偽りの幼稚園児





               【三一】

 更に加えて説明しておくと、センサーが検知するほどたくさんの汗をかいたのも、薫が仕組んだことだった。葉月がオーバーパンツを穿きたがるように薫は仕向けたが、それには、サンドレスの裾がまくれ上がりやすくするためという他に、もう一つの目的があった。それは、たくさんのおむつと防水性の高い生地で仕立てたおむつカバーに包まれて蒸れやすくなっている葉月の下腹部を、更にオーバーパンツで重ね覆うことで体温の逃げ場を塞ぎ、少々エアコンが効いている場所でもおむつの中が蒸れて汗をかきやすくさせるためだった。
 こんな薫のたくらみによって葉月は、おもらしでおむつを汚したわけでもないのに、初対面の真由美が見ている中でおむつの取り替えを強要されることになったのだ。

「や、やだ! 知らない人が見ているところでおむつなんて、やだ!」
 葉月は激しくかぶりを振り、くるりと体の向きを変えて、ドアを隔てた執務室に向かってさっと駆け出した。
 けれど、勢いが良かったのは最初だけ。
 膝まで引きおろされたオーバーパンツが脚に絡まって、こてんと前のめりに倒れてしまう。
 咄嗟に腕を伸ばして体重を受け止めようとするのだが、選択性筋弛緩剤のせいで筋力が弱体化していて、体重を受け止めきれない。
 それでも、もともと軽い体重が幸いしたのか顔を床に打ちつけるようなことにはならず、育児室を模して柔らかな素材でできたマットが床に敷き詰めてあるおかげで、さほど痛みも感じずに済んだ。
「ぅう……」
 痛みはないものの、自分の惨めな姿に、嗚咽めいた声が葉月の口をついて出る。
 膝にオーバーパンツを絡ませてうつ伏せで床に倒れ、倒れた拍子にサンドレスの裾が背中の中ほどまで捲れ上がり、おむつカバーを丸見えにした惨めな姿。
 それは、おむつの交換を嫌がって覚束ない足取りで母親の手から逃れたものの、まだ上手に走れなくて床に倒れてしまい今にも泣き出しそうにしている幼い女の子そのままだった。
「ほら、まだあんよが上手じゃないのに急に駆け出したりするからこんなことになっちゃうんだよ。お転婆は駄目だよって、いつもパパとママが言ってるのに」
 わざと呆れたように言いながら皐月が歩み寄って、葉月の腰骨のあたりに手をかけて引き起こし、そのまま横抱きにしてしまう。いわゆる、お姫様抱っこという抱き方だ。
「や、やだ。葉月、おむつ、やだってば。知らない人が見てるのに、おむつなんてやだ」
 涙声混じりの、いつ泣き出してもおかしくないような声で訴えかけながら葉月は手足をばたつかせるが、皐月は一向に動じない。
「おとなしくしてないと、真由美お姉さんに笑われちゃうよ。いつもはお利口さんなのに、今日の葉月はご機嫌斜めだね。何をそんなにぐずっているのかな」
 葉月が皐月の手から逃れようとして暴れる理由は明白だ。けれど皐月は、そんなこと全く知らぬげに葉月を抱いたまま、ゆっくりベッドに近づいて行く。
 ベッドの隅には、股あてと横あてのおむつをTの字の形に組み合わせた布おむつが薫の手で用意してあった。
「さ、いい子にしておむつを取り替えてもらおうね」
 言い聞かせながら皐月が葉月をベッドの上におろす。
「やだ。葉月、ベッド、いや。おむつのベッド、いやなの。駄目、手を離しちゃ駄目なんだから、パパ」
「あらあら、葉月ちゃんは随分と甘えん坊さんなのね。さっきまでママにべったりだと思ったら、今度はパパにずっと抱っこしていて欲しいだなんて。でも、ちょっとの間だけ我慢しましょうね。我慢してママにおむつを取り替えてもらったら、またパパに抱っこしてもらえるからね」
 ベッドに寝かされた葉月の顔を真上から覗き込んで、真由美が、冷ややかな笑い声で言う。
 胸の内を見透かしてしまいそうな視線と、どこか人を小馬鹿にしたような笑い声に、下唇をぎゅっと噛んで葉月は顔をそむけた。
「あら、葉月ちゃんに嫌われちゃったのかしら。さっきはあんなに嬉しそうにお礼を言ってくれたのに。嫌われたままじゃ寂しいから、プレゼントでご機嫌を直してもらおうかな」
 冷ややかな笑い声のまま真由美は聞こえよがしに言い、箪笥の上に置いてある小物入れの蓋を開けると、何かを小物入れからつまみ出して、それを葉月の口に押し当てた。
「素敵なプレゼントでしょう? これをちゅっちゅっして、いい子でママにおむつを取り替えてもらおうね。たった四歳しか離れていないママに」
 真由美がそう言って葉月に咥えさせたのは、ゴムのおしゃぶりだった。
 葉月は真由美の手を払いのけようとするのだが、選択性筋萎縮剤による弱体化のせいで思うにまかせない。
 それでも葉月は盛んに首を振り、強引におしゃぶりを押しつける真由美の手から逃れようとする。
「あら、変ね。小っちゃな子はおしゃぶりが好きな筈なのに、こんなに嫌がるなんて。でも、子供はこれくらい元気な方がいいわよね。女の子も、小っちゃい頃はちょっとお転婆なくらい元気よく動きまわる方が、見ていて可愛いもの。あ、そうだ。こんなに可愛い葉月ちゃんだったら、うちのお店の広報ビデオに出演してもらうのもいいわね。そうね、広報ビデオの制作をお願いしている会社にこれを送って検討してもらいましょう」
