偽りの幼稚園児





               【八】

 薫は、二の足を踏む葉月の手を引いて強引に部屋に連れ入り、フローリングの床に座らせた。
 葉月は抗おうとするのだが、どうしても力負けしてしまう。
 いくら自分が華奢とはいえ、若い男性だ。対して薫は、仕事がら普段から子供を抱き上げたりしていて知らず知らずのうちに筋力が増しているかもしれないとはいえ、自分と殆ど同じ身長の女性。薫のどこからそんな力が出てくるのか不思議でならない。胸の中で訝しみつつ、少しばかり不貞腐れた様子で葉月は胡座をかいた。
 と、そこへ、
「こら、駄目でしょ。女の子が胡座なんてかかないの。そんなお行儀のわるい座り方してちゃ、幼稚園のお友達に笑われちゃうわよ。ちゃんと膝を揃えて座らなきゃいけないでしょ」
という薫の叱責が飛んでくる。
「……ほっといてよ。僕がどんな座り方したって、田坂先生に迷惑かけるわけじゃないんだから」
 葉月がぷいっと横を向く。
 ただ、その時の様子が、持って生まれた容姿のせいだろう、男子大学生がいかにも不機嫌そうに顔をそむけるのではなく、女の子がちょっぴり拗ねて唇を尖らせ頬を膨らませているように見えて、却って可愛らしい。
「駄目じゃないか、葉月。ママに向かってそんな口のききかたをするなんて、いけない子だな。ママの言うとおり、膝を揃えて座りなさい。それから、ママにごめんなさいすること。葉月はもう赤ちゃんじゃないんだろ。明後日から幼稚園のお姉さんなんだから、ちゃんとしなさい」
 次に飛んできたのは皐月の叱責の声だった。
 ただでさえ、葉月にとっては、どれだけ些細なことであろうと決して逆らうことのできない相手である皐月。その皐月が、『厳しいパパ』を演じ、男親らしい口調を意識して叱りつけるのだから、効果はてきめんだ。思わず葉月はびくっと体を震わせ、もういちど頬を膨らませつつも、無言で、固い床の上にのろのろと正座した。
「それからどうするんだっけ? ちゃんと座り直した後、することがあるんじゃないのかい?」
 皐月の叱責は続く。
 日頃から様々な性格の子供たちと接し、まだ幼く決して聞き分けがいいとはいえない子供たちを時には優しく時には厳しく指導することに長けている皐月の声は、それが子供ではなくても、聞く者の心の襞にじわりとしみいる。
「……ご、ごめん……なさい」
 一瞬は抗う気持ちも胸に去来したが、それも、皐月の叱責の声の前では虚しい。葉月は顔を伏せ、薫や皐月と目を合わせないようにして弱々しい声で呟くように応じざるを得なかった。
「そんなごめんなさいじゃ駄目だろ。葉月がどんないけないことをしたからごめんなさいなのか、誰にごめんなさいなのか、ごめんなさいした後どうするのか。わかるようにちゃんとごめんなさいしなきゃ駄目だろ!?」
 皐月の叱責は尚も続く。
「ご、ごめんなさい。……お、お行儀のわるい座り方をしてごめんなさい。田坂せ、ううん、あの、ごめんなさい、ま、……ママ。……これから、いい子にする。いい子にするから、だから、もう叱らないで、お願いだから、姉さ、ううん、ぱ、パパ。僕、これからいい子にするから……」
 渋々ながらでもひとたび幼児のごとく『ごめんなさい』の言葉を口にしてしまえば、自らの無力をこれでもかと痛感させられ、心の箍が外れるのは、思うよりもたやすい。大学生としての矜持など微塵も持ち合わせぬ、屈辱にまみれ、羞恥に満ちた表情で、葉月は、今にも消え入りそうな声を途切れ途切れに絞り出すことしかできない。
