偽りの幼稚園児





               【四】

「あ、あのさ……園長先生じきじきのプロジェクトのリーダーに選ばれるなんて、すごいんだね、姉さんてば」
 照れくさそうな表情を浮かべ、少しぎこちない手つきで箸を動かす葉月が、雰囲気を変えようとでもするみたいに、幼稚園での出来事を思い出して言った。
「ううん、私なんてまだまだ。私がすごいんじゃなくて、すごいのは園長先生なんだよ。いつも理知的で、とても冷静なんだけど、いざとなったらどんなことにも動じない度胸があるし、これと決めたら梃子でも動かない信念の強さもあるし。私みたいな駆け出し教諭を主任に抜擢して、しかもそれで周囲から反感をかわないように現場をまとめあげてくれるし。とにかく、すごい人なんだよ、あの園長先生は」
 こちらも照れくさそうにしていたのが、園長の話題になると真剣そのものの面もちになり、箸を持つ手をぴたりと止めて応じる皐月。
「うちの先生たちも知ってることだから、あんたにも話すけど、園長先生、実は医学部を出てて、医師免許を持ってるんだよ。それも、同期の中じゃ医局の頃から一、二を争うほど優秀なお医者様だったらしくてね。でも、お医者様としての立場じゃ助けられない人がいるってことがわかったとかで――」

