偽りの幼稚園児





               【一】

 そうして迎えた、面接の日。時刻は、真夏の日差しが眩い午前十時三十分。
 ひばり幼稚園の園長室では、大きな執務机を挟んで園長と葉月が向かい合って座っていた。
 園長は、豊かな髪をアップに束ねて上品なクリーム色のスーツに身を包んだ五十歳くらいの理知的な女性。柔和な笑みに時おり垣間見せる鋭い眼光が印象的だ。
 対して葉月は、皐月が洗濯してくれた真っ白の綿シャツに、これまた皐月が丁寧にアイロンをかけてくれたおかげで、きちんと折り目のついたスラックス。まだビジネススーツなど持っていない学生としては、充分によそ行きの身なりと言っていい。
 そして、執務机から少し離れた所にしつらえてある応接セットのソファに腰かけて面接に立ち会う皐月の姿。

「園長の宮地です。お姉様である御崎先生とご一緒に住んでらっしゃるご自宅で、当園の先生方とは何度かお会いになっておられると伺っています。けれど、私とはこれが初めてですね。よろしくお願いします、御崎葉月さん」
 落ち着いた口調でそう切り出す園長に対して、まるで世間慣れしていない葉月の方はしどろもどろだ。
「あ、あの、姉さんが……あ、いえ、姉がお世話になっています。そ、それで、今日は僕の……いえ、わ、私のためにわざわざ面接の時間を、その……」
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ。よろしければ、深呼吸でもなさって落ち着いてください」
 園長は抑揚を抑えた口調で言った。
「え? あ、ああ、はい……」
 言われるまま、何度かぎこちなく深呼吸を繰り返す葉月。
「結構です。それでは只今から面接を始めることにいたします」
 深呼吸を終えて幾らか落ち着いた表情になった葉月の顔を見て言う園長の口調は、穏やかながらもどこか事務的だ。
「……はい、よろしくお願いいたします」
 息を整えて、葉月は身を引き締めた。
「それでは、ご縁があって御崎さんに当園へおいでいただくことになった場合、どのような業務を担当していただくことになるのか、その内容を説明するところから始めましょう。そのためには先ず、当園の置かれた状況を知っていただく必要があります――」

 園長の説明をかいつまんで要約すると、次のようなことだった。
 昨今、政府は、残業時間に明確な上限を設けたり、正規職と非正規職との間に賃金格差を設けることを法律で禁止する等、これまでになく労働行政に力を入れている。また、その一環として、雇用に際して男女を区別することに対しても厳しい指導を行っている。従来から就職における男女の区別は男女雇用機会均等法などによって制限されてはいたが、それがいつしか形骸化してしまっている現状を踏まえ、法の厳格な運用を通じて、人員を募集するにあたり「今回の採用は男性に限る」とか「この仕事には女性しか採用しない」とかいった制限を付けることそのものを禁止し、男女を問わず平等を期する方針を改めて徹底化しているのだ。
 そのような労働行政が目指す方向は、一般論としては正しいのだろう。しかし残念ながら、そういった厳格な措置が実情にそぐわない場面も少なからず見受けられるのが現実というものだ。
 たとえば、幼稚園や保育園などのように幼児を預かる施設が職員を雇い入れようとする場合、保育士や教諭として、伝統的に女性を優先的に採用していた。そこに、男性に対する差別意識があるわけではない。ただ、女性の方が子供にはより優しく接してくれるだろうという漠然とした印象があることに加え、子供たちの保護者、とりわけ女の子の保護者が、着替えの手伝いや失禁の後片付け等に際して男性職員が子供の体に触れることに強い忌避感をしめすことが多いという事実に起因する、ごく自然な帰結だった。
 ことさら、閑静な住宅にあって、比較的裕福な家庭の子女を預かることが多い『ひばり幼稚園』においては尚のことだ。正直に言ってしまうと、園長自身にも、(子供たちと直接触れあうことが少ない事務員や管理先業員としてならともかく)子供たちを抱いたりトイレの補助をすることも多い幼稚園教諭として男性を雇い入れることには強い抵抗感があることは否めない。
 とはいえ、行政の指導をあからさまに無視することもできない。
 そこで園長が考えついたのが、男女問わず間口を広げて募集活動を行いつつ、いざ採用の段になって男性応募者をふるい落としてしまうというやり方だった。もっとも、その際、面接試験だけで男性応募者を不採用にするといったことを繰り返していれば、合理性のない恣意的な選考方法を講じているといって行政の介入を招くことになってしまう。そのような事態に陥らぬようにするには、応募者に筆記試験なり実技試験を課し、課題に対して応募者がどのように対応したのか、その過程を事細かに記録した上で、男性応募者に対して不合格という選考結果をしめす必要がある。そういった手間をかける必要はあるのだが、逆に言えば、それだけの手間さえかければ、これまで通り女性教諭を優先的に(極論すれば、女性教諭だけを)採用することも不可能ではない。いわゆる『合理的な理由』さえ示せば、つまり、選考過程の綿密な記録さえ残しておけば、役所の係官は口を閉ざさらずを得ないのだ。
 あとは、どのような内容の試験を応募者に課せばよいのか、その一点に尽きる。

