偽りの幼稚園児





               【三三】

「優しいのね、葉月は。パパとママがこれまでよりもずっと仲良くなれて、それでママはとっても嬉しいのよ。そんなママの気持ちがわかって、それでママと一緒に涙を流して喜んでくれるなんて、本当に優しい子なんだから、私の葉月は」
 薫は葉月の顔を自分の豊満な胸元に抱いたまま、涙声で話しかけた。
 薫の目から溢れ出た涙の雫が葉月が着ているサンドレスのホルターネックの結び目を濡らす。
 と、その時になって葉月は、自分の瞳も涙で潤んでいることにようやく気づいた。
 気づいた葉月の目から流れ出た涙が薫のブラウスの胸元に滴り落ちる。
 葉月は、自分の胸の中に突然わき起こった感覚の正体が何なのか、なんとなくわかったような気がした。
 おそらくそれは、薫の胸を満たし、薫の胸だけでは受け入れきれずに葉月の胸に流れ込んできた、薫の喜びなのだろう。
「ママ、よかったね。ママとパパ、これまでも仲良しだったけど、それよりもずっとずっと仲良しになるんだね。よかったね、ママ。大好きなママが嬉しいから、葉月もとっても嬉しいの。ママ、大好き。パパと仲良しのママのこと、葉月、大好きだよ」
 葉月は薫の背中に両手をまわし、ぎゅっとしがみついた。
 葉月がそんな行動を取るのには、自分の胸に流れ込んできた薫の感情のうねりに抗いきれずにという理由もあるが、それに加え、真由美や事務員に冷笑され、小馬鹿にされた反動という理由があるのも否定できない。十八歳の男の子のくせに小っちゃな女子みたいにとか、四つしか年の離れていないママにおむつをとか、同い年のお姉さんにあやしてもらってとかいって揶揄され、何度も屈辱を味わった後に抱かれた(かりそめのごっこではあっても)母親の胸のあたたかさ。
 それに触れた葉月の心がこれまでにも増して薫の虜になってしまっても不思議はない。
 そんな二人の姿は、血のつながった親子、それも、互いが互いに依存しあう、いわゆる『一卵性母娘』そのままだ。

