偽りの幼稚園児





               【三二】

「ありがとう、葉月。――で、パパの感想は?」
 薫は満面の笑顔で葉月の頭を撫でてから、可愛らしく小首をかしげて皐月の顔を見つめた。
「うん、いいよ。とっても似合ってる。さすが、真由美さんの見たてだね」
 皐月は鷹揚に頷き、無難な言葉で応じた。
 だが、そんな落ち着き払った反応とは裏腹に、皐月は内心ひどく困惑していた。
 着替えを終えて執務室に戻ってきた薫を見た瞬間は、品のいいスーツだなというくらいの印象を覚えただけだった。一見しただけでは特に変わったところのない、よくある、ジャケットとワンピースを組み合わせたセレモニースーツにすぎない。しかし、着心地を確かめるために薫が様々に姿勢を変えてみても、まるで窮屈な様子はなく、かといって、だらしなく間延びした様子もまるで見受けられない。なんだか、自分の皮膚みたいに薫の動きそのままスーツが自在に伸縮しているような印象さえ受けて、服飾関係のことにはまるで興味のない皐月にも、それが、一流の職人が高級な生地を使いたっぷり時間をかけて丁寧に仕立て上げたスーツだということがわかってくる。しかもそれがフルオーダーメイドではなく、どこでどうやったか見当もつかないが、仕立て上がりのものを真由美が探し出してきたというのだから、驚きを禁じ得ない。
 いや、しかし、皐月が困惑しているのは、その点に関してではない。薫にじっと見つめられて、ときめきめいた感覚を抱いてしまう自分自身に、皐月は困惑しているのだった。
 薫のはスーツ姿は、これまでにも何度か目にしたことはある。最初は、就職活動で薫が初めてひばり幼稚園を訪れた時。そして直近では、四月に行われた入園式の時だ。だが、いずれの時も、薫が着ていたのは紺のビジネススーツと純白のブラウスだった。それが、今のように、ピンクベージュのジャケットとワンピースを組み合わせたセレモニースーツを着て決して派手ではないものの華やかなコーディネイトのコサージュを胸にあしらい、見る角度によって微妙に色を変える大粒の真珠を惜しげもなく連ねたネックレスを着けた上に、おそらく真由美に手によるものだろう、いかにも上品な家庭の若奥様然としたメークを施して可愛らしく小首をかしげた薫にじっと見つめられると、なぜとはなしにとくんと胸が高鳴り、目眩にも似たときめきを覚えてしまう。
 そんな胸の内を隠すために、皐月は無難な言葉を選んだのだった。

「よかったですね、奥様。ご主人もお褒めになっておられますよ」
 冗談めかした口調で言って、真由美が薫に微笑みかける。
「そ、そんな、ご主人だなんて……」
 真由美から言われた思いがけない言葉に薫は狼狽えつつも、満更でもなさそうに頬を赤く染める。。
「や、やだな、真由美さん。お、奥様と、ご、ご主人だなんて、からかわないでくださいよ、んとに……」
 薫の頬が赤く染まるのを見て、皐月の方も、落ち着き払った様子が消し飛んでしまう。
 そんな二人の様子を見る真由美の顔には、なんともいえぬ、温かな笑みが浮かんでいた。

