偽りの幼稚園児





               【二二】

 画面を更にフリックすると次々に写真が切り替わり、水玉模様のおむつから動物柄のおむつへ、気持ちよさそうに眠ったままの葉月が薫の手でおむつを取り替えてもらう様子が順を追って表示される。
「これでわかったでしょう? 葉月ちゃんは、試しにあててあげたおむつをおねしょで濡らしちゃったのよ。お昼寝でもおねしょをしちゃうんだから、夜のねんねの時なら尚更よね? それにしても、おねしょでおむつが濡れても目をさまさないし、おむつを取り替えてあげた時も目がさめないなんて、本当に赤ちゃんに戻っちゃったみたいね。だったら尚更、これから葉月ちゃんは、おねむの時はおむつをあてておかなきゃいけないわよね。ただ、だからって、いつまでもおむつっていうのはいやでしょ? だったら、こうしない? 今夜おむつをあててねんねして、明日の朝までおねしょしなかったら、明日の夜はパンツでねんねしていいわよ。それで、明日パンツが濡れなかったら、次の日もパンツ。だけど、今夜おむつを濡らしちゃったら、明日の夜もおむつ。つまり、おねしょしなかったら次の日の夜はパンツで、おねしょしちゃったら、次の日の夜はおむつってこと。それでいいわね?」
 薫は有無を言わさぬ調子できっぱり言って、スマホをポケットにしまった。
「わかったら、ほら、立っちして、お風呂にしましょう。あ、おむつは外しちゃったから、このままでいいわ。――じゃ、葉月ちゃんのお風呂をお願いね、パパ」
 最後のは方は、二人の様子を静かに見守っていた皐月に向かって言い、薫は葉月の手を引いてベッドから床におり立たせた。

 葉月は物心ついてからこちら、おねしょをしたことなど一度もない。
 それがこんな時に限ってしくじってしまったのは、この物語をお読みの方にはもうおわかりだと思うが、美雪が提供した薬剤のせいだった。前述したように、選択性筋弛緩剤の作用によって手足の筋肉が弱体化しているだけでなく膀胱や尿道の機能も低下しているところに、薫が牛乳に混入して飲ませた睡眠導入剤の作用が相まって、眠っている間に尿意をもよおしても目をさますことなく。そのまま排尿してしまい、水玉模様のおむつを濡らしてしまったというわけだ。いうまでもないが、体操服からナイティに着替えさせられる際におむつをあてられた時も、眠っている最中におむつを取り替えられる時も全く気がつかずにすやすや眠りこけていたのも、睡眠導入剤のためだった。
 けれど葉月は、知らず知らずのうちに様々な薬剤を服用させられていることに気づいてはいない。葉月がそれと意識している薬剤といえば、タックによって後ろ向きに折り曲げられたペニスを両脚の間に固着するために塗布されたあの特殊な接着剤の存在だけだった。

