偽りの幼稚園児





               【三十】

「いいですね、その呼び方。葉月ちゃんパパと葉月ちゃんママ。とっても素敵な呼び方だと思います」
 真由美の提案に薫は相好を崩し、浮き浮きした声で相槌を打った。
 それから、自分の背中に隠れる葉月を前方に押しやりながら言って聞かせる。
「もうわかったと思うけど、制服やスモックなんかを納入してもらっている、ひばり幼稚園の指定業者さんが、この鈴本服飾商店なのよ。もちろん、葉月のために特別誂えの制服とスモックと体操服を用意してくださったのも、このお店。それで、明日ママが幼稚園に着て行くお洋服も真由美お姉さんにお願いすることにしたの。真由美お姉さん、学生の時は大学で経営学を勉強しながら専門学校へ通ってデザインも勉強していたのよ。だからセンスが良くて、葉月が初めて幼稚園へ行く特別な日の服を安心して選んでもらえるの。そうそう、葉月の制服もスモックも、それに、今着ているサンドレスも、みんな、デザインは真由美お姉さんが考えて縫製業者さんに指示してくださった物なのよ。こんなに可愛いお洋服を用意してくださった真由美お姉さんに、葉月からもお礼を言っておかなきゃね。葉月はお利口さんだから、きちんとお礼を言えるわよね? きちんと言うのよ、いいわね?」
 薫が『きちんとお礼を言う』の部分を繰り返し言った意味は、葉月にも痛いほどわかっている。真由美の前でも幼い女の子になりきって、それにふさわしい話し方をするよう暗に強要しているのだ。
「あ、あの、真由美……お、お姉さん。は、葉月に、か、可愛いお洋服を用意してくれて……あ、ありがとう。制服も、す、スモックもとっても可愛くて、は、葉月、とっても嬉しかったの」
 自宅マンションで三人きりの時は幼児言葉が自然と口をついて出てくるようになった葉月だが、初対面の若い女性に向かって口にするのは恥ずかしくてたまらない。
 しかし、今や、葉月にとって薫の言葉は絶対だ。
 葉月は羞恥と屈辱に顔を真っ赤に染め、固く握りしめた掌をぶるぶる震わせながら、途切れ途切れにそう言うしかなかった。
「どういたしまして。ちゃんとありがとうを言えるなんて、葉月ちゃんは本当にお利口さんなのね。こんなに可愛い子にありがとうって言ってもらって、逆にこっちからお礼を言いたくなるほど嬉しくなっちゃった」
 真由美は目を細めて応じ、薫の顔に視線を転じた。
「さすが幼稚園の先生だけあって、葉月ちゃんママは子供の躾けがお上手ですね。こんなにきちんとお礼を言えるように葉月ちゃんを躾けるなんて」
 薫の顔を見ながらにこやかにそう言った真由美は、もういちど葉月に視線を戻すと、意味ありげに少しだけ間を置いてから
「十八歳の大学生の男の子なのに、まるで本当に小っちゃな女の子みたいに可愛らしくありがとうを言えるだなんて、本当に葉月ちゃんはお利口さんだわ。それに、大学生の男の子にこんな可愛らしいお礼の言い方を教えるなんて、さすが幼稚園の先生だけあって、葉月ちゃんママは躾けがお上手だわ」
と、言い回しを微妙に変えて繰り返した。
「……!?」
 はっとした顔になって、葉月は身じろぎ一つできなくなってしまう。
「そうよ。真由美お姉さんは、葉月が本当は十八歳の男の子だってこと、最初から知っているのよ」
 真由美の目の前で身をすくめる葉月の背後から薫がしれっとした顔で言った。
「葉月ちゃんママの言う通りよ。実は私、葉月ちゃんたちがメンバーに選ばれたプロジェクトには、衣類に関する専門家の意見も欲しいとおっしゃられる園長先生の要請をいただいて、葉月ちゃんパパ――御崎先生と一緒に構想段階から参加させてもらっているの。その過程でメンバーの人選にも関わらせていただいたから、葉月ちゃんのことはよく知っているのよ。採寸した数字だけではわからない体型の細かい特徴や指の長さやお尻の張り具合や歩くときの姿勢や利き腕や、とにかく、どんな些細なこともみんな御崎先生から事細かに教えていただいたの。だって、幾ら小柄とはいっても十八歳の男の子に着せるスモックとか女の子用の制服とかを仕立てようと思ったら、デザインでも、実際の縫製でも、いろいろ気をつけなきゃいけないところがいっぱいあるからね。ぱっと見は女の子みたいな葉月ちゃんでも骨格はやっぱり男の子だから、制服を着た時にきちんと女の子らしく見せるためには仕立て上がった時にどんなラインになるように生地をカットすればいいのかとか、普段着のサンドレスにしても、アンダーバストからどんなラインでスカート裾へ流したら、本当の小っちゃな女の子とは違う体型をカバーしやすくなるのかとかいったところを想定してデザインして、注意事項を詳しく縫製業者さんに伝えなきゃいけないから、知ることができることは、とにかく少しでもたくさん知っておかなきゃいけなくて」
 薫に続いて真由美が淡々とした口調で説明する。
 そして真由美はすっと腰をかがめ、目を伏せる葉月の顔を下から覗き込むようにして
「鈴本服飾商店が葉月ちゃんのために用意した衣類の中には、既製品は一枚もないのよ。園長先生の強い想いに応えて、私が一枚一枚デザインして縫製業者さんと細かい打合せを繰り返して仕立てた特別誂えの物ばかり。キャミソールやオーバーパンツとかのインナーも、御崎先生から教えていただいた葉月ちゃんの身体の特徴を頭の中にくっきり思い浮かべながらじっくり時間をかけてデザインしたのよ。特に、ショーツをデザインする時には、できるだけ綺麗なお股になるように、葉月ちゃんが眠っている時を狙ってパジャマもパンツも脱がせておちんちんの大きさやおちんちんの付根の様子がわかるような写真を撮ってもらえるよう御崎先生にお願いもしたし。その甲斐があって、ペニスタックを施してショーツを穿いた葉月ちゃんのお股、本当に小っちゃい子みたいになりましたよって御崎先生から昨日お褒めの連絡をいただけて、私としてもすごく満足しているところなの」
と続けて言ってから、最後にこう付け加えて言った。
「そうやって精魂込めてデザインした洋服やパンツをこんなに可愛らしく着こなしてもらえて、葉月ちゃんには本当に感謝しているのよ。それに、葉月ちゃんにこんなに可愛いらしく着せてくださった葉月ちゃんママにも。――まさか、十八歳の男の子がこんなに可愛らしく着飾ってくれるなんて、実際に会うまで信じられなかったわ」
 微かに笑いを含んだ声で真由美がそう言い終えると、室内がしんと静まり返った。