「うん、それでいい。ちゃんとごめんなさいできて、葉月は本当にいい子だ」
 皐月は少しだけ声の調子を和らげ、葉月の頭にぽんと手をのせて言った。
「だけど、まだ一つだけ注意しとかなきゃいけないことが残ってるぞ。自分のことは『僕』じゃなく、『私』というじゃなかったっけ?」
 自分のことは僕ではなく私――いつか、どこかで聞いた言葉だ。でも、どこでだったっけ。いつだったっけ。皐月の叱責に加え限りない羞恥と屈辱とに心を千々に乱した葉月には、それが僅か一週間ほど前の面接の際に園長から告げられた言葉だという事実を思い出すことさえかなわない。ただ、その言葉と共に、鋭い眼光をたたえた園長の切れ長の双眸が思い出されるだけだ。
 そうしていつしか、妖しく煌めく双眸の持ち主である園長の威厳に満ちた顔と、ついさきほどまでの皐月の抗うことを赦さぬ叱責の声とがない混ぜになり、恥辱のきわみにはちきれんばかりになっている葉月の胸でとくとくと脈動する心臓を、きゅっと鷲掴みにしてしまう。
「――ごめんなさい。わ、私、いい子にする。私、お行儀よくする。だから、ごめんなさい、パパ。ごめんなさい、ママ」
 葉月はぶるぶる震える体を自分の腕で抱きかかえ、今度は力なく顔を上げて、今にも泣き出さんばかりの声で言った。
「うふふ。普段は優しいパパも、怒ると怖いでしょ? これからも、葉月ちゃんがママの言いつけを聞かない時はパパに叱ってもらうことにしましょう。叱られるのがいやだったら、いい子にしているのよ、葉月ちゃん」
 葉月の顔に浮かぶ屈服の表情を見て取った薫が、ダイニングルームの時と同じ怪しい光を瞳に宿して、満足そうに言った。
「……」
「ほら、また、そうやって、お返事のできない子になっちゃう。さっきのごめんなさいは何だったんだい!?」
 一瞬押し黙ってしまった葉月を皐月が鋭く咎める。
「ち、違うの……お返事できないんじゃないの。……なんてお返事したらいいのか考えてて、だから……だから、叱らないで。私のこと、もう叱らないで、お願い、ね、お願いだから、パパ」
 弱々しくかぶりを振って許しを乞う葉月。
 そんな葉月の頭を優しくそっと撫でながら、薫が猫なで声で、あやすように言った。
「そうね、年少クラスの葉月ちゃんはまだお誕生日が来ていないから、今のお年は三つね。二つから三つくらいの年の子はいろんな単語を覚えて、単語を組み合わせて話すお稽古をする時期になるのよね。おぼえたばかり単語を組み合わせてママにどうやってお返事したらいいか考えてて、それで、すぐには何も言えなかったのよね。いいのよ、葉月ちゃんが本当はとってもいい子だってこと、ママはよぉく知ってる。だから、いいの。もう葉月ちゃんを叱らないであげてってママからもパパにお願いしてあげる。だから、そんなに怖がらなくてもいいのよ」
(葉月ちゃんは三つ。ああ、そうだ。年少クラスの子供は、年度の途中に誕生日を迎えて四歳になるんだっけ。だから、葉月はまだ三歳。僕は、三歳児として生活することになるんだ。三歳の女の子として)
 年少クラスという言い方ではなく、具体的な年齢がわかる『三歳児』という言い方をされると、羞恥と屈辱がますます掻き立てられる。ようやくイヤイヤ期が終わるか終わらないかの幼児、それも、本来の性別とは異なる女児として生活することを余儀なくされようということを改めて思い知らされた葉月は、薫の顔をぼんやりと見上げることしかできずにいた。

