偽りの幼稚園児





               【二五】

先述した生い立ちのため薫は、男性に対して極度の恐怖心を抱えるあまり、結婚を諦め、自分の家族をつくることを諦めていた。だが同時に薫は家族というものに限りない憧れを抱き、自分も家族を持ちたいと切に願い、そんな自分でも家族をもつことができる方法はないものかと無意識のうちに常に思いを巡らせていた。
 そうして、そんな薫が得た唯一の方法が、擬似的な家族をもつことだった。結婚を諦めたからには、血の繋がった家族を持つことは不可能だ。けれど血の繋がりさえ求めなければ、こんな自分でも家族を持てるのではないかという思いに薫は至ったのだった。保護者を求めるなら、その者の養子になればいい。自分が保護したい対象をみつけたなら、その者を養子として迎え入れればいい。いや、そもそも、戸籍というものにこだわらなければ、もっと自由に、もっと軽やかに、自分が望む家族の形を作り出すことができる筈だ。それを構成する者たちどうしが強い信頼感を持ち合っていれば、血の繋がりをも超えた家族として結ばれることが可能になるに違いない。それは一見したところでは、他人が寄り合っただけの単なる集団にすぎないかもしれないが、しかし、その実、血の繋がりが必然的に内包するどろどろした人間関係から自由で、共通の願いを持ち合う理想的な家族になれるに違いない。
 いつしか薫の胸の中にはそんな思いが芽生え、薫はその思いを実現するための方策に思いを馳せることが常になっていた。
 薫の願いを実現するために紗江子は皐月と話し合った上で葉月をプロジェクトのメンバーに加えたのだが、事態は紗江子のほぼ思い描いた通りに進んでいるようだった。

