偽りの幼稚園児





               【三】

「――弟さんの方は『葉月ちゃん』とお呼びするのが適切かと判断いたします。みなさん慣れ親しんだ呼び名のようですし、夏休み期間とはいえ特別保育やお泊まり保育で登園した子供たちと顔を会わせる機会もあるでしょうから、そんな時のためにできるだけ親しみやすい呼び名である方がよろしいでしょう。みなさん、いかがですか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。いくらなんでも、園内で『葉月ちゃん』だなんて、そんな……」
 葉月は慌てて異を唱えた。
 けれど葉月の抗弁は、わき起こる拍手にたちまちの内にかき消されてしまう。
「ま、いいじゃない。みんな、あんたのこと、とっても可愛いって思ってくれてるんだよ。妹とか姪っ子とか、そんなふうに思って接してくれてるんだよ。だったら、そういうのを上手に利用すればいいのよ。みんなに可愛がってもらえれば、アルバイトでミスをしでかしても、ちょっとくらいのことなら大目に見てもらえるかもしれないんだから、利用できることは利用しなきゃ。そんで、そのためには少しくらいのことは我慢しなきゃね」
 困惑の色をたたえた目でこちらを見上げ、唇を小刻みに震わせて無言で助けを求める葉月の顔を見おろして、皐月は、わざとのような真面目な表情で、けれど面白がっているのがありありの様子で言った。
 葉月はやるせない表情を浮かべてのろのろと顔をそむけ、職員室の隅の席についている若い教諭の方におそるおそる目をやった。
 そこにいるのは、この四月からひばり幼稚園で働き始めたばかりの、この幼稚園で最も若い女性教諭だった。名前は、田坂薫。車で三時間ほどかかる町の出身だが、卒業した大学から近いということで、ひばり幼稚園に職を求め、ワンルームマンションで一人暮らしをしている。
 と、葉月の視線に気づいたのか、薫が笑顔で小さく手を振ってみせた。
 葉月の胸がどきんと高鳴る。
 実は葉月は、薫に対して好意を抱いている。
 皐月に招かれて薫が初めてマンションにやって来た時に会った瞬間から、葉月の脳裏には薫の顔が焼き付いたままだ。次に来るのはいつなんだろう。今度来るときはどんな笑顔をみせてくれるんだろう。どんな男性が好きなんだろう。そんな思いに胸が締め付けられるような日々。
 優柔不断な性格の持ち主で、まるで男性らしさに欠ける容姿のせいで、これまで葉月は女性と交際したことが一度もない。物心ついた頃から周囲の者たちに『葉月ちゃん』と呼ばれ、まるで男の子扱いしてもらえなかったせいで、ひょっとしたら、きちんとした初恋さえ経験していないかもしれない。そんな葉月だから、薫に対する好意が恋心と呼んでいいものかどうか自分でもわからない。それでも、四つ年上の若い幼稚園教諭に向ける感情は、葉月がこれまで一度も覚えたことのない、特別なものだった。
 葉月が皐月に言われるままひばり幼稚園でアルバイトをしてみようかなと思い至ったのには、薫と同じ場所にいられるからという理由があったことも否めない。
 葉月はかっと上気した顔を伏せ、上目遣いにもういちど薫の方に視線を向けた。

