偽りの幼稚園児





               【十七】
 脱衣場からダイニングルームに移動し、テーブルにつこうとした葉月だったが、そこに置いてあるのがいつも座っている椅子と違っていることに気がついて、僅かに首をかしげ、目の前の真新しい椅子をしげしげと眺めた。いつも座っているのは、皐月がテーブルとセットで購入した、六脚お揃いで濃い茶色の少し角張ったデザインのアンティークふうの椅子なのだが、今その代わりに置いてあるのは、丸みを帯びたデザインで、明るい色の塗装を施した、やや座面の高い椅子だった。そして、左右の肘掛けを繋ぐような形で撥ね上げ式の小さなテーブルが付いていて、腰と太股の位置に、柔らかそうな素材でできたベルトが取付けてあるのがわかる。
「いいでしょう? 葉月ちゃんの制服を注文した時の採寸表を使って、園長先生が知り合いの家具屋さんにお願いして特別に用意してくださったのよ」
 食べかけになってしまっていた朝食の食器を並べ直しながら、薫が、葉月の顔と新しい椅子を交互に見て言った。
「ひばり幼稚園じゃ、新入生の年少クラスの子供たちは、園の生活に慣れるまで、ご飯を食べる時は安全のためにベルトの付いた食事用の椅子を使うことになっているの。入園したばかりの年少さんは、子供によって成育具合がばらばらで、もうお箸を使えるようになっている子がいたり、反対に、おとなしくきちんと椅子に座っていることが難しい子もいるのよ。だから、年少さんはみんな区別なく、安全のために、入園から夏休みが始まるまでの間は、腰と脚をベルトで固定できるようになっている椅子に座ってご飯を食べる決まりになっているの。でも、それだと手が食卓に届かないから、小さなテーブルが肘掛けに付いていて、そこにお皿やコップを置けるようになっているの。みんな、夏休み明けには普通の椅子とテーブルになるんだけど、葉月ちゃんは入園が他のお友達よりも遅くて明後日から幼稚園だから、当分の間は、ご飯用の椅子に座らなきゃいけないのよ。でも、幼稚園で急に初めての椅子だと可哀想だからお家で慣れておけるようにって、園長先生が特別に家具屋さんにお願いしてくだったのよ。葉月ちゃんは他の年少さんのお友達と比べてずっと体が大きくて、みんなと同じ大きさの椅子だと座れないから、わざわざ特別に作ってもらえるようお願いしてくださったの」
 薫の言う通り、目の前にあるのは、幼児にご飯を食べさせる時に使う椅子だった。ただし、大きさだけは葉月を座らせるために特別制作された別誂えの幼児用の椅子。
「さ、ここに座って」
 薫は、大きな幼児用の椅子に作り付けになっているテーブルを右側の肘掛けに固定しているピンを外し、葉月が座れるようにテーブルを左側の肘掛けの方に撥ね上げて、座面を優しくぽんぽんと叩いてみせた。
 しかし葉月は、羞恥と屈辱のため身じろぎ一つできない。
「やれやれ、ご飯の椅子に座ることもできないなんて、困った子だね、葉月は。年少クラスのお友達に追いつくには、どれだけ特別年少クラスで頑張らなきゃいけないのか、今から心配だよ」
 芝居がかった様子で皐月が言い、葉月の脇の下に手を差し入れると、正面から抱え上げるようにして、強引に幼児用に椅子に座らせてしまう。
 それに合わせて薫が、いったん左に撥ね上げておいたテーブルを元に戻し、手早く固定ピンで留める。こうすると、再び左右の肘掛けがテーブルで繋がる形になって、葉月が椅子から逃げ出せる隙間がなくなってしまう。しかも特別制作の椅子は、大きさだけが特別なのではなく、造作も特別な細工が施してあるらしく、テーブルを固定するピンを留めた後、薫が小さなクリップのような物をピンの端に差し込んで軽く捻ると、葉月がいくらピンを指でまさぐっても外すことができなくなってしまうのだった。
 それでも葉月はその羞恥きわまりない椅子から逃れようとして、足を床に踏ん張り、両手で肘掛けを掴んで大きく揺すった。
「葉月がそんなお転婆さんだなんて知らなかったよ。ま、子供はこれくらい元気があった方がいいかもしれないけど」
 皐月が大げさに肩をすくめ、いかにも困ったような表情を浮かべてみせる。
「でも、葉月がこんなに騒いだりしたら、何があったのか心配で、下の階の人やお隣の人が来ちゃうかもしれないね。そうなったら、娘が駄々をこねて暴れているんですって説明して、葉月が実際に暴れているところを見せなきゃいけないかもしれないね。そうしたら、葉月のお転婆ぶりがマンション中の人たちに知られちゃって、娘の躾けもろくにできないんだって思われちゃって、パパもママも恥ずかしくなっちゃうな。ああ、困った困った」