 さて、ここで、紗江子の目的がどこにあるのか、また、プロジェクトをその一部として含む大元の計画というのがどのようなものなのかについて簡単に触れておこくとにしよう。
 紗江子とは昔から親交のあった笹野美雪が学生時代に複数の男にレイプされたのは先述した通りだが、その事件には、厚生労働省の幹部官僚の子息や、当時の慈恵会など歯牙にもかけぬほど巨大な医療法人の理事長の息子も荷担していた。当然のことながら、高級官僚や巨大医療法人の理事長は、自らの権力を使って事件の揉み消しを図ったのだが、当の被害者である美雪は、当時の慈恵会の理事長であった実の父親に一言の相談もせぬまま、事件を捜査当局に告発することも、どんな形であれ世間に公表することもせず穏便に事を済ませてもらえないだろうかという(権力を後ろ盾にした脅迫じみた)依頼に対して特段の抵抗をしめすことなく、あっけないほど簡単にその依頼に応じたのだった。ただ、美雪がそのようにしたのは強大な権力に屈したためではなく、多額の示談金に意を曲げためでも決してなかった。美雪が求めに応じたのは、将来を見越してのことだった。即ち、理不尽きわまりない依頼に応じることで実行犯側に貸しをつくり、慈恵会の将来における運営に有利な状況に持ち込むことが目的だった。それは、美雪がまだ学生の身でありながら自らの身体と心の苦痛を取引材料にさえしてしまうほどの冷徹かつ強靱な精神の持ち主であることをしめすエピソードの一つと言っていいだろう。
 その時は互いの思惑が一致し、表面上は和解し、密約と表現してもいい協定を結んだ両者だったが、今から五年ほど前から、徐々に状況が変化し始めた。それは丁度、当時の政府が進めていた医療における規制緩和の結果が明らかになり始めた時期と重なるのだが、その頃は、かつての実行犯が理事に名を連ねる医療法人との暗黙の了解のもと無益な競合を避けるべく総合病院を展開する地域の棲み分けを図り、また、厚生労働省において病院運営のガイドラインを作成する部署を統括する高級官僚からそれとなく情報の提供を受けるなどして慈恵会が全国でも有数の医療法人として勢力を拡大している時期でもあった。その只中、慈恵会の勢力拡大に危機感を抱いた旧来の有力医療法人が慈恵会の排除に乗り出し、実行犯側がそれに勢いを得て、かつての密約を反故にする動きをみせるようになってきたのだ。
 それに対し、美雪はかつての実行犯たちと接触し真意を質したのだが、かつての実行犯側にもそれなりの事情が幾つかあることはわかったものの、美雪にとっては、それらの事情も随分と身勝手きわまりないものでしかなく、明らかな裏切り行為と断じざるを得なかった。
 そのような経緯があって、美雪としても、組織防衛のための行動を取らざるを得ない状況に置かれることになった。かつての実行犯たぢが密約に基づく『紳士協定』を反故にするというなら、美雪としても形振り構わぬ反撃に転じなければ慈恵会が壊滅させられ、笹野家の名声が潰え、自分なりの理想を掲げて着々と進めてきた医療改革の道が閉ざされてしまうのだから。
 一方、それとほぼ時期を同じくして、紗江子は文部科学省に対して或る行動を起こそうとしていた。
 医療から初等教育に身を転じるにあたって、紗江子は理想を掲げていた。それは、己の無力さを思い知らされて進むべき道を変えた紗江子にとって、決して譲ることのできない信念でもあった。しかし、実際に教育の場に立ってみると、そこが、外界からは窺い知ることのできないおどろおどろしい情念の渦巻く世界であることを痛いほど知ることになった。建前ではその存在が許されないことになっているヒエラルキーや、口では公正を唱えつつ実行される情実に基づく人事考課、生徒に対する露骨な格付け等々。
 そんな中でも紗江子が最も心を痛めたのは、生徒どうしの苛めのみならず教師どうしの苛めに加え、教師が特定の生徒に対する苛めに荷担するケースが少なくないという事実、そして、そういった苛めがかなりの割合で隠蔽され、公表されないという絶望的な事実だった。教師になろうという者は殆どが、義務教育から高校へ進み大学を卒業して、そのまま、社会経験を経ることなく教壇に立ち、誤解を恐れずに言うなら教室における唯一の権力者として振る舞うことになる。しかも、義務教育から大学に至るまで、ほぼ挫折というものを経験したことがない者が大半だから、失敗を繰り返しながら様々なことを学び取ってゆく生徒たちの気持ちに真の意味で寄り添うことは難しく、いとも簡単に『教室の独裁者』になってしまう場合も少なくはない。しかも、現場の教師だけでなく、文部科学省や教育委員会の事務局に籍を置く者たちも教師たちと似たような経歴の持ち主であるから、教育の場がきわめて閉鎖的な空間になってしまうのは必然でさえあった。そのような場では、少しでも異質と思われるものを排除しようとして苛めというものが極めて発生しやすく、また、苛めというものに対して客観性のある対応を取ることが困難で、極めて独善的な措置に終始することが少なくない。
 そういった実情を目の当たりにした紗江子は、絶望するばかりではなく、自らの手で教育の場を改革する道を選んだ。もっとも、義憤にかられてというだけがその理由ではなく、自分の手で設立した学校法人の将来を見据え、教育行政の一角に食い込むことも視野に入れた、或る種の打算を伴っていることも否定はしない。
 紗江子が最初に矛先を向けたのは、今から二十年ほど前に起きた、高校二年生と小学校六年生の兄弟が中学校一年生の女子に対して行った陰湿な苛めだった。その事件は、各々の学校においてそれと気づく生徒も多かったのだが、加害者である兄弟の親が県の教育委員会でも一目置かれる実力者ということもあり、被害生徒に対して『賠償金』ではなく『見舞金』という名目の金銭が渡されたのみで、加害生徒に対する指導も、各々の学校関係者に対する責任追及も表だっては行われず、有耶無耶のうちに処理が済んでしまった事件だった。それが揉み消しや隠蔽の結果だと噂する声は広く聞こえたものの、我が身可愛さが先に立って、真実を追究しようとする動きはまるで見受けられず、結局はそれきりで終わってしまった。
 その全容を明らかにし、同様に隠蔽されてきた多くの事件を白日のもとにさらすことを手始めとして自分なりの教育改革を進める覚悟を紗江子は固めたのだった。
 そして、今から四年前に、当時の事件の概要をかなり深く知る人物との接触に成功し、いよいよ文部科学省に対する攻勢をかけようとした矢先に紗江子は、ことあるごとに近況を連絡し合っている美雪が厚生労働省に対して牙をむこうとしていることを知った。
 迷うことなく紗江子は、美雪に協力を申し出た。
 幼稚園は文部科学省の管轄であるのに対し、同じ年代の幼児を対象として保育の手助けをする保育所/保育園は厚生労働省が管轄しているのだが、各々の対象とする児童がほぼ同じ年代の幼児ということがあって、現場レベルでは幼稚園と保育所/保育園との間で情報を交換することも珍しくはない。それに、省庁間の連携を重視しない縦割り行政が目立つ日本としては珍しく、幼稚園と保育所/保育園を統合した『認定こども園』という保育教育施設が平成十八年に設立されているもあって、それに携わる部門では、両省間の人的交流も比較的活発に行われている。
 そういった点に着目した紗江子は、本来の目標である文部科学省に対する直接的な攻勢をいったん控え、先ずは美雪と共に厚生労働省に対する攻勢を仕掛けることにしたのだった。
 そんな紗江子と美雪が最も強力な『武器』として選んだのが、田坂薫だった。
 奨学金の支給の是非を判断するために薫と面談した紗江子は、薫が初対面の人間と接する際に特殊な能力を発揮することがあることを瞬時に把握し、美雪の協力を得て優秀な精神科医をカウンセラーとして薫に接触させ、薫の利用価値を探っていた。そしていよいよ薫を自分の幼稚園に新任教諭として迎え入れる段になって、紗江子は、薫をどのように活用するかを美雪と協議し、厚生労働省の一角を自分たちの思うままに動かすようにするための計画の一部としてのプロジェクトを発動させたのだった。
 この計画における薫の役回りは、厚生労働省の複数の高級官僚と接触することに尽きる。美雪と紗江子が持つ人脈を最大限に活かして対象となる高級官僚との接触さえ果たせば、薫が持っている特異な能力で、対象者から様々な情報を聞き出すことは容易だし、うまくゆけば、対象者をこちら側の協力者に仕立て上げることも決して不可能ではない。
 或る意味、薫が持つ能力に大きく依存した計画といえる。
 そして、薫が安定して能力を発揮できるようサポートする役目を担うことになったのが、葉月だ。カウンセラーとして薫に接している精神科医から美雪と紗江子に届けられた報告では、薫が信頼に足ると判断した人物が身近にいて、その人物に対するぎりぎりの距離感が維持されている時に薫は能力を最大限に発露するようだとされている。その報告に基づき、紗江子は、以前からそれとなく目を付けていた葉月をプロジェクトに引き込むことにした。その際、形式的には、プロジェクトにおいて薫が葉月をフォローアップすることとしたが、実際は、薫の保護欲や独占欲を刺激して薫に能力を最大限に発揮させるように仕向けることこそが、(本人が知らぬまま)葉月が担わされた役割だった。要するに葉月は、薫が忠実に役目を果たすべく前もって与えられた『ご褒美』というわけだ。