 静寂を破ったのは、ピピピという電子音だった。
 電子音が鳴り響くとすぐに薫が布製のバッグのポケットからスマホを取り出し、表示内容に目を通して画面をタップした。すると、電子音が鳴りやむ。
 その後、薫は自分のスマホを真由美に手渡した。受け取った真由美は薫のスマホの画面に表示されている内容をさっと読み取って、小さく頷いた。
「ゆっくりお茶をしながら、葉月ちゃんママのために用意したスーツのお披露目をしたいと思っていたのですが、少し事情が変わってしまいました。まずは取り急ぎの要件を済ませてから、スーツのお披露目に移りたいと思います。みなさん、隣のプレゼンテーションルームにお移りください」
 葉月に事情を説明していた時とは一転、真由美は事務的な口調で言いながら薫にスマホを返し、執務室と隣室とを隔てるドアを引き開けて、三人を招き入れた。

 間接照明の柔らかな光に満ちたその部屋は、お堅い『プレゼンテーションルーム』と呼ぶにはまるでそぐわない、どこかの家の子供部屋としか思えないような内装にしつらえてあった。それも、学習机やロフトベッドを備えた、小学生とか中学生向けの子供部屋ではなく、ベッドにはキャラクターのイラストをあしらったマットレスが敷いてあり、その上に、お揃いのキャラクターを描いた夏用の薄手の毛布が広がっていて、枕元には、やはり同じキャラクターのクッションが置いてあるだけでなく、お揃いのキャラクターのブランドで統一した子供向けの箪笥やポールハンガーを整然と配置した、小さな子供向けの、どちらかというと『育児室』と呼んだ方がふさわしい部屋だった。
「え……!?」
 薫に手を繋がれておずおずと部屋に足を踏み入れ、部屋の真ん中あたりまで進んで目の前に並ぶ家具や調度品を目にした葉月は、ぽかんとした顔になった。
「そう。どれも、マンションの『はづきのおへや』に置いてあるのと同じ物ばかりなのよ、ここにあるのは」
 葉月の驚きようを面白そうに眺めながら、薫がくすっと笑って説明した。
「一週間ほど前のことなんだけど、葉月の新しいお部屋にどんなベッドや箪笥を置けばいいか相談がてらパパと一緒に真由美お姉さんのお店に来てみたのよ。そしたら――」
 葉月が面接を受けた日の翌日、皐月と薫は園長から、葉月を幼い娘に見立てた擬似的な家族として寝食を共にして互いの心理的な結びつきを深めなさいという旨の指示を受けていた。そこで二人は、準備に手間と時間がかかりそうな事柄から順に片付けてゆくことにしたのだが、その時に真っ先に話し合ったのが、葉月の部屋をどうするかということだった。葉月を幼い娘として扱うには、部屋に置く家具や調度品もそれらしい物を揃える必要があるのだが、幼稚園の教諭とはいえ自分に子供がいるわけではないため、そういったことに関する知識など二人ともまるで持ち合わせておらず、思いあぐねて、ちょっとした気分転換も兼ねて相談のために真由美の事務所を訪れたのだが、そこで二人は、思いがけない朗報に接することになった。聞けば、鈴本服飾商店は更なる販路拡大を図るために取扱商品を増やす計画を立てていたのだが、その一環として、手作り家具の工房と協業体制を築くことになったとのことだった。手作り家具の工房としては、大量生産の安価な家具に押されて販売量が減少傾向にある現状を打破すべく、少なからぬロイヤリティを支払って或るアニメキャラの版元とライセンス契約を結び、そのキャライメージに合う木のぬくもりを感じさせる手作りの子供向け家具を大々的に販売することにしたのだが、これまでは比較的高価な高級家具ばかりを製作していたため販売ルートが限られ苦慮していたところ、それが真由美の知るところとなり、互いの思惑が一致して協業体制の大枠が策定され、あとは正式な契約書を交わす日を待つだけという状態にあったらしい。