 ――園長の宮地紗江子は、古くから続く商家を会社組織に改編し、今は準大手の商社を中核とした総合流通グループを統括する創業者一族の本家の一人娘としてこの世に生を受けた。しかし、その生涯は決して幸福と言えるものではなかった。紗江子の父親は、代々続く旧家の者にありがちな、古くからの因習にとらわれた人間で、紗江子が生まれた時も、跡取りたる男子ではないことで紗江子の母親をひどくなじったそうだ。そのなじられようがあまりにひどかったものだから母親はすっかり心を閉ざしてしまい、一言も言葉を発しなくなり、それ以後は父親との性交を頑として拒み続けたそうだ。一方、父親は生業たる会社経営だけはこなしつつも、妻が待つ自宅へは一向に帰ることがなくなり、妾宅から会社へ出かけるといった毎日を送っていたらしい。だが、もともと無精子症に近い体質の持ち主で、母親が紗江子を身ごもったこと自体が奇跡に近い幸運の結果であったようで、妾の方にも子供はできず、結局のところ、紗江子には弟も妹もできなかったという。そんな不満を紛らすためなのか、父親は普段はちっとも自宅に寄りつかないくせに、どうしても顔を見せざるを得ない親類揃っての法事などが執り行われる際には渋々短い間だけ自宅に戻り、そんな僅かの間にも母親のことを口汚く罵り続けた(父親が母親に手をあげることこそなかったが、それは、世間に幾らかは名の知れた流通グループを率いる者としての立場を守ろうとする保身のためにすぎず、父親がその立場になければ、暴力をふるうことも厭わなかったに違いない)ため母親はますます心を閉ざし、紗江子の面倒さえ一切みようとはしなくなっていたせいで、紗江子は宮地家の使用人の手で育てられたようなものだった。
 けれど、紗江子はそんな母親を決して恨んだり憎んだりはしなかった。母親が育児を放棄するようになった原因、紗江子が母親に甘えることが一切かなわなかった原因、その真の原因が父親にあることを幼い頃に直感していた紗江子は、哀しみを心の最も深い所に沈め去り、がむしゃらに勉学に励んだ。父親がまるで自宅に寄りつかず、それでも世間体を気にしてだろう少なくない生活費を定期的に振り込んでくるのをいいことに、金にあかせて有能な家庭教師を存分に雇い入れることも厭わず勉学に励んで大学の医学部に入学し、医局を経て、地方の総合病院の勤務医の職を得た。これでようやく念願がかない、母親と共に宮地家を出て二人きり静かな生活を送れる目処が立ったと思った矢先に、母親が自ら命を絶ったという連絡を受け取った。心を閉ざし育児放棄の状態に陥った母親であっても、紗江子が同じ家にいれば、それで幾らかの癒やしを覚えていたのだろう。それが、家からずっと離れだ場所で勤務医として働きつつ、母娘二人で暮らす住居を探すため紗江子が自宅を離れている間に、母親は、胸の奥底にほんの僅か残していた心の安寧を失い、仄かな生命のともしびを自らの手で消し去ったのだった。
「お医者様としての立場じゃ助けられない人がいるってことがわかった」皐月が口にしたその言葉は、まさに紗江子自身の境遇を指してのことだった。
 母親を宮地家から連れ出してつつましくも穏やかな余生を送らせる夢を絶たれてすぐ、紗江子は勤務医としての地位を惜しげもなく捨て去り、ややあって、教育学部初等教育科の学生として再び大学の門をくぐった。初等教育科を選んだのは、母親の手にすがることのかなわなかった自らの辛く寂しい子供時代への埋め合わせという意識が知らぬまに働いた結果なのだろう。自らの子供時代にあれだけ求めてかなわなかった人の手のぬくもり。技術で人の生命を救うことの限界を身をもって思い知らされた紗江子は、自問自答の末、そんな、人の手のぬくもりによって何かを救えはしないだろうかと思い至ったのだった。子供の頃、自分の心が空虚な静かさに満たされてゆっくりとした死を迎えそうになっていたことを思い出して。
 人の手のぬくもりで、老いた者を肉体の死から救うことはかなわない。しかし、人の手のぬくもりは、幼き人を救うことができるかもしれない、肉体の死ではない、幼き人を心の死から救い出すことはできるかもしれない。漠とそう直感して、初等教育科という分野に一縷の望みを託したのだろう。
 そんなふうにして二度目の学生生活を送っているさなか、父親が病死したことを宮地家の顧問弁護士から知らされ、遺産相続の手続きを促された紗江子。あんな父親が遺した金銭なんて……感情的に一度は相続放棄を選択しそうになったが、その時にはもう自分の感情を押し殺す術をおぼえてしまっていた紗江子は、自分でも驚くほど冷静に将来を俯瞰していた。結局、紗江子は父親の遺産を全て相続した上で総合物流業グループの株式を分家筋に売却し、それで得た金銭を元手に学校法人を創立し、自らが理事長を兼務する園長として『ひばり幼稚園』を設立したのだった。
 幼稚園を設立したのには三つの目的があった。
 一つは。
 できるだけ多くの子供たちと触れ合い、その無垢な瞳に映る光景を共有し、その邪気のない胸に抱く柔らかな感情を共有し、その柔らかな唇が紡ぎ出す言葉を共有することで、自分が送らざるを得なかった虚しい子供時代の仄暗い記憶と決別するために。
 もう一つは。
 なんらかの事情のせいで経済的な自立を求めざるを得ない状況に陥った女性たちを支援するために。
 その女性が幼い子供を抱えていて思うように働けないなら、その子供を預かることもできる。その女性が何の資格も持っていないせいで職に就けないなら、幼稚園で事務見習いや教諭見習いとして雇い入れて給与を支給して生活を安定させながら、大学の夜間学部に入学させてきちんとした資格を取得させた後に改めて正式な職員として採用することで自立を支援することができる。
 更にもう一つは。
 男性とのかかわり合いの中で心に深い傷を負い絶望の淵に立つ女性を救済するために。
 手ひどい失恋を経験し、あるいは、性的な暴力の被害者となって男性に対する憎悪の念を抱くあまりまっとうな社会生活を送ることが困難になってしまった女性たちを、やはり事務見習いや教諭見習いとして迎え入れ、長い時間をかけて心の傷を癒やすのに、女性の教職員だけで運営する幼稚園ほどふさわしい場所は思いつかない。幼児特有の体温が高くあたたかな手に触れ、思いきり園庭を駆け回り、彩り豊かな絵本を読み聞かせる日々。それに加え、大人といえば自分と同じ女性しかいない環境の中、思うまま愚痴をこぼし合い、男性に対する憎悪を曝け出し合い、無駄話に興じる、何はばかることのない日々。異性の目にふれることなく平穏にたゆたう、ぬるま湯の日々。無理に頑張って、ようやくできた心の傷のかさぶたを剥がす必要などある筈がない。心の傷のかさぶたが自然に消え去るまでゆっくりおだやかに流れるよう時間の進み方を変える別世界としての、ひばり幼稚園。
 そんな三つの目的を持つ幼稚園など、成り立つわけがない。
 そんな奇妙な幼稚園など、運営し続けられる筈がない。
 そう、普通なら。けれど、紗江子なら――