 このようにして、薫の願いを実現することで心の傷を癒やすと同時に、より大きな計画を実現させようとする紗江子の(そして、美雪の)思惑通りに、ものごとは進んでいた。
 だが、ここで、疑問を抱く方も少なくないだろう。先述した皐月と葉月に対する『救済』というのは何を意味するものなのか、と。
 そのような疑問を抱くのは尤もなことだ。
 けれど、その説明については、機会を改めたいと思う。
 ともあれ今は、かりそめの家族のその後を追いかけることにしよう。

               *

「ほら、おっきしなさい。こんな気持ちのいい朝、いつまでもねんねじゃ勿体ないでしょ」
 もうすっかり慣れ親しんでしまった薫の声が耳元で聞こえ、体を揺すられて、ようやく葉月は目を開いた。
 カーテン越しに窓が眩い。
「……お、おはよう、ま、ママ……」
 正面からこちらの様子を窺っている薫と目を合わせることが躊躇われ、葉月はベッドに横たわったまま顔を横に向けた。
 昨夕、皐月に言い含められるまま薫に対して自分から随分と恥ずかしい『おねだり』をしてしまった上に、夕飯の後にはご褒美と称して薫に授乳してもらいながら寝かしつけられた、その羞恥が今になって蘇ってくる。
 しかも、授乳の痕跡は今も葉月の胸元にくっきりと残っているのだ。
 そう、あれが夢や思い違いなどではなかったことをしめすうっすらと白い滲みが、葉月の着ているネグリジェの胸元に、ありありと幾つも残っているのだった。




戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き