そんな思いがけない知らせに二人は目を輝かせ、家具の実物を見せてほしいと頼んでみたのだが、真由美はあっけないほど簡単に二人の頼みを受け入れ、それどころか、手作り家具の使い勝手に関して現役の幼稚園の教諭である二人の率直な意見を是非とも参考に聞かせてほしいからと、工房から試作品として預かっている三組の家具の内の一組を無償貸与したいとまで申し出てくれたのだった。その一組というのが、自宅マンションの『はづきのおへや』に置いてある家具で、残りの内の一組は鈴本服飾商店のショップの一角に展示され、残りの一組が、このプレゼンテーションルームに並んでいるというわけだ。ちなみに、このプレゼンテーションルームが育児室を模した内装にしつらえてあるのは、実際の育児室に近い環境に手作り工房の子供向け家具を配置して、そのあたたかな雰囲気や細かなところまで考慮された使い勝手のよさをバイヤーや同業者に広くアピールするためという目的があってのことだった。
「――そんな経緯があってね。だから、あまり驚くほどのことじゃないのよ、ここに有る物と葉月のお部屋にある物がまるで同じでも」
と説明して少しの間を置いた後、薫は意味ありげな笑みを浮かべ、
「じゃ、そのベッドにごろんしてちょうだい。おむつを取り替えてあげるから」
と、オーバーパンツの上からお尻を何度か優しく叩いて言った。
「……?」
 薫が何を言っているのか咄嗟には理解できず、きょとんとした顔になる葉月。
「だって、濡れちゃってるんでしょ、おむつ」
 薫は短く言って、葉月の返事を待つこともせず、オーバーパンツをさっと膝まで引き下ろし、右手の人差指と中指をおむつカバーの股ぐりに差し入れて、おむつの様子を探った。
「やっぱり、濡れちゃってる。ぐっしょり濡れてるんじゃなくて、じっとり湿ってる感じだから、おもらしはしていないけど、汗で蒸れちゃったみたいね。でも、そのままだと折角のすべすべのお肌がおむつかぶれになっちゃうから新しいおむつに取り替えましょう。だから、さ、ベッドにごろんするのよ」
 おむつカバーから抜いた指を、ベッド脇の台に置いた布製のバッグのポケットから取り出したウェットティッシュで拭い、同じバッグから新しい水玉模様の布おむつやベビーパウダーの容器を取り出しながら、薫は葉月に告げた。
 実は手間をかけて指で探らなくても、とっくに薫は葉月のおむつが濡れていることを、スマホの電子音で知っていた。葉月用の特別製の制服やスモック等と共に真由美は(葉月を偽るために、サンプルと称して)たくさんの布おむつとおむつカバーも薫たちに手渡したのだが、その時に、水分を感知する薄いシート状のセンサーも提供していた。このセンサーを布おむつの中に重ね敷いておけば、専用のアプリをインストールしたスマホを使って、感知した水分の量を簡単に確認することができるようになり、また、予め決めておいた量以上の水分を感知した場合はスマホが警告の電子音を発するよう設定する機能も有している、小さな子供を持つ母親のための商品だ。センサーはかなり敏感にできていて、おもらしをしていなくても、多めの汗でおむつが湿った段階で警告を発するよう設定することも可能で、実際、薫はアプリをそのように設定していた。
 だから、葉月のおむつがどれくらい濡れて(湿って)いるのか、薫は既に承知していた。なのにわざわざ指をおむつカバーの股ぐりに差し入れたのは、自分が、おむつが濡れても母親に知らせることもできず周りの誰かが絶えず注意を払ってやらなければ何もできない小さな子供なのだということを葉月自身に改めて思い起こさせるためだった。




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