               *

 お披露目を兼ねた試着を終え元のブラウス姿に戻った薫が、皐月の隣に腰をおろした。
 それを待って、何人かいる女性事務員の中の、事務所を訪れた際に迎え入れてくれた若い事務員が飲み物をトレイに載せて運んでくる。
 事務員は皐月と薫の前に同じ柄のコーヒーのカップを並べ、二人と相対して座っている真由美の前には別の柄のコーヒーカップを置いてから、最後に、葉月が座らされている幼児用の椅子に作り付けになっている小さなテーブルに、オレンジジュースのマグカップを置いた。持ちやすいように左右に取っ手が付いているのは自宅マンションにある幼児用のコップと同じだが、こちらは、ストローで飲むようになっている、少しだけ年上の幼児が使うマグカップだった。
「明日から幼稚園のお姉ちゃんだから、このマグで上手に飲めるかな、葉月ちゃん。それとも、哺乳瓶の方が飲みやすいかな。もしもそうなら、遠慮しないで言ってね。すぐに哺乳瓶に入れ替えてきてあげるから」
 作り付けのテーブルに幼児用マグを置きながら事務員は葉月に尋ねた。
 鈴本服飾商店の職員は一人残らず葉月の正体を知っているに違いない。事務員の好奇の目が自分に向けられているのだと思うとたまらない。
 しかし、体をベルトで椅子に固定されてしまっている葉月には、弱々しく首を横に振ることしかできない。
 だが、葉月が哺乳瓶を拒んでも、事務員は執拗だった。
「本当に大丈夫? だって葉月ちゃん、事務所に入ってきた時はサンドレスの下にオーバーパンツでちょっぴりお姉ちゃんらしかったけど、今はおむつカバーが丸見えで、なんだか、赤ちゃんみたいじゃない? そんな子が、ちゃんとマグでのめるかしら? お姉さん、心配になっちゃうんだけどな」
と繰り返し訊いてくる。
 事務員の言葉に葉月の顔がかっと熱くなる。
 確かに、今、葉月はオーバーパンツを穿かずにおむつカバーが丸見えの格好で幼児用の椅子に座らされている。隣室でおむつを取り替えられ、おむつカバーの上に再びオーバーパンツを穿かされそうになった時、今にも泣き出さんばかりにして薫に訴えかけ、何度も懇願して、やっとのこと、おおつカバーの上へのオーバーパンツの重ね穿きを免じてもらったのだ。外出前にはオーバーパンツを穿かせてくれるよう自分からせがんだ葉月が、一転、オーバーパンツを拒んだのは、薫の魂胆に思い至ったからだった。このまま再びオーバーパンツを穿かされたら、やはりまたサンドレスの裾が捲れ上がりやすくなったり、おむつの中が汗で蒸れて、それを口実に誰の目の前でおむつを取り替えられたりする羽目になるか知れたものではない。そんなことにならないよう、葉月は薫に「葉月、もうオーバーパンツ、いらないの。葉月、暑いの、いやなの。おむつが汗で濡れておむつかぶれになるの、葉月、いやなの」と何度も何度も屈辱の懇願を繰り返したのだった。それに対して薫は「でも、途中でやっぱりいやだなんて言わないって葉月はママと約束したわよね」といって、葉月の懇願に取り合おうとはしなかった。それを、皐月の仲裁もあって、「じゃ、これで最後よ。もうこれきり、今度はいくらオーバーパンツを穿かせてほしいって言っても、絶対に穿かせてあげないわよ。それでいいのね」と念押しする薫と指切りして、ようやく、願いを聞き入れてもらえたのだが、その結果、事務員が言う通り、転落防止用のベルトが付いた椅子に、幼女どころか赤ん坊めいた格好で座らされているのだった。
「葉月、赤ちゃんじゃないもん」
 葉月は力なく言って、口を「へ」の字に曲げた。
 そんな葉月に事務員は
「やだ、かっわい〜い。葉月ちゃんてば、拗ねた顔もなんて可愛いのかしら。お姉さん、きゅんきゅんしちゃう」
と、黄色い嬌声をあげた。
 それを、
「なんですか、お客様の前で騒ぐなんて失礼にも程がありますよ。全く、いつまでも学生気分が抜けないんだから。もうそのくらいにして自分の仕事に戻りなさい。だいいち、あなただってこの春に高校を出たばかりだから、本当なら大学一年生の葉月ちゃんとは同い年でしょう? それなのに、何をお姉さんぶっているんですか」
と、真由美がたしなめる。
「でも、オーナー、ついついお姉さんぶっちゃうのも仕方ないと思いませんか? だって、葉月ちゃん、こんなに可愛いんですよ。可愛いだけじゃなくて、私が面倒みてあげなきゃってついつい思っちゃうんです、葉月ちゃんを近くで見ていると。こんな葉月ちゃんが私と同い年だなんてとても信じられなくて、それで、それを確かめたくなって、余計に構っちゃうんです」
 事務員は葉月の側から離れるのが心底残念そうに言ったが、真由美に睨みつけられると、ようやくのこと腰を伸ばして