 困った困ったと口では言いながら、実のところ困った様子はまるでない。階下や隣室の住人が訪れ、ダイニングルームでの出来事を目の当たりにするような状況になって最も困るのは、他の誰でもない、葉月だ。階下や隣室の住人たちとはさほど親密ではないものの、挨拶を交わすくらいのことはするし、葉月が皐月との同居を始めてすぐの頃、その容姿のため女の子と間違われたこともあって、住人たちは葉月の顔を印象深くおぼえているに違いない。ダイニングルームで幼児用の椅子に座って大騒ぎしている幼女の顔を見て、スモックとオーバーパンツ姿のその幼女が実は十八歳の男子大学生である葉月だとすぐに気づくだろう。そうなれば、あらぬ誤解を受け、どのような噂を流されるか知れたものではない。
 特製の幼児用の椅子からは、力づくで逃れることもできないのだ。
「いい子だね、葉月は。そうだよ、そんなふうにおとなしくしていればいいんだよ」
 葉月が渋々ながら静かになるのを待って、皐月と薫が二人で、腰と股のベルトを固定具で留めてしまう。ベルトの固定具もテーブルを留めるピンと同様の細工が施してあるらしく、薫が手にしたクリップで、勝手に外すことができなくなってしまう。
「そうよ、いつまでもお転婆のままだとお友達に嫌われちゃうから、いい子にしていようね。――あ、そうだ」
 クリップをエプロンのポケットにしまいこんで満足そうに微笑む薫だったが、すぐに何かを思い出したように両手をぽんと打ち鳴らし、ダイニングルームから出て行ったかと思うと、ビニールらしき素材でできたエプロンを手にして、すぐに戻ってきた。エプロンといっても、薫がブラウスの上に身に着けている家事用のエプロンではない。薫が手にしている、下の端が立体的なポケットになっていて首筋にマジックテープで巻き付けて着用するようになっているそのエプロンは、
「さ、ご飯の時はこのエプロンをしておかないとね。これなら、葉月ちゃんがスプーンを使うのがあまり上手じゃなくて野菜や玉子をこぼしちゃっても、エプロンに付いているポケットが受け止めてくれるからテーブルや床が汚れないし、せっかくの新しいスモックも汚れないから安心よ」
と薫が説明する通り、幼児が使う食事用のエプロンだった。
「ひばり幼稚園では、年少クラスの子は、ご飯の時もおやつの時も、何か食べる時はエプロンをする決まりになっているの。もちろん、特別年少クラスの葉月ちゃんも同じよ。だから、お家でもエプロンをする練習をしておこうね。年少クラスのお友達、みんな、自分で上手にエプロンを着けたり外したりできるようになっているから、葉月ちゃんも頑張らなきゃね。でも、最初は難しいから、ママが着けてあげる」
 薫は、優しい声ながらも有無を言わせぬきっぱりした口調で説明し、防水性の素材でできた食事用のエプロンを葉月の首筋にさっとまき付け、手早くマジックテープを留めた。
 そうしておいてから薫は
「はい、どうぞ。冷めちゃったけど、つくり直すのは勿体ないから、我慢してね。その代わり、食器は、葉月ちゃんが喜んでくれるように新しいのにしておいたわよ。さ、召しあがれ」
と、とびきりの笑顔で言いながら、改めて、皐月の席にはコーヒーのカップ、自分の席には、夕飯の時と同じ大ぶりのプレートと牛乳を満たしたコップを置き、最後に葉月に、プレートとコップを椅子に作り付けのテーブルに置いてから、椅子に腰をおろした。
 けれど、葉月の目の前にあるプレートは夕飯の時に使った物とは異なっていて、葉月の新しい部屋の調度品と同じアニメキャラクターが描かれた子供用のプラスチック製のプレートだった。しかも、牛乳のコップも、薫の席にあるようなガラスのコップではなく、こちらもやはりアニメのキャラクターが描かれた、幼児が持ちやすいように左右どちらにも取っ手が付いていて、白いゴムの吸い口が付いたプラスチックのコップだった。更に、プレートの手前に置かれたフォークは、ちゃんとした金属製のものではなく、これもやはりプラスチックでできた先割れスプーンだ。
「ほら、ウィンナーはタコさんにしておいたわよ。リンゴもウサギさんの形にしておいたし。どう、気に入ってくれたかな?」
 薫は、子供用のプレートに盛り付けたロールパン、スクランブルエッグとソーセージ、野菜サラダやフルーツを次々に指さして、にこやかに微笑んでみせた。
 けれど、葉月は無言だ。
 無言のまま弱々しく首を振るだけだ。

