偽りの幼稚園児





               【六】

 隣室にいるのが皐月だけだったらそんなことはしないのだが、皐月の部屋に薫もいると思うと、いったん開けたドアを閉めるのにも気を使うし、廊下を歩くのだって、なるべく足音をたてないよう配慮して、おのずと静かな足取りになる。
 けれど、そっと足音を忍ばせつつ隣室のドアの前に差し掛かると、部屋の中から話し声がきこえてくることに気がついて、ちょっと拍子抜けの表情になってしまう。
(なぁんだ、二人ともまだ起きてるんじゃないか。だったら、こんなに気を使うこともなかったのに)
 葉月は胸の中で呟いて、さっさとトイレへ向かおうとした。
 が、ふと思い直して、ドア越しの二人の話し声に聞き耳をたてた。会話の中に、薫の好物とかお気に入りのブランドとかを知るためのヒントめいた言葉が出てくるかもしれない。だったらラッキーという安直な理由からだった
 しかし、じっと耳を澄ましていても、それらしい話題は出てこない。
 最初に聞こえてきたのは、ドキュメントの内容がどうとか、テスト運用の準備がどうとか、被験体の心理状態がどうとかいう、プロジェクトと関係ありそうな言葉ばかりで、それからしばらくすると、二人がやや声をひそめて話し始めたらしく聞き取りづらいのだが、もうすぐだねとか、やっと念願のとか、可愛いがってあげなきゃねとかいう、何のことを言っているのか判然としない言葉が途切れ途切れに聞こえてくるだけだった。
 だが、なぜとはなしに、その判然としない言葉たちの裏側に、想像の埒外にある異様なものの気配がひそんでいるように感じられて、更に耳をそばだてずにはいられない葉月だった。