「奥様はしばらくこちらへは戻ってこないでしょうから、続きはご主人と私だけで進めてしまいましょうか」
 ひしと抱き合う薫と葉月の姿をしばらく見守ってから、穏やかな声で真由美が皐月に告げた。
「え、ええ、そうですね。確かに、その方がよさそうですね」
 照れくさそうな表情のまま皐月が軽く頷く。
「こちらの下の欄が、葉月お嬢ちゃまの育児に必要ということでご注文いただいた物の明細です。この内、左の欄に記載されているのは、制服やスモック等と共に前もってオーダーを頂戴していた物で、本当なら制服やスモックをお持ちした際に一緒に配達できればよかったのですが、なにせ品数が多かったもので、今日のお渡しになってしまいました。その点、ご容赦ください。それと、右の欄が、昨日お電話で追加注文をいただいた物の明細です。知り合いのベビー用品店と協同仕入れをしている品物ばかりなので、お値段はかなりお安くできました。内容はこういったところで間違いないでしょうか?」
書類のあちらこちらをペン先で示しながらの説明を終えて真由美は皐月に確認を求めた。
 だが、皐月は少し困ったような表情で薫と葉月の方をちらち見ながら
「はい、たぶん大丈夫だと思います。企画立案は私が担当しているのですが、こういった細々した実務は妻に任せきりで、どうもわからない部分がありまして。しかし、真由美さんのことだから、間違いないでしょう。そういうことでお願いできますか」
と、普段の皐月からは想像もつかぬほど曖昧に(けれど今度は『妻』と呼ぶことについてはいささかの躊躇いもなく)応じて、頭を掻くばかりだった。
「承知しました。では、こちらの受領書にサインをお願いします。それと、お渡しする品数が多いものですから、かなりの荷物になってしまいます。車へは当方のスタッフが積んでおきますので、これからまだモールのどこかへお出かけになるようでしたら、車のキーを預かってもよろしいでしょうか?」
 真由美は別の書類を皐月の目の前に押しやった。
「ああ、車まで荷物を運んでもらえるのは助かります。この後、明日から葉月の幼稚園ですから、そのお祝いにケーキでも食べてから帰ろうかと妻と相談していたところなんです。では、キーをお渡ししますので、よしくお願いします」
 皐月は受領書にサインをし、車のキーを真由美に手渡した。
「では、確かに。お手数ですが、お帰りの際、キーをお返しいたしますので、もういちどこちらへおいでください。――入園のお祝いのケーキですか。葉月お嬢ちゃま、大喜びでしょうね」
 皐月の言葉に真由美は顔をほころばせたが、すぐに真顔に戻り、
「お祝いという言葉が出たので、それに類することで念のために伺いますが、かねてからご相談いただいている件は、このまま進めていいのですよね? さきほどのお二人の様子と葉月お嬢ちゃまのことを考え合わせても、是非ともそうした方がいいと私は思いますが」
と、皐月の顔を正面から見て言った。
 それに対して皐月は、まだ抱き合っている薫と葉月をじっと見つめながら
「そうですね。『妻』と呼ばれた時にあんなに嬉しそうな顔をする田坂先生を見たら、そして、そんな田坂先生のことを自分のことのように喜ぶ葉月を見たら、中断なんてできませんよね。細かいことは後々打合せをするとして、例の件、早めに進めてください」
と、こちらも真剣な面持ちで答えた。
「わかりました。私の人脈を最大限に活用して、最高のスタッフを集めます。安心して任せてください。――園長先生へは私から連絡しておきましょうか?」
 破顔一笑、真由美は明るい声で言った。
「じゃ、お言葉に甘えて、園長先生への連絡は真由美さんにお願いします。どうも、自分の口から報告するのは気恥ずかしくて」
 そう言って皐月は、もういちど頭を掻いた。

               *

 それからしばらく後、三階に昇るエスカレーターに三人の姿があった。
 葉月は、モールを訪れた本来の目的を果たした後は一刻も早く自宅マンションへ帰りたいとせがんだのだが、三階に出店している洋菓子店直営のカフェに寄ってみようという皐月と薫に押し切られ強引にエスカレーターに乗せられてしまったのだ。ただ、エスカレーターに乗る際に、薫と葉月が先に乗って、丈の短いサンドレスの裾からおむつカバーが見えてしまうのを防ぐため皐月が葉月の真後ろに立つという条件を取りつけることができただけでも幸いか。

