偽りの幼稚園児





               【七】

「……僕が姉さんや田坂先生の娘って、どういうことなのさ? プロジェクトの円滑な進行のために擬似的な家族を演じるってことは、ま、わからないこともないよ。なんていうか、納得はできなくても、でも、なんとなくわからなくもないけど、でも、大学生の僕が二人の娘、しかも年少クラスの女の子だなんて、まるで意味がわからないよ」
 葉月は薫の手を振りほどくのを諦め、きゅっと下唇を噛んで皐月の顔を睨みつけた。
「あんたにはわからなくても、もともと、それが今回のアルバイトの本当の業務内容だったりするんだけどね――」
 皐月はくすっと笑って言い、葉月の手を離してやるよう薫に目で合図を送った。
 男性応募者に対する課題作成のアシスト。葉月が採用されたアルバイトの業務内容は、そうなっている。けれど、これだけではあまりにも漠然としすぎていて、具体的にどんなことをする仕事なのか、まるで想像もつかない。が、仕事内容を曖昧にしておいたのは、わざとのことだった。内容を詳しく示したりしたら、引き受け手など一人もいないに違いない、つまり、葉月に与えられたのは、そのような類いの仕事というわけだ。
 その内容とは、簡単に言ってしまえば、ひばり幼稚園の園児としての生活を送ることだった。それも、年少クラスの女の子として。
 園長のみならず教職員の総意として、ひばり幼稚園の教諭募集に際して男性からの応募があった場合、応募者に対して遂行困難な課題を与え、その課題をこなせなかったという理由を以て応募者をふるい落とすという手段を講じることにしたのは前述の通り。男性応募者に与えられるその課題というのが、「年少クラスの女児としての生活を体験し、当該年齢層の女児がいかに無力であるかを自らの感覚としてとらえることを通し、女児の立場から見た男性教諭なる存在が如何に怖れの対象になり得るものか、その心理状態を詳細にレポートせよ」というものだった。
 幼稚園教諭を志望する男性は、おうおうにして自分のことを優しいお兄さんだと自己評価しがちなものだ。その際、年端のゆかぬ園児から自分がどう見られるかということに思いを巡らせる者は、皆無に近い。けれど、実のところ、(丸みを帯びた体つきで柔らかな手をして優しい声の女性教諭と比べ)がっしりした筋肉質の体つきでごわごわの手をして低い声の男性教諭というのは、小さく頼りなく自分では何もできない幼児にとって、大きく振り仰がなければ顔も見えず、どんなに力を振り絞っても到底かなう相手ではなく、その声で一喝されただけで身が縮みあがってしまう、或る意味、恐怖の対象たりうるものだ。幼児にとって自分がそういう恐怖の対象であることに気づかぬまま中途半端な自己評価のみに基づいて子供の面倒をみていると、よかれと思って取った行動が、配慮不足のせいで、子供の心を著しく傷つけてしまう場合がある。そんな事態に陥らぬよう、幼稚園児というものが、ことさら年少クラスの女児というものが、どれほど無力な存在なのかを身をもって知らしめようというのが、課題の骨子だ(もっとも、この説明そのものがいささか建前論であって、正直なところを言えば、ひばり幼稚園の教諭になるには園児に成りきるっていう課題をこなす必要があるとなれば、そこまでして応募する者なんていなくなるよねというのが、園長たちの本音なのだが)。
「――ただ、考え方はそれでいいとしても、実際の課題に落とし込むのが難しくてさ。あまり理不尽なことを強要しちゃったら、応募者が関係官庁に訴え出て、採用試験の恣意的な運用ということで咎められる怖れもあるし、かといって、単なる『園児ごっこ』程度で済ませてしまえば目的を果たせないし。そのへんの線引きが難しくて、で、あれこれ考えていても埒が明かないってことで、誰かに被験者になってもらって、実際に試してみることになったってわけ。難易度を何段階か変えながら実際に課題をこなしてもらって、その際の心理パラメーターを取得することで適切なラインを設定するための目安にしようってことでさ。わかった? その被験者に選ばれたのが、あんたってわけ。だから、年少クラスの女の子に、あんたは成りきらなきゃいけないのよ」