 真由美は葉月におしゃぶりを咥えさせる手にますます力を入れ、もう一方の手で、スーツのポケットから取りだしたスマホを操作した。
 と、ドアと反対側の壁に沿って、天井から大きなスクリーンがおりてくる。
 待つほどもなくスクリーンが明るくなって、おしゃぶりを咥えた葉月の顔を正面から撮影した映像が大きく映し出された。
「……!」
 それを見た葉月が驚きの表情を浮かべると、スクリーンに映し出された映像の葉月も同じ表情になる。
 どうやら、予め録画しておいたビデオではなく、今現在の様子を動画で映し出しているようだ。
 更に真由美がスマホを操作すると画面がズームアウトし、それまで葉月の顔の大写しだったのが、次第に上半身が映し出され、遂には、膝にオーバーパンツが引っかかり、サンドレスの裾がおへその上まで捲れ上がってしまっておむつカバーが丸見えになっている幼女そのままの姿で手足をばたつかせる様子の全身像が映し出される。その後も真由美がスマホを操作するたびに、正面からの映像だけでなく、いろいろな角度から撮影した映像が次々に映し出された。
「この部屋は、プレゼンテーションだけじゃなく、子供たちに実際に家具に触れてもらって、たとえば箪笥の引出しを子供たちがどんな具合に引っ張るのか、力まかせに引っ張っても抜け落ちてしまわないか、ポールハンガーの腕木にどれくらいの割合の子供がぶら下がろうとするのか、鏡台を見てどんな表情をするのか、食事用の椅子に座らされて体をベルトで固定された時にどんな反応をみせるのかとかいったことを、今後の家具の改良や新しい家具を考案するための資料として事細かに撮影するための実体験スタジオとしても使う予定になつているの。葉月ちゃんは、記念すべき最初のお客様ということになるわけよ。だから、うふふ、広報ビデオには是非とも出演してもらわなきゃね。もちろん、せっかくの記念だから、本名も年齢も大学名もきちんと字幕で一緒に映るようにして」
 真由美は葉月の顔をじっと見ながらそう言った後、スクリーンの方に向き直り、独り言めいた口調で、しかし葉月に聞かせているのがありありの様子で、こう言った。
「でも、心配が一つだけあるわね。葉月ちゃんがこんなふうにちょっぴりお転婆なくらいベッドの上で元気よくしてくれたら、うちが販売しているベッドはこんなに頑丈なんですよって宣伝になるけど、もしも葉月ちゃんに元気がなくてじっとしているだけだったら、ベッドの頑丈さも伝わらないし、うちの家具に囲まれて葉月ちゃんがどんなに嬉しそうにしているかがちっとも表現できないから、広報ビデオの意味がなくなっちゃうんじゃないしら。そうね、それだけが心配だわ」
 言ってから、再び葉月の顔に視線を戻して意味ありげに微笑みかける真由美。
 やや間があって、ようやく葉月は、真由美の言葉の意味を理解した。
 このまま暴れ続けるようなら、この映像を広報ビデオという名目で公開するわよ。でも、おとなしくおしゃぶりを咥えていい子にするなら、公開しないであげる。
 つまるところ、真由美は葉月にそう告げているのだ。
 赤ちゃんみたいにおしゃぶりを咥えて、私が見ている前でママにおむつを取り替えてもらいなさい。
 暗に、そう強要しているのだ。
 一瞬だけ迷ってから、葉月は弱々しくゴムのおしゃぶりを噛みしめた。
 それを見た真由美がすっと目を細め、
「あら、やっぱり葉月ちゃんもおしゃぶりが大好きだったのね。でも、私からのプレゼントを気に入ってもらえるのは嬉しいけど、これで葉月ちゃんがおとなしくなっちゃったら、せっかくの記念の広報ビデオが撮れなくなっちゃう。あーあ、困ったわ」
と、まるで困った様子もなく呟いてみせて、葉月の口におしゃぶりを押しつけていた手を離した。
「真由美さん、小っちゃな子をあやすのがお上手なんですね。あんなにむずがっていた葉月がこんなにおとなしくなっちゃって」
 葉月がおとなしくなったのを見届けた薫が、真由美に目配せをして、葉月の膝に引っかかったままになっているオーバーパンツを脱がせてから、おむつカバーの腰紐をほどいて股ぐりのスナップボタンを外し、前当てと横羽根を重ね留めているマジックテープを剥がした。
 勿論その様子も、大きなスクリーンに鮮明に映し出されている。
 広報ビデオとしては公開しなくても、この映像は貴重な資料になる。葉月のために今後また新しいおむつカバーを制作することになった場合、タックを施されたペニスがどんな格好で固着されているのか、ペニスの先がどのあたりに位置するのか、おむつと肌との密着具合はどのようになっているのか等、考え得る限りの情報を入手しておくことが、たとえば、なるべく横漏れしにくいおむつカバーのデザインを考える上でも必要になる。薫が葉月のおむつを取り替える様子を様々な角度から克明に撮影しているカメラを真由美が止める筈がなかった。