「――莫大な遺産を受け継いだ園長先生なら、もともと利益を上げる必要がないどころか、最初から少なくない赤字を想定して動じない園長先生なら、そんな幼稚園の運営を維持することもわけないのよ。園長先生はこれまで、そんなふうにして、ひばり幼稚園を運営してきたのよ。最初は、自ら命を絶ってしまわれたお母様への贖罪のためだったかもしれない。でも、今は違う。今は違うと私は断言できる。経済的な自立を果たしてひばり幼稚園を巣立っていった大勢のお母さんや子供たち。心の傷を癒やし、自分に自信を取り戻して自分の世界へ帰って行った女性たち。園長先生はいつもおっしゃっておられる。ひばり幼稚園を踏み台にして大空へ羽ばたけばいいのよ、みんな。大嫌いな父親が遺した金で設立した幼稚園なんて、みんなで食い物にして、大声で笑い合えばいいのよ、あけっぴろげの底抜けに明るい、まるで屈託のない笑顔で、過去なんて笑い飛ばして、未来に向かって大声で笑えばいいのよってね」
「……」
 皐月も葉月も、箸を持つ手を止めたままなことに気づかない。
「だから、男の人がひばり幼稚園の先生になるなんて、絶対に許さない。ひばり幼稚園の主役は子供たちだけじゃない。ひばり幼稚園じゃ、お母さんたちも、先生たちも、事務員さんたちも、みんなが主役なんだよ。居場所を見失いそうになって、でも、懸命に支え合って、暗い過去を笑いとばし合って、時々手放しで泣きじゃくって――子供たちだけじゃない、そんな女の人たちがひばり幼稚園の住人なんだよ。そんな場所に、デリカシーのかけらも持ち合わせない男の人たちが入ってきていいわけがない」
「……」
「男女雇用機会均等法? 笑わせないでよね。女性の社会進出を支援する? なに言っんだか。そりゃ、男性しか受入れなかった職場に女性が迎え入れられるようになるにこしたことはないよ。建前上、法律じゃそうなってるよ。だけど、仕事の現場はまだまだそうなってないじゃん。子供の面倒をみるのは女の人の役まわりなんて風潮が全っ然改まらないのに、小っちゃい子を連れていける職場なんて、これっぽっちもないじゃない。これまで男どもが威張りちらしてた職場が建前で急に女の人を受入れるようになって、本当の意味で使いやすい授乳室やパウダールームを用意してくれてる所なんて、どれだけあるっていうの? なのに建前だけは平等が確保できたことになってるから、逆に、これまで女の人だけで切り盛りしていた場所に、今度は男どもが大きな顔して入り込んできちゃうんだよ? もともと女の人しかいない職場っていうのは、最低限の環境が整ってるんだよ? トイレだって更衣室だって、女の人が使いにくくないよう、気をつけて準備してあるんだよ? そんな職場、男どもから見ても居心地がいいに決まってるじゃん。そこへ、男女平等なんて見えすいたお題目を唱えながら、男どもがずかずか土足でのり込んできて、我が物顔で居座っちゃうんだよ? ――そんなの、絶対に許さない。やっとの思いで手に入れたお母さんたちや先生たちや事務員さんたちの居場所、男どもなんかには絶対に横取りなんてさせないんだからね!」
「……僕も、そんな男どもの一人なんだけど……」
 これまで一度も目にしたことのないほど感情を昂ぶらせる姉に気圧され、ぽつりと葉月は呟いた。
「え……? ……ああ、うん。ごめん、つい……」
 普段になく伏し目がちになって、皐月は何度も目をしばたたかせた。
「……せっかく作ってくれたのに、すっかり冷めちゃったね。さ、食べちゃわなきゃ」
 葉月は誰に言うともなくそう言って、のろのろと箸を持つ手を動かし始めた。

               *




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