「お客様の前で大変失礼いたしました。お詫び申し上げます。また、お客様の大切なお嬢様である葉月ちゃんのことを勝手に構ってしまいましたこと、重ねてお詫びいたします。では、私は本来の仕事に戻りますが、何かご用がございましたら、遠慮なさらず、なんなりとお申しつけください」
と、皐月と薫に向かって恭しくお辞儀をしてから、踵を返すのだった。
「よかったわね、葉月ちゃん。四つしか年の離れていないママにおむつを取り替えてもらった後は、同い年のお姉さんにあやしてもらって。次はどんな楽しいことが待っているかしらね」
 事務員の後ろ姿を見送りながら、おかしそうに真由美が葉月に声をかける。
 葉月は何も応えず、口を「へ」の字に曲げたまま、おどおどした様子で顔をそむけた。
「今からパパとママと私でちょっと難しいお話をしなきゃいけないから、退屈でしょうけど、いい子でジュースを飲みながら待っていてね。なくなったらすぐにお代わりを持って来てもらうから遠慮しないで、好きなだけ飲んでいいのよ。でも、飲み過ぎると、今度はおもらしでおむつを取り替えてもらわなきゃいけなくなるから気をつけましょうね」
 真由美はもういちど葉月にからかうように言ってから、おもむろに二人の方に向き直り、飲み物と一緒に事務員が持って来ていた書類を皐月の目の前に置いた。
「こちらが納品明細書になります。上のこの欄が、奥様のために用意したスーツ一式の明細です。コサージュは日頃ご贔屓いただいているお礼として、代金は頂戴いたしません。また、真珠のネックレスについては、当方から園長先生に連絡しましたところ、スーツと同様、プロジェクトに関する経費として園でご負担ただけるとのことです。この内容よろしいでしょうか?」
 書類を前にした真由美は、鈴本服飾商店の若き店主としての顔に戻り、如才なく書類の説明を始めた。
 だが、それに対して皐月が、いつもの皐月らしからぬ少し困ったような口調で
「あの、さきほども言いましたように、奥様とかご主人とか、そういうのは、ちょっと勘弁してもらえないでしょうか」
と、どこか照れくさそうに言う。
「でも、お二人は葉月ちゃんのパパと葉月ちゃんのママです、となると、互いの関係はご主人と奥様になりますよね? それに、かねてから相談いただいている件を考え合わると、これほどふさわしい呼び方はないと思いますけど?」
「いえ、理屈ではそうかもしれません。そうかもしれませんけど、そう直接的に言われると、気持ちの持ちようが、その……」
「では、奥様に確かめてみましょうか。奥様は、こういう呼び方はいやですか?」
 皐月の狼狽えぶりがおかしいのか、くすくす笑いながら、真由美は薫に訊いた。
「いえ、私はちっとも気になりません。むしろ、そういうふうに呼んでもらえて嬉しいです。ただ――」
 薫は、隣に座る皐月の横顔をちらと見て続けた。
「――主人が、そう呼ばれることに躊躇いがあるのなら、無理強いはできません。全て主人次第だと思います」
 それは、いささか古風とも思える貞淑な人妻そのままの言葉だった。
 それを聞いた皐月は指先で頬をぽりっと掻き、照れくさそうに、けれど満更でもなさそうに言った。
「あ、あの、真由美さん。ええと、田坂先生に、いや、ママに、ああ、ちがう、……つ、妻に異存がないなら、私としても、それで結構です」
 皐月が迷いながらも口にした『妻』という言葉を耳にした途端、薫は緊張した顔つきになったが、じきに表情が緩み、傍目にもそれとわかるほど、みるみる瞳が潤んでゆく。
「では、お二人の了承をいただいたということで、これからはそのようにお呼びします。よろしいですね?」
 真由美が重ねて訊くと、皐月は面映ゆそうな顔で、そして薫は、瞳を涙で濡らしながらも晴れ晴れした笑顔で頷いた。
 その瞬間、葉月は胸をきゅんと締めつけられるような切ない感覚をおぼえた。そうして、なんだかわからないけれど何か温かいものが胸の中を満たしてゆく感覚。
 突然わき起こる感覚に戸惑う葉月。
 その時、自分では気づいていないが、葉月の大きな目にも涙が溢れていた。
 それまで真由美と話していた薫が、はっとした様子で首を巡らせ、葉月の顔を見る。
 その直後、薫はソファから立ち上がり、葉月のもとへ歩み寄ると、幼児用のマグを机に移して作り付けのテーブルを撥ね上げ、葉月の体を抱き寄せた。
 幼児用の椅子に座らされている葉月の顔と薫の胸が同じ高さにあって、葉月は薫の胸元に顔を埋めるような格好になってしまう。




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