 葉月のそんな様子をおかしそうにちらちら眺めていた皐月だが、園長が目で送っていることに気づくと、葉月の肩を肘でつつきながら
「園長先生から大事な発表があるみたいだから、田坂先生のことはそれくらしにしときなさいよ」
と囁きかけた。
 葉月ははっとして皐月の顔を振り仰ぎ、身を固くした。
「せっかくですから、男性応募者に対する課題作成業務の概要を改めてみなさんにお伝えしておきます」
 職員室が静寂を取り戻すのを待って、園長がよく通る声で言った。
「当業務の目的については、前もってみなさんにお伝えしてありますし、面接の中で御崎さん――葉月ちゃんにも説明済みですので省略します。今日お伝えするのは、これまでの進捗状況と、担当の割り振りについてということになります」
 園長は言葉を切って教諭たちの顔を一人ずつ見渡し、最後に葉月の顔を見てから、視線を正面に向けて続けた。
「適切な課題の構築について、予めみなさんに意見を求め、現在、その結果を検証用のドキュメントに落とし込んでいるところです。今週中には作業を終えて、みなさんに一次参照資料として配布できる予定になっています。そのドキュメントを実際の課題として再解釈し、一項目ずつ現場でのテスト運用にあたるのが八月の上旬からの三週間。その間、テスト運用の結果を継続的にフィードバックしつつ、並行的にドキュメントの更新を続け、八月の最終週に仕上げのテスト運用を完了、九月の第一週に認証用ドキュメントの提出といったスケジュールになっています」
 園長は、「テスト運用にあたるのが八月の上旬から」という部分で、ちらと葉月の横顔を窺い見た。
 詳しい事はわからないながら、アルバイトの始まる日が八月の第一月曜日と聞かされている葉月にも、なんとなく合点がゆく。おそらく、そのテスト運用という段階のアシストを葉月が受け持つことになるのだろう。
「九月下旬には、来年度に向けた職員の募集作業を始めなければなりません。その募集に対して男性の応募者があることも考えられます。それまでに男性応募者に対する課題の最終策定を終える必要がありますから、今説明したスケジュールがぎりぎりのラインです。一刻の遅れも許されませんから、今後この業務は、園長である私の直轄プロジェクトとして進めることとします。また、プロジェクトメンバー間の迅速かつ確実な意思疎通を図るため、できるだけ少人数に絞り込んだメンバーで構成するプロジェクトとします。その点、ご了承ください」
 園長は再び教諭たちの顔を一人ずつゆっくり見渡した。
 園長と目が合うたび、教諭たちは大きく頷き返す。
 最後の一人が頷き返すのを確認してから、園長は続けた。
「それでは、担当の割り振り、つまりプロジェクトのメンバーを発表いたします。尚、本人には予め内示を済ませています。先ず、園長である私がディレクターとして文部科学省や顧問弁護士との折衝にあたりつつ、人手が必要な場合は現場の雑事を処理することとします」
 園長はそう言ってから、皐月の方に顔を向けた。
「次に、みなさんの意見をドキュメントに落とし込む段階から参加していただいていて、実質的なリーダーを務めていただくのが、教務主任の御坂先生です」
 園長に名前を呼ばれ、皐月がぴんと背筋を伸ばして恭しく頭を下げる。
「そして、八月から始まるテスト運用に欠かせない、ある意味ではこのプロジェクトの肝となる業務を受け持っていただく葉月ちゃん。葉月ちゃんを採用したのには、実の姉弟ならではのリーダーとの意思疎通の確かさを期待してという面もあります」
 姉のすぐ後に名前を呼ばれ、どこまで本気なのかわからないものの、プロジェクトの肝とまで紹介されて、『葉月ちゃん』と呼ばれる恥ずかしさも忘れたかのように緊張した面持ちで、おずおずと頭を下げる葉月。
「最後は、若い人の意見を大いに取り入れるため、また、これからの当園の運営を担うための勉強をしてもらう目的も兼ねて参加していただく、当園の最年少教諭・田坂薫先生です。田坂先生には、御崎先生をアシストしてドキュメントの更新作業をしていただくのと並行して、フィードバックデータの取得も含め、葉月ちゃんのフォローアップにあたっていただきます」
 名前を呼ばれ自分の席ですっくと立ち上がった薫は周囲の先輩教諭たちに頭を下げてから、どこか面映ゆそうな様子で、再び葉月に向かって小さく手を振ってみせた。
 その瞬間、葉月の顔にさっと朱が差す。
 薫と同じ職場で働けるだけでも思ってもみなかった幸運なのに、同じプロジェクトチームのメンバーに選ばれ、しかも、薫が自分のフォローアップを担当するというのだから、親しく言葉を交わしたり、ひょっとしたら直接的な触れ合いの機会さえ得られるかもしれない。まさに、望外の僥倖だった。 

               *

 朝、幼稚園へ行く時には出勤する皐月の車に乗せてもらったが、面接と教諭たちへの紹介が終わった後は、まだ就業時間が終わっていない皐月を園に残し、一人、バスに乗って帰宅する葉月だった。
 帰宅に際しては、例によって例のごとく、バスの中で痴漢に遭ったり、歩いている最中に何度もナンパされたりしたものだが、その詳細は別の機会に譲ることにしよう。

 帰路についた葉月は直接マンションには帰らず、途中のバス停でおりて、自分が通う大学に向かった。
 普段はさほど勉強熱心とはいえない葉月だが、この時ばかりは、薫と一緒に働けることになった僥倖に心動かされ、勉強不足を露呈して薫の目の前で恥をかかぬよう、あるいは、薫に少しでもいいところをみせようとの思いで、教員採用試験の過去問題を調べたり、プロジェクト構築論なんかの資料に目を通すために、専門書や様々な資料、論文が揃っている大学の図書館に足を運ぶためだった。
 が、意気込みはともかく、結果は虚しかった。
 あれこれ迷った末に選び取った本を広げていざ目を通そうとしたものの、職員室で目にした薫の優しい笑顔が思い出され、本に書かれた文字を追うことなどまるでできなかったのだ。脳裏に浮かぶ薫の笑顔をようよう追い払ったとしても、次の瞬間には、園長が言っていたドキュメントやらに自分と薫が肩を寄せ合って目を通している姿などを思い浮かべてしまうといったていたらくでは、調べ物に身が入るわけがない。