「……いやだ、僕は断る。こんなアルバイト、僕は引き受けないよ」
 葉月は、奥歯を噛みしめて、絞り出すような声で言った。
 それに対して、皐月がひょいと肩をすくめて応じる。
「断ることなんてできないよ。雇用契約書だって交わしてるんだから」
「そんなの、知ったこっちゃない。――たしか、公序良俗って言うんだっけ。形式的にはちゃんと整った契約書でも、公序良俗に反する内容が記されている場合は、契約そのものが無効になる。法律じゃ、そうなってるよね? 僕だって勉強したんだよ、図書館へ通い詰めてる間に」
 葉月は、なけなしの勇気を振り絞って反論した。
「ふぅん、よく知ってるじゃん。だったら、思うようにしてみれば? ただ、あんたが契約の解除を申し出たら、園長先生、すぐに民事訴訟を起こすでしょうね」
「いいさ、裁判になるんだったら、なっても。こっちが勝つに決まってるんだから」
「そうね、結果として、あんたが勝つでしょうね。結果については、私もそう思う」
 皐月は平然とした口調でそう言い、少し間を置いてこう続けた。
「で、念のために確認しておくんだけど、結果が出るまで、つまり裁判所が判決を出すまでに、証言のために大勢の関係者が裁判所に呼び出されるってことも知ってるんだよね?」
「あ、ああ、知ってるよ、そんなこと。僕は裁判所へ行ったってちっとも構わないさ」
「あんたはね。でも、父さんと母さんは困るんじゃないかな。管理職として教育現場に携わる身としちゃ、家族のことで裁判所に呼び出されちゃったりしたら、いろんな面倒事に巻き込まれることになっちゃうんじゃないかなぁ」
「……ど、どういうことだよ、それ!?」
「面接があった日、久しぶりに父さんと母さんに連絡を取ったのよ。私が働いている幼稚園で葉月がアルバイトをすることになったから、二人で身元保証人になってくれないかなって。二人とも、とっても喜んでたよ。教育学部に入ったはいいけど教育現場に関わることには乗り気じゃないあんたのこと心配してて、それが、幼稚園でアルバイトをする気になったって聞かされちゃ、あんたもいろいろやる気になってくれたんだろうって思って、喜びもするよね。でもって、身元保証人の件、二つ返事で引き受けてくれてさ、園長先生から預かった書類を送ったら、署名と捺印をして、すぐに送り返してくれたよ。父さんと母さん、あんたの身元保証人なんだから、裁判になったらいろいろ証言をしなきゃいけないの、当たり前じゃない?」
「そんな……」
「本人は何も悪いことしてなくても、裁判所に呼び出されたってだけで、良くない噂がたっちゃうこと、よくあるよね。ま、それも仕方ないか。二人とも、そんなこと承知の上で身元保証人になってくれたんでしょうし。――可愛い息子のために、ね」
「……」
「両親にいろいろあったら、離れた場所といっても同じ教育界に身を置く立場としちゃ、私の方も面倒くさいことになるかな。でも、いいや。弟のせいで園長先生に不義理しちゃうことになるけど、仕方ないや。ま、なんとかなるでしょ」
 皐月は、わざとのほほんとした口調で言い終えた。