               *

 翌朝、葉月が睡眠不足のぼんやりした頭のまま着替えを済ませ、顔を洗ってダイニングルームに向かうと、パン、スクランブルエッグ、レタスたっぷりのサラダ、ソーセージ、フルーツソースのかかったヨーグルトを盛り付けたプレートと、牛乳をなみなみとついだコップの朝食が用意してあって、皐月と薫が既にテーブルについていた。
「おそいよ、葉月。休みの日でもいつもはもう少し早く起きてくるのに、今日はどうしたのさ」
 いかにも待ちかねたといった口調の皐月の声が飛んでくる。
「……ごめん、ちょっと考えごとをしていたら、なかなか寝つけなくて……」
 まさか、二人の会話を盗み聞きしていたせいでなかなか寝られなくてとは言えず、薫の右隣の椅子におずおずと腰をおろして、葉月は言葉を濁した。
「そんなに叱っちゃ、葉月ちゃんが可哀想よ。葉月ちゃんだって、たまにはそんなこともあるでしょうし。特に、明後日からは大事なプロジェクトに参加するんだから、緊張していろいろ考えちゃうわよ」
 皐月に向かってたしなめるように薫は言った後、葉月の顔に視線を移して
「――ね、葉月ちゃん?」
と、どこか甘ったるい声で続けた。
 そんな薫の言葉に、葉月はひどい違和感を覚える。
 薫の口調が、昨日の夕飯時とはまるで違っているのだ。昨日は、皐月が主任なのに対し自分は一般教諭という立場をわきまえ、薫は皐月ときちんと敬語を交えて会話していた。それだけでなく、主任の弟ということもあるし、何度か顔を会わせたことはあるものの、たとえ、(薫の辛い生い立ちを知らされた仲だとしても)まだあまり親しくない間柄ということもあって、葉月に対しても敬語で応対してくれていた。
 それが、どういうわけか、今は、ずっと距離感を詰めた話しぶりに変わっている。
 しかも、あまつさえ……。
「……あ、あの、田坂先生、その、は、葉月ちゃんっていう呼び方は、ちょっと、その、なんていうか……」
 他のことはともかくとしても、こればかりは。
 マンションを訪れる教諭たちは、葉月のことを『葉月ちゃん』と面白がって呼ぶことが多い。しかし、薫だけは違っていた。これまで薫だけは、どんな時も葉月のことをきちんと『葉月さん』と呼んでくれていた。それが、今朝になって急に、ちゃん付けに変わってしまったのだ。それも、他の教諭たちのように面白がっている気配はなく、柔和で甘ったるい口調ではあるものの、いたって真面目な様子で。
 他の教諭からそんな呼び方をされても、ああ、からかわれてるんだなと思って、それでおしまいだが、好意を寄せる相手である薫からそんな呼び方をされて、心穏やかではいられない。
 葉月は薫に向かって弱々しく言ってから、皐月に助けを求めだ。
「姉さんからも田坂先生に言ってよ。もっと別の呼び方の方がいいんじゃないかとかさ」
 が、皐月の口をついて出たのは、予想外の返答だった。
「ああ、それも園長先生からの指示なんだ。だから、私の勝手な判断じゃどうしようもないかな」
「え……?」
 思ってもみなかった皐月の返答に、葉月がきょとんとした表情を浮かべる。
 そんな葉月の顔を眺めながら、皐月は言葉を継いだ。
「そのことも含めて、いろいろ話しておきたいことがあるのよ。食べながらでいいから、これから言うこと、よく聞いておいて――」
 ひばり幼稚園で葉月がアルバイトをする期間中、葉月の呼び方を『葉月ちゃん』とすることに決まったのは知っての通りだ。生真面目な性格で冗談の一つも口にしない園長が教職員たちを前に葉月のことをそう呼んでみせたことで、その呼び方は明確なルールとなった。ただ、もともと、その呼び方は、園長が面接の最後に葉月に向かって「ビジネスマナーに則り、自分のことは『私』と称するように」と注意したのと同様、職場である幼稚園内において、同じ名字の持ち主である皐月と葉月を呼び分けるためのいわば便宜上のものと言っていい。けれど園長は、その呼び名に、単なる便宜的な役割だけではなく、プロジェクトメンバーどうしの結束を強める役割を求めることにした。皐月と葉月という実の姉弟の中に薫という他人を加えたプロジェクトにおいて、姉弟と薫との間に心理的な溝が生じないよう、三人を擬似的な家族と見なすことで、よそよそしい他人どうしの寄せ集めには難しい速やかな意思疎通と任務達成に対する結束意識の強固化、状況判断・状況変化に対する相互補完性の高練度化を図ることにしたわけだ。そうして、『葉月ちゃん』という呼び名に、そんな疑似家族をシンボライズし、結束を示すキーワードとしての役割を与えることにしたのだった。
