偽りの幼稚園児





               【五】

 それからの一週間ほどは特に変わったこともなく、葉月が大学の図書館へ足繁く通いながらも目の前に薫の笑顔が浮かんでくるばかりで調べ物がまるで捗らないといった日々を繰り返しつつ、時間は穏やかに流れて行った。
 そんな淡々とした毎日に変化が訪れたのは、いよいよ来週の月曜日から葉月のアルバイトが始まるという金曜日の夕時のことだった。

 その日も結局は無為に過ごしてしまい、は〜あと溜息をつきながら自宅マンションの玄関ドアを引き開けた葉月は、上がり框の手前に二人分のパンプスが並んでいることに気がついた。一足は、見慣れた姉のもの。もう一足は、皐月のパンプスに比べると一回り小さなサイズだ。
 不思議そうな面もちでいつものようにスリッパをぱたぱたさせてダイニングルームを覗き込んだ葉月は、カウンターの奥でフライパンを振っている人物の姿を目にした途端、ぽかんと口を開けて顔を真っ赤に染めてしまった。
 そこにいるのは、ピンクのエプロンを身に着けた田坂薫だった。
 葉月と同じくらいの背の高さだから、今どきの若い女性としては標準的な身長か。少しぽっちゃりした体つきで、美人というよりも可愛らしい感じの丸みを帯びた顔つきに、やや目尻がやや下がりで瞳がくりくり動く大きな目。つんと尖っているのではない、どちらかというと愛嬌のある丸っこい鼻。そんな薫に、ピンクのエプロンはとてもよく似合っていた。

「あ、お帰りなさい。もうすぐできますから、手を洗ってきてくださいね」
 真っ赤な顔で目をぱちくりさせて自分の方を見ている葉月の視線に気づいた薫は、こぼれんばかりの笑顔でそう言った。
 鈴を転がすような声が、聞く者の耳を心地よくくすぐる。
「え、あ、あの……」
 思ってもみなかった状況に戸惑うばかりの葉月は、まばゆい笑みを浮かべる薫の顔からおどおどと目をそらした。
 その先に、テーブルに肘をつき両手を顎の下で組んでこちらの様子を窺っている皐月の姿があった。
「ど、どういうことなんだよ、姉さん。どうして、うちに田坂先生がいるんだよ」
 葉月は、一歩も動けぬまま、助けを求めるような声で皐月に問いかけた。
「ああ、そのこと? あのさ、園長先生の指示もあってのことなんだけど、今日から当分の間、田坂先生、うちで同居することになったのよ。プロジェクトのメンバーどうし、信頼関係を強めるにはプライベートの時間も含めて、少しでも長い時間一緒にいた方がいいからって。それで、ちょうど、園から持って帰ってこなきゃいけない荷物がたくさんあったから、手伝ってもらいがてら、車で一緒に帰ってきたってわけ」
 わざとこともなげな口調で皐月は答えた。
「ほら、田坂先生も言ってるでしょ。もうすぐ夕飯の準備ができるみたいだから、さっさと手を洗っといでよ」