「……ったよ」
 しばらくの沈黙の後、葉月がぼそりと言った。
「ん、なんだって? よく聞こえなかったんだけど?」
「わかったよ。……やりゃいいんだろ、アルバイトをさ。わけわかんない幼稚園児ごっこのアルバイトなんてものをさ!」
 最後の方は声を荒げて葉月は言い、肩を震わせた。
「ほら、すぐ、そうやって怖い声を出す。無意識のうちにそんなことしちゃうから、男の人が幼稚園の先生になるのには反対なんだよ。自分じゃ知らないうちに子供たちを怖がらせちゃってることにちっとも気がついてないんだ。見た目は女の子みたいなあんたでもこうなんだから、世の中のむくつけき男どもなんて、推して知るべしっととこだろうね、まったく」
 皐月は葉月の顔をねめつけて言い、薫の顔に視線を移した。
「本当はもう少し時間をかけて説明したかったんだけど、仕方ないよね。なんだかんだあったけど、結局、葉月も家族になることをわかってくれたし、ま、これでいいってことにしようよ。ただ、ここまで話しちゃったら、ご本を読む――ドキュメントの内容を三人で確認するってのは、もう要らなくなっちゃったってことだよね。ドキュメントの内容を確認することを通して、アルバイトの本当の内容をゆっくり説明する予定だったけど、順番をすっとばしちゃったんだから」
「ごめんなさい、私が勝手な判断で先に『家族ごっこ』を始めたせいで説明を混乱させちゃって。私、嬉しくて。ごっこだとしても、あんなに憧れてた家族ができるんだと思ったら嬉しくて興奮しちゃって、つい……」
「いいさ、田坂先生がそれだけこの家族ごっこに情熱を注いでくれているってことなんだから。それだけ本気で、家族に成りきろうとしてくれているってことなんだから」
 皐月は薫に向かってこれ以上はないくらい優しい声で言い、大きく頷いてから、きっぱりと続けた。
「よぉし、そうと決まったら、今から本気の『家族ごっこ』を始めるとするか。――ご本を読むのは終わったことにして、葉月の制服がちゃんと寸法通り仕上がっているかどうか、確かめようよ。まかせてもいいかい、田坂先生、あ、ううん、ママ?」
 皐月は葉月の視線を意識しながら、芝居がかった口調で言った。
「もちろん、いいわよ。でも、パパだって、どんな制服が届いたのか見てみたいでしょ? 葉月ちゃんの新しいお部屋へ連れて行って、二人で着せてあげましょ」
 ぱっと顔を輝かせ、こちらも負けず劣らず芝居がかった仕草で大きく頷いて、薫が応じた。
(葉月ちゃんの新しいお部屋? 僕の新しい部屋ってどういうことなんだよ?}
 薫が口にした言葉に胸のざわめきを覚えつつ、二人に手を引かれて椅子から立ち上がるしかない葉月だった。

               *

 廊下を挟んで葉月の部屋の真向かいに、ちょっとした物置に使っている部屋がある。
 葉月が二人に手を引かれて連れて来られたのは、その部屋の前だった。
「ほら、今からここが葉月ちゃんの新しいお部屋になるのよ」
 左手で葉月の手を握ったまま、薫がエプロンの前ポケットをまさぐり、何やら四角形の札のような物を取り出すと、それを皐月が受け取って、ドアの最上部に取り付けた。
 それは、淡いピンク色の木製のネームプレートだった。可愛らしい女の子のイラストが描いてあって、そのすぐ下に、平仮名で『はづきのおへや』という丸っこい文字。
「葉月が図書館へ行っている間に、要らない物はトランクルームに預けて、模様替えをしておいたんだよ。葉月の新しいお部屋を用意してあけたいって園長先生に相談したら、幼稚園のお仕事を他の先生に代わってもらえるようにしてくださって、それで、パパとママ、二人で用意したんだよ。葉月が気に入ってくれたら、パパとママだけじゃなく、園長先生も大喜びなんだけどな」
 皐月がそう言いながらドアを引き開けると、部屋の中は、葉月がそれまで知っていたのとはまるで違う光景に様変わりしていた。書籍類やレポート類、普段は使わない食器や器具といった物がすっかり姿を消し、その代わりに、小さな女の子が大好きなキャラクターのブランドで統一した家具や調度品が並んでいる。たとえば、ベッドにはキャラクターのイラストをあしらったマットレスが敷いてあり、その上に、お揃いのキャラクターを描いた夏用の薄手の毛布が広がっていて、枕元には、やはり同じキャラクターのクッションが置いてあるといった具合で、とにかく、ポールハンガーや箪笥、小物入れまで、全てがお揃いのキャラクターグッズだった。




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