「――というのが、当園の現在の状況です。おわかりいただけますか?」
 葉月の表情を窺いながらゆったりした口調で進める説明に一段落つけ、園長は僅かに首をかしげて葉月の目を見た。
「え?……あ、は、はい。……あの、幼稚園の経営とかお役所とのつき合い方とか、これまで考えたこともなかったので、その……」
 葉月は曖昧に頷くだけで精一杯だ。
「難しい説明だったでしょうか?」
 園長はもういちど小さく首をかしげた。。
「はい、僕には……あ、いえ、わ、私には少々わかりにくくて、…い、いえ、わかるところも少しは……あの、だから……」
 わからないなどと言ってしまえば、この面接試験に落ちてしまうに違いない。葉月は言い直そうとしたが、顔がかっと上気してしまい、ちゃんとした言葉が出てこない。
 しかし葉月の焦りようとは裏腹に、園長は
「そんなにお困りになる必要はありません。今の御崎葉月さんの反応を目にして、御崎葉月さんがとても正直な方だということがよくわかりました。言葉巧みにうわべだけを取り繕うといったことをなさらない、たいへん好ましい方のようですね、御崎葉月さんは」
と言い、ふと口調を和らげて
「少しややこしいことを話しましたが、それについては深く考えていただかなくても結構です。一つだけわかっていただきたいのは、当園の募集に対して男性からの応募があった場合、その男性応募者を確実にふるい落とすための試験なり課題なりをきちんと作成しておく必要があるという、その一点のみです」
と続けた。
「ああ、はい。……それくらいなら、なんとなくは……」
 園長の穏やかな口調に力を得た葉月は、考え考え応じた。
「それで充分です。さきほどの私からの説明は、要するに、そのことを伝えるためのものだったのですから。あとのことは、説明の背景事実としてざっくりとらえていただければ、それで結構です」
園長は鷹揚に頷くと、執務机の上に手を置き、
「それで、御崎葉月さんには、男性の応募者を確実に不合格にするための課題を作成する際のアシスタントをお願いできないかと考えております。御崎葉月さんは、まだ教養課程とはいえ教育学部の初等教育科に在籍しておられますし、当園の先生方とはいくらかお顔馴染みの上、ついさきほど申し上げた通りとても正直な方とお見受けいたします。課題作成のアシスタントとして、これほどふさわしい方は他にいらっしゃらないと私は判断いたしました。いかがですか、当園にお力を貸していただませんか」
と、葉月の顔を正面から見据えて言った。
「いいんですか? 僕、いえ、私なんかでいいんですか? そんな大事なお仕事、本当に私なんかに務まるでしょうか?」
 どうやら園長のお眼鏡にかなったようだと直感したものの、もうひとつ確信が得られず、葉月は思わず訊き返してしまう。
「御崎先生や他の先生方から予め評判を伺っていた通りの、表裏のない誠実な方だと、私は御崎葉月さんのことを判断いたしました。私どもとしては、是非ともお願いしたいと考えております」
 園長はすっと目を細めて言った。
 それに対して葉月が即座に応える。
「こちらこそ、お願いします。是非とも、ひばり幼稚園で働かせてください。大事なお仕事のお手伝いをさせてください」
 優柔不断な性格と見るからに華奢な体つきが相まって、誰かから頼られたり、誰かから相談を持ちかけられたりしたことなど一度もない。それが、例えお世辞であったとしても、園長は力を貸して欲しいと言ってくれたのだ。葉月は、これまで感じたことのない高揚感に包まれるまま、園長に向かって頭を下げた。
「そうおっしゃっていただけると、本当に助かります。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 園長はわざとのようにほっとした表情を浮かべて言い、
「そうと決まれば、大切なお話がまだでしたね。勤務の期間は八月の第一月曜日から月末までのおよそ一ヶ月間で、土曜日、日曜日、それと祝日がお休みになります。ただ、少し急いで業務を進める必要があるため、お盆休みは設けず、カレンダー通りの出勤をお願いすることになります。勤務時間は朝九時から夕方五時までで、途中に昼食を含めて二時間の休憩。お給料は勤務一日につき一万五千円。昼食はこちらで用意しますが、その代金をお支払いいただく必要はありません。――このような条件でいかがですか?」
と付け加えた。
「そんなに頂けるんですか!? あ、いえ、そんなに頂けるのは嬉しいんですけど、金額よりも、その、なんて言うか、あの……」
 ファストフードでアルバイトをしたとして、時給は千二百円くらいだろうか。とすると、八時間働いて九千六百円。それに対して、園長が言った通りなら、八時間拘束から二時間の休憩時間を差し引いて、実働は六時間。それで一万五千円も貰えるんだから、破格の条件だ。いつも面倒をみてもらっている姉さんに何かプレゼントしなきゃ罰が当たるんじゃないかな、これって。それに、実際の幼稚園が先生を採用する時の試験とか課題とかを作る手伝いができるなんて、こういう経験を積み重ねていけば、大学院に入って研究テーマを決める時、すごく役に立ちそうだな。
 頭の片隅にそんな思いを浮かべ、胸躍らせる葉月だった。


戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き