               *

 午前中のシャワーとは違い、今回は、ちゃんと浴槽を使っての入浴だった。
 先に皐月が体を洗っている間に湯船で体を温めていた葉月が次に体を洗う番になったのだが、皐月はバスチェアを葉月に譲った後も、傍らに立ったまま何かを考えている様子で、で湯船につかろうとはしなかった。
「あ、あの、お風呂、あいてるよ、姉さ……ぱ、パパ?」
 二人して黙りこくっているのに耐えかねて、葉月が、ぎこちない幼児語で話しかけた。
「いいよ、『姉さん』で。午前中のシャワーの時、私が姉としてあんたに接するのはこれでおしまいって言ったけど、あれはいったん前言撤回。あんたに話しておきたいことがあるから、少しの間だけ、パパから姉さんに戻ることにするよ」
 ふと我に返ったように皐月は言い、葉月の真後ろに場所を移して膝立ちになると、葉月の頭にシャンプーハットをぶせた。
「い、要らないよ、シャンプーハットなんて。いつまでも子供じゃないんだから」
 浴室の壁に嵌め込みになっている鏡に写る自分の姿に、なんとなく子供の頃のことが思い出されて、葉月は頬を赤らめた。
「あらあら、なに生意気なこと言ってんだか。あんたはまだまだ子供よ。それも、ママのおっぱいにむしゃぶりついて、おねしょでおむつを濡らしちゃう赤ちゃんのくせして、シャンプーハットが恥ずかしいなんて、生意気いっちゃって」
 皐月はくすくす笑いながら、ぬるめに設定したシャワーの湯を葉月の頭に浴びせた。
「そ、そんな……」
 葉月は返す言葉をなくしてしまう。
「私、午前中にこの浴室で、田坂先生のことを、人との距離感を取るのが下手だって言ったよね。おぼえてる?」
 皐月はシャンプーを掌に救い取りながら、背後から、鏡に写る葉月に向かって問いかけた。
「う、うん……」
 皐月が何を言おうとしているのかわからず、葉月は曖昧に頷くだけだった。
「あれって、ちょっと正確な言い方じゃなかったのよね、正確じゃないっていうか、言葉足らずっていうか。なんて言えばいいのかな、田坂先生、親密になったと自分で思った人に対しては、相手が困っちゃうくらい急に距離感を詰めちゃうところがあって、そのへんのところを『人との距離感の取り方が下手』って表現したんだけど、実は田坂先生の人との距離感の詰め方には、まだその先があってさ」
 皐月は両手で葉月の髪を揉み梳くようにして、シャンプーを泡立てる。
「その先……?」
「ここからは、園長先生のお知り合いのお医者様が紹介してくださって田坂先生の心のケアにあたってもらっているカウンセラーさんからの受け売りになるから、そのつもりで聞いてね。――田坂先生と相対していて、すごく距離感が縮まっちゃって相手が窮屈っていうか息苦しくなっちゃうことがあるんだけど、しばらくすると、息苦しさなんてどこかへ消えちゃって、そのうんと詰めた距離感を相手が心地よく感じるようになることがよくあるんだそうなのよ。つまり、それって、距離感の詰め方が下手っていうより、ぎりぎりどこまで距離感を詰めても大丈夫なのかを事前に察知して、段階を経ることなく、一気にそのぎりぎりのところまで距離感を詰めるってやり方で、田坂先生は自分がこれと思った人との親愛感を確立しているっていうふうに解釈できるんじゃないかなってことなんだってさ、カウンセラーさんの見立てでは」
 皐月は葉月の耳の後ろや髪の生え際を入念に洗いながら、葉月の反応を確かめるように間を置いた。
 言われて、葉月には思い当たる節があった。
「それと、これもカウンセラーさんからの受け売りなんだけど、田坂先生の場合、ぎりぎりどこまで距離感を詰められるかを事前に察知するだけじゃなく、これは誰に対してでもというわけじゃないんだけど、ぎりぎりの距離感を田坂先生自身が設定して、その距離感を相手に受け入れさせることもできるみたいなんだってさ。つまり、これ以上距離感を詰めたら相手に拒絶されちゃうぞって察知しても、どうしてもそれ以上に距離感を詰めたい相手に対しては、もっと詰めた距離感を相手が受け入れるように仕向けることができるんだそうよ。そんな、一種の心理操作に近いことまで田坂先生は、おそらく自分でも気がつかないうちにやってのけているんじゃないかってカウンセラーさんは推測してるの。ただ、繰り返しになるけど、これは誰に対してでもってことじゃなくて、ある特定の条件に合致した人に対してだけ有効みたいだし、その方法も、言葉によるものなのか、ある種のフェロモンみたいなものが作用しているのかってこともわからなくてさ。それに、田坂先生のその能力?みたいなやつが生まれつきのものなのか、それとも、家族ってやつに強い憧れを抱きながら人との関わりを避けて生きてきた生い立ちが関係しているのかってこともわからないし。とにかく、カウンセラーさんとしちゃ、貴重な研究対象を手に入れたみたいな感じで、大昂奮しちゃってるってわけなのよ、園長先生と私しかいない所じゃ。――あ、大丈夫? 泡、目にしみなかった?」
 シャンプーの泡を洗い流すために皐月は再びシャワーの湯を葉月に浴びせた。
 泡は幾らか目に入ったものの、それは葉月には気にならなかった。
 そんなもの気にならないくらい、葉月は、皐月の話の内容に衝撃を受けていた。
 午前中にこの同じ浴室で皐月が説明したように、葉月は薫から保護の対象とみなされ、気がつけば幼い娘として扱われるようになっていた。最初はそのことに反発していた葉月も、力づくで、あるいは言葉巧みな心理的な誘導によってその事実を徐々に受け入れさせられ、ついには、(下腹部の疼きに抗えずというところもあるにせよ)自ら薫の乳房を求め、薫の母乳を貪りながら絶頂を迎えてしまうほどに手なずけられてしまうところにまで至ってしまっていた。もしもそれが、薫の人との距離感を詰める独特の方法によるものだとしたら、葉月は、その方法が有効な特定の条件に合致する者ということになる。そして、それがもしも事実だとしたら、葉月が初対面で薫に対して抱いた恋心さえ、知らぬまに薫によって心の片隅に芽生えさせられたものではないだろうか。面接の日、職員室の隅の席から葉月に向かって小さく手を振ってくれたあの好意に満ちた素振りさえ、葉月が薫に対して向ける恋心を巧みに刺激するための(無意識のうちではあるものの)計算尽くの仕草だったのではないだろうか。
 自分は初対面で、薫に魅入られていたのかもしれない。
 そんな思いに至って、葉月はぞくりと身震いしてしまう。

