偽りの幼稚園児





               【二】

「それでは、規則通り雇用契約書を交わすことにいたします。先ず、園の代表者である私が署名・捺印した後、そちらにお渡しいたします。その後、御崎葉月さんも署名と捺印をなさってください。印鑑をお持ちでないなら、右手の親指の拇印で結構です。契約書は同じ文面のものが二通あります。それぞれに署名・捺印の上、私と御崎葉月さん、双方が一通ずつ保管することになります」
 事務的な口調に戻った園長はそう言って、執務机の引き出しから取り出した書類にペンを走らせ、代表者印とおぼしき、見るからに高級そうな素材でできた印鑑を押し当てた後、その書類を葉月の目の前に押しやった。
「あ、はい」
 無事採用という事実に晴れやかな表情を浮かべた葉月は、言われた通り、深く考えることもないまま、契約書と一緒に差し出されたペンで日付と自分の名前を記入し、右手の親指に朱肉を付けて拇印を押した。これで契約は完了。生まれて初めてのアルバイトの契約はこうして無事に交わされた。
 だが、この時の葉月には、それがどれほど羞恥に満ちたアルバイトになるのか、想像することすらかなわないのだった。

 そこへ、二人から少し離れた所に座って様子を見守っていた皐月がソファから立ち上がり、葉月が腰かけている椅子のすぐ横に歩み寄ると
「念のために確認させていただきますが、正式に採用ということでよろしいのですね?」
と、念押しするような口調で園長に話しかける。
「もちろん、合格ですよ。御崎先生は葉月さんのことを人見知りが激しくて気の弱いところがあるとおっしゃっておられたけれど、こうして話してみると、少しばかり内気そうなところは見受けられますが、変に押しが強くて自己主張の激しい方などよりも随分と好ましく感じられます。これなら、うちの幼稚園へ来ていただいて大丈夫です。先生方とはお顔馴染みですし、園で預かっている子供たちともすぐに仲良くなれるに違いありません」
 園長は執務机越しに皐月の顔を見上げ、柔和な笑顔で応じた。
「ああ、よかった。面接に連れて来た甲斐がありました。それでは、さきほど園長がおっしゃっておられたように八月の第一月曜日から登園させますので、よろしくお願いいたします」
 皐月は、かたわらの椅子にちょこんと腰かけている葉月の肩にぽんと掌を載せた。
 皐月は『出勤』ではなく『登園』という表現を使ったが、さりげない口調だったため葉月はそのことに気づかない。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ただ、これだけは堅く申しておきますけれど、御崎先生からも弟さんに、契約書に記載されている事項は必ず遵守するよう念を押しておいてください。弟さんがそうだとは申しませんけれど、近頃の若い方は無責任な人も多くて、せっかく契約書を交わしても、後から身勝手な主張をなさることも少なくありませんから」
 相変わらず穏やかな声で応じる園長だったが、『契約内容の遵守』という言葉を口にする時は幾らか厳しい口調になり、鋭い眼光で葉月の顔をねめつけた。
 瞬間、どういうわけか、葉月の胸を、なんとも表現しようのない後悔めいた感情がよぎる。
 久しぶりにというより、生まれて初めて他人から自分の存在を認めてもらったように思えて胸躍らせたのに加え、逆らうことなど考えもできない相手である姉から勧められたアルバイトの面接ということで、ほとんど文面を読まずに署名・捺印してしまった雇用契約書。なぜとはなしに、今になってそれが悔やまれてならなくなってきた。
「ね、姉さん……」
 葉月の顔つきが一転、すがるような表情で皐月の顔を見上げた。
 が、不安でいっぱいといった顔つきの弟とはまるで対照的に、しっかり者の姉は涼しげな表情を浮かべるばかりだ。
「あらあら、なんて顔してんのよ、葉月ってば。あんた、まだ一回も働いたことがないから初めての契約書ってことでびびってんでしょうけど、そんなに心配することなんてないわよ。私もそうだし同僚の先生方もみんな園長先生と雇用契約書を交わしてるけど、当たり前のことしか書いてないわよ、普通の雇用契約書なんて。例えば、遅刻や早退が三回あったら一日の欠勤とみなすとか、お給料の計算期間は毎月二十日が締め日だとか、病欠の場合は診断書を提出しなしなければならないだとか、そういうことがちょっと難しい表現で書いてあるだけなんだから、普通の雇用契約書には」
 頼りなげな葉月の顔を見おろしながら、『普通の』雇用契約書という部分をいささか強調しつつも、皐月はこともなげに言った。
「そ、そうなのかな……そんなものなのかな」
 不安の色を隠せないまま、それでも、姉から諭されて小さく頷く葉月。
 葉月と皐月がそんな会話を交わしている間に、園長は契約書の一通を自分の執務机にしまい込み、もう一通を丁寧に折りたたんで幼稚園の名前の入った封筒に入れ、改めて葉月の目の前に差し出した。
 ほんの一瞬、園長室がしんと静まりかえる。
「正式に採用するに当り、注意しておきたいことがあります。アルバイトとはいえ、雇用期間中、御崎葉月さんは当園の職員です。さきほどまでの面接時と同様、ビジネスマナーに則り、外部の方に失礼のないよう、自分のことは決して『僕』などとは称さず、『私』と称してください。ただし、『私(わたくし)』という言い方ですと堅くなりすぎますので、『私(わたし)』と称するようにしていただきます。よろしいですね? それと、たとえ姉弟の間柄であっても、園内ではお姉様のことを『御崎先生』と呼ぶこと。以上、くれぐれもお気をつけください」
 短い沈黙を破ったのは、園長のそんな言葉だった。