「――というわけでさ。昨日、田坂先生と私に園長先生はそう説明した後、あんたにもその旨を伝えておくようおっしゃったわけ。だから、わかった? 他の先生たちはあんたのこと、園の中でしか『葉月ちゃん』って呼ばないけど、田坂先生は、家の中でも外出先でも、あんたのこと、『葉月ちゃん』呼びするから、そのつもりでいなさいよ。それに、私たちは三人で家族。プロジェクトが完了するまで、プライベートでもそういう設定で生活することになるから、そのつもりでいなさいね」
 皐月は、薫が用意した朝食を口に運びつつ言い聞かせるようにそう説明し、悪戯めいた口調で続けた。
「わかったよね、お利口な葉月ちゃんは?」
(ああ、そういうことか。擬似的とはいえ家族どうしの会話という設定だから、敬語で話すのも控えることにしたんだ、田坂先生。昨日はこんな説明、僕はまだ聞いてなかったから田坂先生は敬語を使ってたけど、姉さんの説明で家族ごっこが始まるから、もういいんだ)
 葉月は頭の中でぼんやり理解した。
「今日から私たちは家族なのよ。一つの目標に向かって進んで行く家族なの」
 皐月の説明が終わるのを待ち、『家族』という部分を強調して薫が言った。
 家族という言葉を口にするたび薫の瞳に奇妙な光が宿る。それは、家族という言葉は、辛く陰鬱な子供時代を送ってきた薫にとって、特別な意味を宿す言葉だった。医師としての地位を捨てて初等教育の世界に身を転じた紗江子の言葉を借りるなら「静かで緩慢な心の死から救い出してくれる人のぬくもり」そのものを指す言葉だった。かなわぬと知りながらあれほどに求め、幻に過ぎぬと知りながらあれほどに憧れた、そんなものが本当に在るのかどうかさえ疑わしく思えていた、家族という言葉。その言葉が自身の唇から紡ぎ出されるたび、薫の瞳が妖しい光を宿すのは無理からぬところか。
 だが、その異形の光に、葉月が気づくことはない。
「……家族、か。さしずめ、姉さんがしっかり者の長姉、田坂先生が面倒見のいい次姉で、僕は男のくせに頼りない末っ子ってところかな」
 皐月が平然と朝食を平らげる様子を呆れたように眺めながら、葉月は苦笑交じりに呟いた。
 その瞬間、薫がくすっと笑った。
 笑って、
「姉さんが二人と弟が一人の三人家族? ううん、違うわよ、葉月ちゃん。うちは、そんな家族構成なんかじゃないわよ」
と、どこかほんわかした雰囲気のいつもの薫からは想像もできないほどきっぱりした口調で言った。
「……?」
 薫が何を言おうとしているのか見当もつかず、葉月は口をつぐんだ。
「御坂先生が、幼稚園で主任として働くパパ。私は、幼稚園で先生をしている、兼業主婦のママ。それで、葉月ちゃんは――」
 薫は、左右の掌で葉月の右手を包み込んで言った。
「――葉月ちゃんは、私たちの、パパとママの一人娘なの。幼稚園の年少さんで、まだまだ手のかかる、小っちゃな女の子。それが葉月ちゃんなのよ。うん、そう。私たちはパパとママと小っちゃな女の子の、三人家族なんだから」
「な、何を言って……!? 」
 葉月は慌てて薫の手を振りほどこうとした。
 が、意外に力が強く、華奢な葉月ではどうすることもできない。
「駄目よ、ご飯中に暴れちゃ。そんなお転婆さんだと、幼稚園のお友達に嫌われちゃうわよ。ちゃんと女の子らしくしなきゃいけないの。それに、ほら、パパをご覧なさい。パパはもうご飯を食べちゃったわよ。葉月ちゃんもパパを見習って、さっさとご飯を食べないといけないでしょ。ご飯を食べて、明後日の幼稚園の支度をしなきゃいけないのよ。ご本を読んだり、制服の寸法が合ってるかどうか確かめたりしなきゃいけないのよ」
 どこまで冗談かどこまで本気かわからない顔つきで、薫は、それこそ本当に幼児に言い聞かせるような口調で言った。
 葉月は、すがるような目を皐月に向けた。
「園から持って帰ってきた荷物の中には、先生たちの意見を抽出した上で標準化したドキュメントをまとめたファイルがあるんだ。一昨日、ようやくドキュメント化の作業が終わって、昨日の朝一で園長先生の裁可をいただいて、一時参照資料として先生方に配り終わってさ、それで、田坂先生と私とあんたの分を持って帰ってきたのよ。ご本を読むっていうのは、そのドキュメントの内容を三人で再確認するってこと。それと、面接が終わってすぐ、あんたの制服を発注するために採寸したこと、憶えてるでしょ? その時に注文したのが昨日、出入りの業者さんから届いたから、それも持って帰ってんのよ。信頼できる業者さんだからたぶん大丈夫だと思うけど、今日のうちにサイズがちゃん合ってるかどうか確かめとかなきゃいけないから。田坂先生が言ってるのは、つまり、そういうことよ。――せっかく家族になったんだから、早く慣れて、ママが何を言ってるのかきちんとわかるようになろうね、葉月ちゃん」
 皐月はくすくす笑いながら言って、すっと目を細めた。




戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き