「あ、シャワーが冷たかったかな。もっと熱くしようか?」
 葉月が身震いするのを見て、皐月が気遣わしげに言った。
「……ううん、平気だよ……」
 何が平気なのかわからぬまま、葉月はぽつりと答えた。
「あのさ、大丈夫だよ」
 皐月はシャワーの湯を止め、葉月の頭にかぶせたシャンプーハットを外して髪をバスタオルで拭きながら、つとめて明るい声で言った。
「え……?」
 葉月が、鏡に写っている皐月の顔を見上げて訊き返す。
「心配するようなことはない、絶対に大丈夫だよ。――あんたに向けて田坂先生が胸の中に抱いているのは、限りない保護欲なんだと思う。あ、ううん、保護欲だけじゃないか。たぶん、保護欲と独占欲とがごっちゃになった、言葉じゃ表現するのが難しい複雑な欲望だと思う。でも、欲望といっても、あんたに害をなす欲望なんかじゃないよ。むしろ、あんたのことを守って守って可愛がって可愛がって、もしもあんたに危害を及ぼそうとする者がいたとしたら、そいつに激しい憎悪を向けて、決して許さないだろうと推察されるような、そんな欲望だよ、きっと。そういう意味では、あんたが田坂先生の虜になっていたとしても、ううん、虜になっているからこそ、あんたは大丈夫な筈なんだ」
 皐月から返ってきたのは、葉月の胸の内を見透かしたかのような説明だった。
「……」
「あんたにはまだ言ってなかったんだけど、私と田坂先生とあんたで進めているプロジェクトは、実は、もっと大きな計画の一部なのよ。そっちの計画には、ひばり幼稚園だけじゃなく、園長先生が設立した学校法人や財団や社団法人といったもの全部の行く末がかかっていてね。ううん、それどころじゃなくて、園長先生のお知り合いのお医者様が率いている医療法人の将来にもかかわってくる、ちよっと私たちじゃ想像するのも難しいような大変な計画でさ。で、私たち三人が進めているプロジェクトっていうのは、その大きな計画の一部にしか過ぎないんだけど、でも、私たちのプロジェクトが失敗したら、大元の計画の成功も覚束ないくらい大事なプロジェクトだったりするのよ、実のところは」
 皐月は、葉月の肩に背後から手を置き、ぎゅっと掴んで言った。
「しかも、そんな大事なプロジェクトの成否の鍵を握っているのが、あんたと田坂先生なのよね。そういう意味では、正直に言っちゃうと、私にとっては、ううん、園長先生と私にとっては、あんたが田坂先生の虜になった状態でいるのは都合がいいんだ。どんな形にせよ、二人の仲が深まれば深まるほどプロジェクトが成功する確率が高まるのよ。だから、絶対に大丈夫。園長先生も園長先生のお知り合いのお医者様も私も園の先生たちみんなも全力でバックアップする。だから、絶対に大丈夫なのよ」
「……その大元の計画っていうのは、何をしようとしているの? 僕にもわかるように説明してもらえる?」
 葉月は後ろを振り返ることなく訊いた。
「ごめん、それはまだ話せない」
 皐月は、わざと素っ気なく答えた。 
「やっぱり、ずるいよ、姉さんは」
 葉月は、午前中の浴室で口にした言葉を繰り返した。
「ずるくていいさ。いつかきっと、絶対にあんたにもわかることなんだから」
 皐月も、その時の言葉を繰り返してみせる。
「――その時が来たら、僕にも全部わかるんだよね? 園長先生や姉さんたちが何をしようとしているのか、田坂先生の役割が何なのか、僕がは何をすればいいのか、全部わかるんだよね? だったら、いいよ。姉さんはこれまで、僕のことをとっても大切にしてくれた。忙しい母さんの代わりに僕の面倒をみてくれた。ちっとも家にいない父さんの代わりに僕を叱ってくれた。だから、いいんだ。僕にかかわることで僕に仇なすことを姉さんがするわけがない。だから、姉さんが望む通りに僕は行動する。それでいいんだよね?」
 一瞬だけ考えて、葉月は今度は後ろを振り返り、皐月の顔を正面から見て言った。
 その目に、迷いの色は一点も浮かんでいなかった。




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