 しばらくして、葉月もテーブルについた。
 二人暮らしのマンションだから、本当なら、余裕を見込んでも四人掛けのテーブルで充分なのだが、同僚たちを招待することを見越して、皐月は六人掛けのダイニングテーブルを買い求めていた。その一角、ダイニングルームの入り口から見て奥側で、カウンターに近い角の席が皐月。その斜め向かいが葉月の席だ。葉月がマンションで同居するようになってすぐの頃は皐月の真正面の席に腰かけていたのだが、大柄な皐月の姿が真向かいにあると落ち着かず、いつしか今の席に葉月は座るようになっていた。
「さ、どうぞ召しあがれ。車からおろした荷物の整理に手間取っちゃったせいで、簡単なものしかできませんけど」
 葉月が椅子に腰をおろしてすぐ、薫が二人の目の前に大ぶりのプレートと、スープのカップを並べた。
 プレートの内側は浅い仕切りで幾つかに区切られていて、お皿とトレイを兼ねている。食事の準備にも食後の片付けにも便利だということで、皐月が食事をつくる時にも、大抵このプレートを使っている。
「うわ、おいしそう。田坂先生、お料理がお上手なんですね」
 プレートの中の一番大きな仕切りには、ふわとろ玉子のオムライスが載っていた。その周りの仕切りには、海藻のサラダや、ほうれん草ときのことベーコンのソテーといった付け合わせが彩りを添え、カップには熱々のオニオングラタンスープといったメニューだ。
 皐月がつくる料理は、若い女性としてはやや筋肉質で大柄な自身の体に合わせて、チキンカツや豚肉の生姜焼きといった献立が多い。それに比べると、目の前に並ぶ薫の料理は、見た目も色とりどりで、いかにも若い女性の手作りといった雰囲気を醸し出している。
「一人暮らしが長いですからね、いやでもやらなきゃいけなくて」
 薫は笑顔で応じながら、自分の食事をテーブルに置いて椅子に座った。
 途端に、葉月の顔がますます赤くなる。
 てっきり皐月の隣に座るんだろうと思っていたのが、皐月の正面、つまり葉月の左隣に薫は腰をおろしたのだ。それも、意識してか無意識のうちなのか、葉月と体をぴったり密着させて。
「あ、あの……ちょっと、あの、田坂先生、その……」
 葉月はしどろもどろになって身を固くした。
「あ、ごめなさい。窮屈ですか?」
 葉月のうろたえようとは対照的に、薫は笑顔のまま僅かに首をかしげて訊いた。
「い、いえ、あの……きゅ、窮屈とかそういうんじゃなくて、その……」
 左腕に薫の体温が伝わってくるのを痛いほど感じながら、葉月は目の前のオムライスから目を離せずに口ごもった。
「同じプロジェクトのメンバーに選ばれた仲だから、先に言っておきますね。私、誰かとこうしていないと駄目なんです。窮屈で迷惑なことはわかっているんですけど、どうしようもないんです。やっぱり、こんなの、おいやですよね?」
 笑顔なのに、薫の声は僅かに震えていた。
「あの日、園長先生は、メンバーどうしの意思疎通を大切にしなきゃ駄目だよっておっしゃっていましたよね。だから、私のこと、お話しします。本当はあまり知ってほしくないこともあるけど、全て話します。その上で同じプロジェクトのメンバーとしてわかり合ってもらいたいんです。――さっき御崎先生がおっしゃった通り、私、今日からこちらでお世話になります。だからこそ、先に話しておかなきゃいけないと思います。私のこと、ちゃんと知ってもらった上で、そんな私でも受入れてほしいから」
 薫は長い睫毛を何度もしばたたかせてから言葉を続けた。
「私、あの地震で子供の頃に両親と祖父母をなくしているんです。家族の中で一人だけ生き残って、父方の伯父の家に引き取られたんです。でも、伯父の家で暮らし始めてしばらくして、伯父の長男、私からいえば従兄にあたるんですけど、従兄に乱暴されそうになって。――乱暴という言葉の意味、わかりますよね……?」
 薫がちらとこちらに視線を向ける気配が伝わってくる。
「……」
 葉月はオムライスを睨みつけたまま頷くことしかできなかった。よく見ていないとわからないほど小さく小さく何度も何度も頷くことしか。
「幸い、すんでのところで未遂に終わって、伯父は従兄をこっぴどく叱りつけて……でも、伯父は私に、このことは私だけの胸の中にしまっておいてくれないかって言って……私、震えるばかりで何も考えられなくて、それに、亡くなった父の身内を警察に訴えるなんてことできるわけないって子供心にもそう思って、だけどどうしていいかわからなくて……ごめんなさい。私のこと全て話しますなんて言っときながら、このあと、どんなふうに話せばいいのかわからなくなってきちゃった……」
