちゃんじゃないかしら?」
 美也子が弥生と茜の間に立ちはだかり、自分の腰に右手の甲を押し当て、微かに首をかしげるようにして言った。
 すると、茜は、いかにも気弱げに美也子の顔をちらと一度だけ見上げて、おずおずと首をうなだれてしまう。
 体が弱くすぐに熱を出してしまう茜は、貧血で気分を悪くすることも少なくない。特に朝食を抜いたりしたらてきめんで、どうにかすると、立っていられないほどの激しい目眩に襲われることもある。もしも入学式で生徒会長として新入生に対する歓迎の挨拶をしている最中に目眩を起こしてステージの上で倒れでもしたら、着衣も乱れて、丈の短いスカートからおむつカバーが丸見えになってしまうかもしれない。それも、高校生にはまるで似つかわしくないその恥ずかしい下着を、新入生、在校生、教職員や来賓、新入生の父兄たちといった大勢の目にさらすことになるのだ。そう思うと、今は美也子の手で離乳食を食べさせられる屈辱に耐えるしかなかった。
「そうよ、いつもそんなふうに聞き分けのいい子でいてちょうだいね。そうしたらママ、茜ちゃんのこと叱ったりしなくてすむし、お仕置きだってしないですむんだから」
 ようやく床を蹴るのをやめて伏し目がちに唇を噛みしめる茜の様子を満足げに眺めながら、美也子は、テーブルの隅に置いてある淡いレモン色の生地をつかみ上げると、両手でさっと広げた。それは、真新しい大きなよだれかけだった。
「赤ちゃんのお洋服ならまんまをこぼしてもお洗濯をすればいいけど、高校の制服はそういうわけにはいかないから、ちゃんとよだれかけをしておきましょうね。今日は茜ちゃんが入学式でご挨拶をする記念の日だから、新しいよだれかけを用意しておいてあげたのよ。ほら、綺麗な色でしょう?」
 美也子は、周囲を細かい飾りレースで縁取りした淡いレモン色の大きなよだれかけを何度も振ってみせてから茜の胸元に押し当てて、首筋と背中の二カ所でよだれかけの紐をきゅっと結わえた。
 啓明女学院の中でも、中等部と高等部とでは制服のデザインがかなり異なる。中等部の制服が丸っこいラインを基調にした可愛らしいデザインに仕立ててあるのに対して、高等部の制服は直線的で鋭角な、どちらかというと大人らしい知的なイメージを強調したデザインになっている。生徒会長という立場にあってそんな高等部の制服に身を包んだ茜が胸元を大きなよだれかけに覆われて歩行器に乗せられ、チェック柄のスカートの裾からおむつカバーを覗かせている姿は、ロンパースやベビードレスといった赤ん坊そのままの装いを身に着けている時よりも、却って屈辱と羞恥に包まれて見える。
「さ、これでいいわ。じゃ、まんまにしましょうね」
 美也子は、茜の胸元を覆ったよだれかけの真ん中あたりを右手の人差指の先でとんとつついてから、予め弥生がテーブルの上に用意しておいたプラスチック製の皿とカップ、それに哺乳壜を、歩行器に作りつけになっているテーブル状の食器置に並べた。
「最初はミルクからね。ねんねの間にたくさんおねしょしちゃって喉が渇いてるでしょ? さ、たんと召しあがれ」
 美也子は、いかにも母親らしい仕種を意識して哺乳壜を自分の頬に押し当ててミルクの温度を確認してから、ゴムの乳首を茜に咥えさせた。
 ――こんなふうにして、羞恥と屈辱と甘酸っぱい切なさに満ちた茜の一日が今朝も始まるのだった。




「おはよう、茜。おはよう、西村さん」
 茜たちが乗った停留所の次の停留所からバスに乗ってきた早苗が、並んで座席に座っている二人を目敏くみつけて足早に歩み寄ってきた。
 もっとも、目敏くとはいっても、バスはさほど混んでいるわけではないから、実際は二人に気づくのも難しくはない。茜の家からだと学校へ向かうバスはオフィス街とは反対側に向かう路線になるから、行きにしても帰りにしても、通学の時間帯は割と空いている(ただ、昨日の帰宅時のように昼前後の時間帯はバスの本数が少ないせいで、買い物客で混み合う場合があって席に座れないこともあるのだが)。そのおかげで座席に座ることができるのだけれど、茜にはそれがなによりもありがたかった。力の入らない脚で通路に立ち続けるのが辛いからということもあるが、それよりも、バスが揺れても席についていればスカートが捲れ上がっておむつカバーを人目にさらす心配がないからという理由の方がずっと大きい。
 こちらに近づいてくる早苗の姿を目にして、茜は、いつもに増して両脚をきゅっと閉じ、左右の膝頭を擦れ合わさんばかりにしてぎこちなく微笑んだ。
 一方、美也子の方は悠然としたものだ。早苗が自分の席のすぐそばまで近づいてくるのを待って軽く会釈をしてから、
「おはよう、藤崎さん。丁度いいから紹介しておくわね。今日から高等部の一年生になる妹なの。名前は弥生。可愛がってあげてね」
と言って、すぐ後ろの席に首を巡らせた。
 美也子に言われるまま振り向いた早苗の目に映ったのは、啓明女学院高等部の制服に身を包んでぺこりと頭を下げる弥生の姿だった。
 早苗は最初、弥生の大きな体つきに驚いたようだったが、制服の胸ポケットに縫いつけたエンブレムの色が一年生を示す若草色なのを確認し、人なつっこそうな弥生の顔つきを目にすると、すぐに笑みを浮かべた。
「ああ、たしか、茜んちに妹さんと一緒に住むことになったって言ってたわね。――お姉さんや茜と同じクラスの藤崎早苗です。よろしくね」
 早苗は弥生に向かって頷いてみせてから、いつもの如才なさを発揮して、初対面の弥生の隣にまるで身構えるふうもなく笑顔ですっと腰をおろして話しかけた。
「それにしても、随分と体が大きいのね、弥生ちゃん。何かスポーツでもしてるの?」
「あ、はい。バスケをやってるんです。もちろん、啓明でもバスケ部に入るつもりです」
 弥生は顔を輝かせて応えた。
「でも、うちのバスケ部、あまり強くないわよ。地区予選でも二回戦まで行くのがやっとみたいだし」
 弥生の言葉に、早苗が軽く肩をすくめてみせる。
「いいんです。だったら、私の力で決勝まで言ってみせますから」
 弥生はあっさり言い切った。
「やれやれ、体が大きいだけじゃなくて、自信もたっぷりってわけね。――弥生ちゃん、誕生日はいつ?」
 弥生の自信満々の様子がおかしかったのか、早苗はくすっと笑って言った。
「え? 誕生日は十二月です。十二月の十日ですけど……」
 突然の質問に少しばかり面食らった様子で 弥生は応えた。



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