 葉月はぎゅっと目を閉じた。
 そこへ、なんだか懐かしい感じがする、からころという軽やかな音が聞こえてきた。
 音の正体が気になってうっすら瞼を開けた葉月の目に映ったのは、プラスチック製のガラガラを振る真由美の姿だった。
「はい、これも葉月ちゃんにプレゼントするわね。ほら、いい音がするでしょ?」
 葉月が目を開けたことに気がついた真由美は、もういちどガラガラを振り鳴らしてから、そのプラスチック製の玩具を葉月に握らせた。
 葉月がそれを拒むことはできない。
「小っちゃな子は誰でも音が出る玩具が大好きだもの、葉月ちゃんも喜んでくれるわよね? 葉月ちゃんもガラガラが大好きだよね? だって、ほら、スクリーンに映っている葉月ちゃん、あんなに嬉しそうな顔をしているわよ」
 真由美は、葉月に握らせたガラガラを指でぴんと弾いた。
 限りない羞恥に苛まれる葉月が嬉しそうな顔をするわけがない。それは、嬉しそうにガラガラを振ってみせなさいという真由美からの強要の言葉だ。
 葉月は力なく目を閉じて、ガラガラを握る手を振った。
 からころからころ。からころからころ。
 穏やかな音色が部屋の空気を優しく震わせる。
 そうしている間にも薫がもうすっかり手慣れた様子で葉月のおむつを取り替える。
 ガラガラの軽やかな音とベビーパウダーの甘い香りに満ちたその部屋は、すっかり本当の育児室に変貌していた。

               *

 執務室の一角に設けられた面談コーナー。
 ソファに皐月が腰をおろし、葉月は、ソファの隣に置いた木製の椅子座らされていた。椅子は、隣の育児室/プレゼンテーションルームに置いてある幼児の食事用の椅子をそのまま葉月の体に合わせて大きくした、自宅マンションにあるのと全く同じ物だ。
 この場から逃げ出したくてたまらない葉月だが、腿と腰をベルトで座面に固定されてしまっているものだから、それもかなわない。

「お待たせしました。葉月ちゃんママのために私が選んだスーツがこちらです」
 さっきまで葉月のおむつを取り替えていた隣室で薫の着替えを手伝っていた真由美が先に戻ってきて、やや芝居がかった仕草で薫を執務室に招き入れた。
 どこか気恥ずかしげに頬をうっすらとピンクに染め、真新しいセレモニースーツに身を包んだ薫は、いつものジャージやジーパン姿にはない気品と、初々しい色香をまとっていた。
「ママ、きれい」
 精神的な強共鳴のためだろう、薫の胸を満たす喜びが直接伝わってくるように感じられて、これまでの羞恥と屈辱を忘れてしまったかのように、思わず葉月は感嘆の声をあげた。




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