 そんなこんなで、結局のところ一ページも本を読み進まぬまま大学の図書館をあとにして、自宅マンションのドアを引き開けたのは、夕方の六時を少し過ぎた頃だった。
 ドアを開けた途端、少し強めのスパイスの香りが葉月の鼻をくすぐる。
 見れば、皐月のパンプスが、上がり框の手前にきちんと並べて置いてあった。

「もう帰ってたの? 今日は早いんだね、姉さん」
 スリッパをぱたぱたさせながらダイニングルームを覗き込んだ葉月は、造り付けになっているカウンターの奥で中華鍋を振っている皐月に向かって声をかけた。
 どうやら、スパイスの香りは、皐月がつくっている麻婆豆腐のもののようだ。
「夏休みだからね、定時にあがれたのよ。いつもは残務整理をして帰ってきてからご飯をつくり始めるから、どうしても夕飯は八時ごろになっちゃって、あんたには申し訳なく思ってたりするんだけど、今日みたいに子供たちの面倒をみなくてもいい日くらいは、早く済ませちゃおうと思ってね。いつも、お腹すかせて待っててくれてるんでしょ?」
 皐月は中華鍋を振りながら、葉月の顔を見てにっと笑った。
「そんな、申し訳ないだなんて……忙しい姉さんにご飯をつくってもらったり洗濯してもらったりしてばかりで、こっちこそ、いつもごめん」
 葉月はテーブルの近くに歩み寄り、ちょっと照れくさそうにぽりっと頬を掻いた。
「なに言ってんのよ、今更。私はあんたが赤ちゃんの頃から面倒みてるんだよ。そりゃ、私も子供の頃はちょっぴり不満もあったよ。なんで私が忙しい父さんや母さんの代わりに弟の面倒をみなきゃいけないんだろって。友達みたいに、好きなだけ遊びたいって。でも、小っちゃいあんたのおむつを取り替えてあげたり、まだご飯を食べられないあんたに哺乳瓶でミルクを飲ませてあげたりしてるとさ、なんていうか、胸がきゅんとしてきちゃって、あんたのことが無性に可愛く思えてきちゃって、ああ、これはこれでいいんじゃね?とか思うようになってきちゃってさ」
 皐月は中華鍋の麻婆豆腐を皿に盛り付けながら明るい声で言い、悪戯めいた口調でこう続けた。
「今まで秘密にしてたんだけどさ、私、あんたに一度だけ私のおっぱいを吸わせてみたことがあるんだよ。哺乳瓶のミルクをおいしそうに飲んでるあんたを見て、自分のおっぱいを吸わせてみたらどんなふうになるか無性に試してみたくなってさ。で、本当に試してみちゃったのよ。その時の私ってば、まだ小学校の二年生だったか三年生だったかで、思いついたことはなんでも試してみたくなる年頃でさ、ついつい、ね。そしたら、あんた、まだ母乳なんて出るわけのない私のおっぱいにむしゃぶりついて、で、くすぐったくて仕方ないから離させようとしても離れなくて、結局、私のおっぱいをちゅうちゅうしながら眠っちゃったのよ、あんたってば」
「な、なんで、今ごろになってそんなこと話すんだよ!? 今ごろになって、そんな大昔の恥ずかしい話なんて……」
 葉月は顔がかっと火照るのを感じながら肩を振るわせた。
「別に、あんたを恥ずかしがらせようと思ってこんなことを話したわけじゃないよ。私はただ、そんなふうにあんたのことが可愛くて仕方ないんだってことを説明したいだけなんだから。可愛くて仕方ないから、ご飯も洗濯も掃除も、ちっとも苦にならないんだってこと言いたいだけなんだから」
「……」
 上気した顔から一変、葉月の顔に神妙な表情が浮かぶ。
 それに気づいた皐月は、照れ隠しなのがありありのわざとらしい大声で言った。
「なんなら、今夜、私のおっぱいをちゅうちゅうさせながら寝かしつけてあげようか? 可愛い葉月ちゃんにはお似合いだよ、きっと。――さ、ご飯の用意ができたから、さっさと手を洗っといで」



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