               *

「……ちゃん。ほら、準備ができたわよ、葉月ちゃん」
 しばらくの間、心ここにあらずといった様子で、どこか遠い所を見るような目を壁に向けているだけの葉月だったが、薫に名前を呼ばれて、ふと我に返った。
「目の前に箱があるでしょう? その中に葉月ちゃんの制服が入っているのよ。あのね、パパもママも、どんな制服が入っているのか、まだ見てないの。葉月ちゃんと一緒に箱を開けて、葉月ちゃんが喜ぶ顔を見たくて、先に中を見ずに我慢していたのよ」
 薫は、葉月の目を覗き込むようにして言った。
 言われるまま葉月か視線を移すと、大きな四角い箱が三つ、目の前に並べて置いてあった。どれも、表面がつるつるのしっかりした厚めの紙でできていて、蓋の真ん中あたりに、ひばり幼稚園の園章が描かれている。
 葉月ちゃんの制服。
 そう言われて、葉月の胸を仄かな違和感がよぎる。それだけでなく、それと同じ違和感を以前にも抱いたことがあるのをぼんやりと思い出しもする。
(ああ、そうだ。あの日、面接の最後に、僕の制服を発注するからって、園長先生と姉さんに採寸してもらったっけ。……でも、姉さんが幼稚園への行き帰りに制服を着ているとこなんて見たことがなくて。子供の面倒を見る時はジャージだし、それに、入園式や卒園式の時は自前のスーツだったし、ひばり幼稚園に先生用の制服があることなんて知らなくて、それでちょっと不思議に思って。……先生には制服はないけど、ひょっとしたら、事務員さんだったらあるのかなとか、アルバイトの僕は事務員さん扱いで、だから制服なのかなとか思って、でも、面接が終わって職員室で挨拶した時、事務員さんらしい人たちも、めいめい働きやすそうな服を自分で選んで着てるみたいで、制服みたいなのを着ている人なんて一人もいなくて、それで余計に不思議になってきて。……だけど、すぐに、僕のことを『葉月ちゃん』なんて恥ずかしい呼び方をすることが決まったせいで、そんなこともじきに忘れちゃって)
 教諭たちも事務員たちも着用しない制服。
 そのことに改めて思い至った葉月の心臓がどきんと高鳴る。
(……あの時に気がついていたら。誰も制服なんて着ていないことの意味をあの時ちゃんと考えてさえいれば……ひばり幼稚園で制服を着ているのは園児だけだってことに、あの時に気がついていれば……)
 けれど、もはや全てが手遅れなのは明らかだった。
「さ、ママと一緒に開けようね。ほら、手を伸して」
 不意に薫が葉月の手首をつかんで、掌を箱の縁に押し当てさせた。
 部屋に連れ入れらた時と同様、抗うことは不可能だった。
「はい、じゃ、蓋を持ち上げるわよ。――ほーら、葉月ちゃんの制服よ」
 薫は、葉月の手を紙製の箱の縁に押し当てさせたまま、さっと持ち上げた。
 箱の中には、丁寧に薄葉紙で包装した衣類が収められていた。
 純白の薄葉紙を透かして、パステルピンクの生地が鮮やかに映える。
 いかにも肌に優しく柔らかそうなその淡いピンクの生地でできた衣類が葉月の制服なのは、言を俟たない。

「私が箱から出すから、パパは葉月ちゃんを立たせてあげてちょうだい」
 葉月の手首から指を離し、薫は皐月にそう言ってから、ゆっくり薄葉紙を広げ、両手で掬い上げるようにしてパステルピンクの制服を箱から取り出した。
 その間に皐月が葉月の背後にまわりこみ、脇の下に手を差し入れて、その場に立たせる。
「つ……」
 固い木の床の上で慣れない正座を続けていたせいで、脚がじんじん痺れている。葉月は、小さな呻き声をあげて足を踏ん張った。
 その目の前で薫は制服の左右の肩口を持ち、さっと振り広げた。
 空気をはらんでふわっと広がったそれは、ひばり幼稚園に通う女の子用の制服として採用されているセーラーワンピースだった。




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