               *

 面接の後、正式に雇い入れられることになった葉月が着用する制服を業者に発注するための採寸が園長と皐月の手で行われ、更にその後、葉月が園長に付き従って訪れたのは、園長室に隣接する職員室だった。

 夏休みに入って子供たちの姿はないものの、教職員たちまで休みになるわけではない。子供たちの指導や世話に手を取られるせいでなかなか捗らない伝票類の集計や報告書の作成など事務作業をまとめて片付けなければならず、そこへ加えて、ベテラン教諭なら教員免許の更新手続きをしなければいけない者もいるし、新米教諭なら新任者研修の日程をこなす必要がある上、夏休み中の人数を限っての特別保育、夏休み後半に行われるお泊まり保育、秋に行われる運動会や音楽会といったイベントの準備も待ったなしで、夏休み期間中も意外に忙しいものだ。
 とはいえ、子供たちの世話にかかりきりといった常日頃に比べればゆとりがあるのも事実で、それぞれの机に向かって教諭たちはみな、穏やかな顔つきで事務作業を進めていた。
 そんな職員室へ園長を先頭に葉月たちが足を踏み入れると、帳簿に何やら数字を書き入れたり分厚い書類の束に目を通している教諭たちが一人、二人と顔を上げて三人の方に目をやり、園長が連絡用のホワイトボードの前で立ち止まった時には、三人の、ことさら葉月の顔に職員室全員の目が集まっていた。
 あれ……?
 教諭たちの顔を遠慮がちにちらちらと見返しながら、なぜとはなしに葉月は違和感を覚えた。
 が、何に対しての違和感なのか、それが判然としない。
 葉月が思案げな表情を浮かべてきょときょとしている間に園長は職員室の様子をぐるりと見渡し、教諭たちの視線が葉月に集まったことを確認すると、おもむろに口を開いた。
「既にご存じの方も多いと思いますが、改めて紹介をしておきます。御崎先生の弟さん、御崎葉月さんです。さきほど面接を終え、御崎葉月さんには、かねてよりの懸案事項である男性応募者に対する課題作成のお手伝いをしていただくことになりました。なにかと不慣れなことばかりだと思いますので、いろいろ教えてあげてください。――では、本人からも自己紹介をお願いします」
 園長の声に合わせて、葉月に寄り添うようにして立っている皐月が葉月の体を前に押しやる。
 その瞬間、胸中に漠然と去来した違和感などけし飛んでしまい、
「み、みさき……御崎葉月です。お忙しい中、僕……あ、いえ、わ、私のためにお仕事の手を止めさせて、本当にすみません。えっと、あの……」
と、緊張の面持ちで声を絞り出す葉月だったが、大勢の視線に圧倒され、園長から注意を受けたばかりだというのに自分のことを僕と言ってしまい、慌てて言い直すといった慌てぶりを曝け出し、途中で力なく口ごもってしまう。
「相変わらず可愛いわよ、葉月ちゃん」
「自分のこと、私だなんて、いつもより女の子してるじゃん、葉月ちゃん」
「それに、お家で聞くよりも可愛い声しちゃって。おすまし葉月ちゃんだね、お出かけ先じゃ」
 思わず上ずった声で言いよどむ葉月に向かって、顔見知りの教諭たちの間から、幼稚園の職員室という本来はお堅い筈の場所には少なからずふさわしくない嬌声があがった。
 夏の昼前のどこか気怠い空気が一変、職員室が華やぎに充ち満ちる。
 今この職員室にいる教諭の中に、葉月と一度も顔を会わせたことのない者は(園長と副園長を除いて)一人もいないだろう。それほどに、ひばり幼稚園の教諭たちは皐月の招きに応じて二人が住むマンションを訪れ、様々な問題に対して積極的に言葉を交わし、教育現場をよりよいものにしようとしていることの、それは明確な証左だった。
 そうして、その誰もが一様に葉月のことを『葉月君』ではなく『葉月ちやん』と呼ぶのだが、それも無理からぬことではあった。
 皐月の招きに応じてマンションを訪れ、初めて葉月と顔を合わせた教諭たちは一人の例外もなく、その容姿のせいで葉月のことを少女だと見誤り、妹さんと一緒にお住まいなんですか、とても可愛らしい妹さんですねと声をかけてしまっていた。葉月が実は大学一年生の男の子だと皐月が訂正しても、みな驚いた顔になり、一度はごめんなさいねと謝るのだが、小柄で華奢な葉月のことを、ついついことあるごとに女の子扱いしてしまうのをやめられない。しかも、姉である皐月がそんな状況を面白がって敢えて強くは訂正しないものだから、葉月のことを『葉月ちゃん』と呼び習わすのが、いつしか教諭たちの間で当たり前のことになっていたのだった。
「みなさん、お静かに。いくらお顔馴染みとはいえ、御崎葉月さんが業務に就くのは八月からで、今はまだ部外の方ですよ。部外の方の面前で、なんですか、その騒ぎようは。先生方のそのようなお姿を子供たちが見たらどう思うでしょうね」
 園長はわざとらしく肩をすくめて言い、どこか悪戯めいた口調で続けた。
「ま、それはそれとして。御崎葉月さんを職員室へお連れしたのはみなさんへの紹介のためですが、実は、それとは別に、一つ相談したいことがあってのことでした。限られた期間とはいえ、御崎という名字の方が二人在籍することになります。その間、お姉様の方はこれまで通り『御崎先生』なり『御崎主任』とお呼びすればいいのですが、弟さんの方をどのようにお呼びするのが適切なのか、そのことをみなさんに相談したいと考えてのことです。しかしながら、この様子では、改めて相談するほどのことでもなさそうですね――」
 園長は、ちらと葉月の顔を見て、更に言葉を続けようとする。
 園長が次に何を言おうとしているのか、察しのつかぬ者など今ここには一人もいない。


戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き