「まったく、いつまでも赤ちゃんなんだから、葉月は。仕方ない、パパが食べさせてあげるから、ほら、お口をあーんしてごらん」
 いつまでも葉月がスプーンを持たないままでいると、皐月が葉月の右隣の席に移ってきて、プラスチック製の先割れスプーンを掴み上げ、スクランブルエッグを救い取って、葉月の口元に近づけた。
 が、葉月は口を固く閉ざして、スプーンを拒む。
 そんな抵抗が何の意味も持たないことは十二分に承知しているけれど、実の姉の手によって幼児用のスプーンで食事を与えられるという行為が、もう殆ど記憶に残っていない筈の、自分が本当の幼児だった頃のことを思い起こさせ、まるで時間を遡って、無分別で訳もなく泣きじゃくってばかりいた頃の自分に戻されてしまいそうな気がして、皐月が持つスプーンを知らず知らずのうちに拒んでしまうのだった。
 皐月がスプーンを口元に押し当てても、葉月は頑なにそれを拒む。
 スプーンからスクランブルエッグがこぼれ出て、葉月の顎に半熟玉子の薄い黄色の筋を残し、立体ポケットの中へ、エプロンの表面を伝い落ちる。
「やれやれ。このままこうしていても、仕方ないね。どうやら葉月は今は食べたくないみたいだから、食べたくなるまで待つことにしようか。せっかくママがつくってくれた朝ご飯を無駄にすることはできないから、いつまでも待ってあげるよ」
 葉月の顎とエプロンの表面についた薄い黄色の筋を見つめ、なにやら含むところのありそうな口調で皐月は言った。

               *

 葉月が特製の幼児用の椅子に座らされて一時間ほど経った頃。
 遅い朝食を終えた薫とコーヒーを飲み干した皐月が見守る中、それまで首をうなだれていた葉月がのろのろと顔を上げ、左隣の薫の顔と斜め正面の皐月の顔を見比べて何か言いたそうにしながら、けれど結局は何も言わずに弱々しく首を振り、下唇をきゅっと嚼みしめて目を閉じた。
 再び葉月は無言で首をうなだれたのだが、それまでは掌を拳に握りしめて太股の上に置いていたのが、いつしか、掌を広げて盛んに腿や腹部を気遣わしげに撫でまわすような仕草をみせるようになっていた。
 そんな葉月の様子を目にして、皐月がそっと椅子から立ち上がって薫の傍らに歩み寄り、
「そろそろだから、用意しておくよ」
と耳打ちして、ダイニングルームから出て行った。

 しばらくして皐月が戻ってくるのと、葉月がぶるぶると体を震わせ激しくかぶりを振るのが、ほぼ同時だった。
 皐月と薫は無言で頷き合い、葉月の朝食の食器を食卓に移して椅子に作り付けのテーブルを左の肘掛けの方に撥ね上げ、腰と腿を椅子に固定しているベルトを手早く外して、座らせた時と同様、皐月が葉月の脇の下に手を差し入れて抱き上げ、床に立たせた。
「い、いやだ、触らないで、僕の体に触らないでよ。急に立たされたりしたら、僕は、僕は……」
 よほど切羽詰まっているのだろう、二人から強要されている幼児語を使うこともせず、下腹部をぶるぶる震わせながら皐月の手を振り払おうとするが、言葉が最後まで続かない。
 けれど皐月は、言葉で説明されるまでもなく、葉月の身に何が起きているのか、すっかりお見通しだった。
「急に立たされたりしたら、足を踏ん張らなきゃいけなくて、下腹部に余計な力がかって、それで、おしっこが出ちゃうかもしれないから、僕の体に触らないでよ。――そう言いたいんだよね、つまり、葉月は」
 皐月は葉月の脇の下に差し入れた手を離して静かに言い、薫に向かってそっと目配せをした。
 葉月の注意が皐月に向いている隙に薫は葉月の真後ろで膝立ちになり、オーバーパンツの股ぐりに右手を差し入れ、更に、オーバーパンツの中に穿いているショーツの股ぐりに指を差し入れて、ショーツや、ショーツの中にあてがった布おむつの様子を探った。
 突然の出来事に葉月は体を固くするだけで、薫が差し入れた右手の指がショーツの中をもぞもぞと這い回る間、何もできずにいた。
 そんな葉月と薫の様子は、ようやくおむつが外れてパンツになったばかりの幼い女の子がパンツを濡らしていないかどうかを母親の手で調べてもらっているかのような光景だ。まさかそんな二人が、十八歳の男子大学生と、その大学生が恋心を抱いている相手で、四歳しか年のかわらない新任の幼稚園教諭の姿だとは想像することすらかなわない。




戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き