 葉月の左腕に触れる薫の右腕はぶるぶる震えている。
「あとは私が話すわ。――途中経過は省略するけど、結局、田坂先生は伯父さんの家を出て、ある財団の支援を受けることになったの。実は園長先生、学校法人とは別に就学支援を目的とする財団も設立していてね、その財団が自治体や厚生労働省、文部科学省なんかといろいろ折衝して、住む所も用意してくれたらしいよ。それで田坂先生、義務教育の間は保護施設から学校に通って、その後、財団の奨学金を受けて一人きりの寂しい生活を続けながら高校と大学を卒業したのよ。ひばり幼稚園の先生になってくれるなら奨学金の返済を免除するという条件付きで」
 途中で押し黙ってしまった薫のあとを継いで皐月が手短に説明した。
「……知ってたんだ。姉さん、田坂先生のこと、知ってたんだ……」
 葉月はぽつりと言った。
「知ってるよ。私だけじゃない、先生たちや事務員さんたちも知ってるよ。逆に、本当にいやな部分も含めて私のことも、みんなが知ってるよ。あんたの時もそうだったけど、園長先生、教職員を採用する時、絶対にご自分で面接をしてらっしゃるのよ。ううん、採用だけじゃない、入園希望の子がいたら、その子はもちろん、保護者とも面接していろいろお話を聞いてらっしゃる。経済的自立の支援や心に深い傷を負った人への支援、就業支援の場合は、それを希望する人の方から園を訪れるんじゃなく、園長先生に代わって物流グループを統括している分家の人たちや、お医者様時代に築き上げた人脈(なんたって、同期の中には、日本中に大きな総合病院を幾つも展開している医療法人の後継者もいるんだから)なんかを使って集めた情報を元に園長先生の方から支援を申し出るんだけど、その場合でも、最終的にはきちんと園長先生が面接をして、園長先生のおめがねにかなった人じゃないと繋がりを持てないようになっている。そんで、どんな形にせよ迎え入れられることになった人たちの情報は、たとえそれがどんなに本人が隠しておきたい情報だとしても、私たちと共有されるようになっているの。どんな闇深い情報であっても共有して、それでも互いに支え合うことができるかどうか、私たちも含めて試されるんだよ。だから、私たちの間に隠し事なんて一切ない。私が田坂先生のこと、みんな知ってても、そんなの当たり前なんだよ」
 皐月はすっと息を吸って一気に言い、気遣わしげな目で薫と葉月の顔を見比べながら続けた。
「わかるよね、葉月? 田坂先生、本当は知られたくない生い立ちを自分の口からあんたに話そうとしてるんだよ。この際だから言っちゃうけど、あんたが田坂先生に好意を抱いてること、先生も気づいてるよ。そんなあんたに、自分の言葉で知ってもらおうとしてるんだよ」
「……」
「田坂先生、自分の体をあんたにぴったり押しつけてるでしょ。それ、本当は話したくない自分の生い立ちを話そうとする時にどうしても出ちゃう癖なんだってさ。家族をなくして従兄に襲われそうになって伯父さんの家を出て、ずっと一人の生活を続けてる間に、人の体温ってやつにすごく敏感になっちゃって、今みたいにいろんなことを話そうと決心した時、話す相手の体温を感じながらでないと話せないんだってさ。話す内容を前もってどんなに頭の中で繰り返し整理しても、相手の体に触れて、身を寄せ合って、ああこの人の体はこんなに温かいんだって実感できながらじゃないと言葉が出てこないんだってさ」
 皐月がそう言い終えると同時に薫の体がおずおずと離れそうになるのを葉月は感じた。
「た、田坂先生、僕……」
 たまらず、葉月は、自分の掌を薫の手の甲に重ね合わせてしまう。
「田坂先生、僕は……」
「……プロジェクト、成功させましょうね。三人で力を合わせて、絶対に絶対、成功させましょうね」
 薫は、皐月と葉月の顔を交互に見やり、ちょっとだけ明るさを取り戻した声で言った。
 今の葉月には、それで充分だった。
 
               *

 トイレに行きたくなって、葉月は目を覚ました。どうやら、夕飯の間ずっと薫と体を寄せ合ったままでいたため緊張のせいで喉がからからに渇き、やたら水ばかり飲んでいたのがいけなかったらしい。
 スマホの画面に表示されている時刻は、夜中の一時過ぎだ。
 眠い目をこすりながらベッドからおり立ち、ドアのノブに手をかけた葉月は、隣室で皐月だけではなく薫も一緒に眠っていることを思い出して、なるべく音をたてないようにそっとドアを押し開いた。




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