「ママ、カフェへ行く前にトイレへ寄るから、葉月も一緒に行っとこうね」
 三階でエスカレーターをおりた薫が、そのまま葉月の手を引いてトイレへ向かおうとする。
 だが葉月が
「やだ。葉月、トイレ行かない」
と言ってその場で足を踏ん張る。
「だって、朝お家で朝ご飯の前にトイレへ行ったきりでしょ? もうそろそろじゃないの?」
 薫が少し困ったように言う。
「だって、だって……お、女の子のトイレなんでしょ? だから、葉月、トイレ行かない」
 周りの買物客たちに聞かれないよう声をひそめ、頬をうっすら赤く染めて葉月は言った。
「なんだ、そういうことだったの。でも、それだったら大丈夫よ。だって、どこからどう見ても、葉月は可愛らしい女の子。高校生のお姉さんたちから妹にしたいって言ってもらえるくらい可愛くて小っちゃな女の子。そんな子が女の子のトイレにママと一緒に入っても、誰もちっとも変に思わないわよ」
 薫は、空いている方の手で葉月の髪を優しく撫でつけた。
「でも、でも……葉月、おむつだもん。トイレでおしっこする時、おむつを外すのは立ったままできても、おしっこが終わって、もういちどおむつをあてるの、ベッドにごろんしなきゃいけないんでしょ? トイレのベッドって、赤ちゃんのおむつを取り替える台しかないでしょ? そんなの、や。みんなに見られて、赤ちゃんのおむつの台にごろんして、それでおむつなんて、葉月、やだもん!」
 周りに注意を払い声をひそめていた葉月だが、女性用トイレにしつらえてある簡易ベッドに横たわり、おむつを取り替えられるところを買物客の好奇の目にさらす自分の姿を想像して、ついつい金切り声をあげてしまう。
 不意に聞こえた『おむつ』という言葉に、周囲を行き交う人々が不思議そうな顔をして、声の主である葉月の下半身をちらちら見ながら歩み去る。
 葉月は慌てて自分の掌で自分の口を押さえた。その仕草は、自分の秘密をつい口にしてしまって慌てふためく幼女そのままだ。
「じゃ、お年寄りとか車椅子の人とかが使うトイレへ行こうか。あそこなら、誰にもみられないでおむつをあててあげられるわよ」
 薫は、掌で葉月の頬を包むようにして言った。
「だけど、お年寄りの人とか車椅子の人とかが入っても変じゃないけど、ママとか葉月みたいな普通に動ける人が入ったら周りの人に変に思われちゃうよ? 変に思われて、葉月がおむつなの、わかっちゃうかもしれないよ? それに、そんなトイレ、あぶないことがないように見張るカメラとか付いてるんじゃないの? カメラでお店の人に見られるの、葉月、やだもん」
「でも、本当に大丈夫?」
 薫はさも心配そうに葉月の頬を撫でる。
「まだ大丈夫だもん。葉月、おしっこ我慢できるもん。だから、ママだけトイレ行ってきて」
「そう? だったら、仕方ないわね。おしっこしたくなったら、すぐにパパかママに教えるのよ。葉月、おしっこしたくなったらあまり我慢できないんだから、すぐに教えるのよ」
 薫は繰り返し言い聞かせ、皐月の顔を見上げ、
「せっかく真由美さんにしてもらったメークも直したいから、ちょっと時間がかかると思うの。だから、葉月を連れて先に行っていて」
と、気遣わしげな様子で言った。
「うん、わかった。だったら、本屋さんに寄って、注文しておいた専門書がいつごろ入るか確認してから、先にカフェへ行ってるよ。――じゃ、行こうか、葉月」」
 穏やかな笑顔で皐月は応じ、薫と代わって葉月の手を握って歩き出した。
 トイレへ向かう薫の後ろ姿を横目で追いつつ皐月に手を引かれて歩き出した葉月だったが、不意に、得体の知れない不安をおぼえてその場に立ち止まってしまう。
「どうしたんだい?」
 急に立ち止まった葉月の顔を見おろして訊く皐月に、葉月はおどおどした様子で
「ママ、トイレが済んだら来てくれる? 葉月がパパと一緒に先に行っちゃっても、ママ、ちゃんと来てくれる?」
と、顔に不安の色をありありと浮かべ、弱々しく訊き返した。
「本当に、どうしたんだい、急にそんなこと言い出して。ママが可愛い葉月を残してどこかに行っちゃうわけないよ。だから、さ、行くよ。こんな所でぐずぐずしてちゃ他の人の迷惑になっちゃう」
 皐月は苦笑交じりに言って葉月の手を引いた。
「う、うん……」
 今にも泣き出しそうになりながら、力ない足取りで歩き出す葉月。

               *

 エスカレーターをはさんで、トイレとは反対側にある大型書店。
「じゃ、パパは店員さんと話してくるから、ここでおとなしく待っているんだよ」
 皐月は葉月を児童書のコーナーに連れて行き、そう言い残して、教育関係の専門書のコーナーへ姿を消した。
 皐月が戻ってくるまでの時間潰しのつもりで本の背表紙を眺めながら書棚の間を歩いていると、児童書コーナーの少し奥まった所に、最近ではどの書店でもそうしているように、じっくり時間をかけて本を選ぶための椅子を置いた一角があって、幼児に本を読み書かせている親子が何組かいたのだが、その内の一組の母娘に葉月の目が釘付けになった。




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