偽りの幼稚園児





               【三四】

 母親は三十代の前半といったところだろうか。夏はどうしても薄着になるため、体型を隠そうとしてゆったりしたサイズの服を選びがちで、却ってそれが野暮ったい印象になってしまうことが多いのだが、その母親は、肩とウェストが体にぴったりで他の部分を柔らかなラインに仕立てたワンピースに、貝殻を模した銀のペンダントを身に着けて、巧みに体型を隠しつつ、爽やかですっきりした印象を際立たせた、みるからに上品そうな、いわゆる若奥様然とした女性だった。その母親と並んで椅子に座って児童書を読み聞かせてもらっている子供の方は、保育園か幼稚園の年中さんとか年長さんといった感じの、顎が小さくて目がくりくりした、愛くるしくてちょっぴりおしゃまな女の子だった。
 葉月の目を惹いたのは、その女の子の可愛らしさもあるけれど、それよりも、その女の子が身に着けている物の方だった。
 先ず、女の子が着ているサンドレスが、葉月の着ているサンドレスとよく似ていた。ストラップが葉月の方はホルターネックで、女の子の方は、肩紐を左右それぞれの肩の上でリボンみたいに結ぶようになっているといった違いはあるが、色合いはまるで同じだし、おそらく、光沢や皺のより方からみて、使っている生地も同じものだと思われた。それに、甲が幅の広いベルトになっているサンダル。ベルトに付いている飾りキャラの表情が異なっているものの、その他はまるで同じだった。加えて、肩よりも少し上の長さの髪をツインテールに結わえているキャラゴムは、二人ともまるで同じ向日葵の飾りだった。

 自分とまるで同じ格好をした女の子がいることに最初は驚いただけの葉月だったが、しばらくすると、自分が、まだ満足に本も読めないような幼い女の子と同じ格好をしているのだということが改めて思い起こされ、限りない羞恥の念をおぼえる。
 と同時に、羞恥とは別の感情がじわりと湧上がってくるのを葉月は感じた。
 それは、羨望だった。
 自分とそっくり同じ格好をした女の子が、母親と仲睦まじそうに椅子に座って体を寄せ合い、本を読んでもらっている光景を目にして、葉月は、遠い記憶を探った。かつて自分も母親にそんなふうにしてもらったことがあったのだろうか。お願いだから、一度だけでいいから、そんな思い出があってほしい。願いながら記憶を探る葉月だったが、結果は虚しかった。ご飯を食べさせてくれたのも、お風呂に入れてくれたのも、そして本を読み聞かせてくれたのも、全て姉である皐月だった。
 どうして自分はこんなふうにしてもらえなかったんだろう。
 葉月は目の前の女の子に羨望を覚えた。
 羨望のみならず、それに倍する妬み嫉妬さえ。

「あ、美鈴と同じドレス着たお姉さんがいるよ、ママ!」
 葉月の存在に気づいた女の子が母親にそう言ってこちらを指差すのと、、小さな女の子を相手に羨望と嫉妬と妬みを覚える自分自身に嫌悪を抱いて葉月が踵を返そうとしたのが、ほぼ同時だった。
「あら……!?」
 娘の声に何事かと本から目を離し、指差す方を見た母親は、そこに立っている葉月の姿を見て驚きの表情を浮かべた、
 驚きとは言っても驚愕ではなく、それは、思いがけない知人と思いがけない場所で出会った時のような、どこか親愛の情が混ざった驚きの表情だった。
「あ、あの、せっかく本を読んであげていたのに、おじゃましてすみませんでした。わ、わたしはすぐいなくなるから、また本を読んであげてください」
 驚きや親しみや好奇や喜びやと、様々な感情が混ざり合った母親の視線を痛いほど感じながら、幼児言葉でもなく成人男性の話し方でもない、なるべく性別や年齢といったものを感じさせないよう葉月は言い、ぺこりと頭を下げて、そそくさと元いた場所に戻りかけた。
 そこへ、
「あなたも鈴本服飾商店のお洋服が好きなのね?」
と、椅子から立ち上がりながら言う母親の穏やかな声が届く。
「え……!?」
 思いがけない場面で耳にした鈴本服飾商店の名に驚いて、葉月は思わず足を止め、おずおずと母親の方に向き直った。
「そのサンドレス、鈴本さんのお店で作ってもらったんでしょう? 娘が着ているサンドレスがそうだから、すぐにわかったわ。うちの娘、年の割に自己主張が強くて、お友達と一緒のお洋服はいやだってぐずるものだから、ついつい鈴本さんのお店で作ってもらうのが常になっちゃってね。それに、そのサンダルも鈴本さんのお店と提携しているメーカーのだし、髪の毛のゴムも、鈴本さんのお店の雑貨コーナーで売っているものだもの」
 娘の洋服を誂え注文している店の客が、それもとびきりの美少女が不意に目の前に現れたことに、驚きと同時に親しみを覚えたのだろう、母親は満面の笑みだ。
「ごめんなさい、急に話しかけちゃって。びっくりしたでしょう? あのね、鈴本服飾商店は私の一番のお気に入りでね、幅の広い年齢層のお客さんに合わせた洋服や小物を取り扱っていて重宝している上に、お店のオーナーさんがデザイナーも兼ねていて、どんな無理なお願いをしても気持ちよく聞いてくれて、すごく素敵なお洋服を作ってくれるの。そんな鈴本さんのお店で誂え注文したサンドレスを着た可愛い女の子と出会ったものだから、つい嬉しくなって不躾に話しかけたちゃったの。本当にごめんなさいね、驚かせちゃって」
「……いえ、こちらこそおじゃましちゃって、あの、でも、これ、自分で選んだものじゃなくて……」
 突然の出来事に、どう答えていいのか咄嗟には判断できず、葉月は言葉を濁した。
「あ、そうか。うちは物心ついた頃から娘が自分で選んでいたから、ついつい、よそ様も同じように考えちゃったけど、でも、そうよね、お母様が選んでくださっているんだったら、あなたはお店のことなんて知らないかもしれないわよね。なのに、私ったら一方的に決めつけちゃって」
 母親は少しバツがわるそうに言った。
 そこへ、美鈴が横合いから割って入る。
「ずるいよ、ママばっかりお姉さんとお話しして。ね、ね、お姉さん、お名前はなんていうの? 私は美鈴、上山美鈴っていうの。同じお洋服どうし、仲良くしてね」
 まるで物怖じしない性格なのだろう、初対面の葉月に明るい笑顔で美鈴は話しかけた。
「……私は、葉月」
 少し迷ってから、葉月は下の名前だけ短く告げた。
「じゃ、葉月お姉さんだね。葉月お姉さんは小学生なの? 小学生だったら、どこの小学校? 美鈴、お隣のお家の小学生のお姉さんと仲良しなんだけど、葉月お姉さんとお隣のお姉さん、ひょっとしたら、お友達かもしれないね」
 屈託のない笑顔のまま美鈴は続け、
「美鈴はね、幼稚園なの。ひばり幼稚園の年長さんで、『はと組』なんだよ」
『年長さん』というところで、ちょっぴり胸を張ってみせた。
 美鈴が口にした幼稚園の名称に、葉月は言葉を失った。
 葉月の顔から、みるみるうちに血の気が退いてゆく。
「どうしたの、あなた、ええと、葉月ちゃん。大丈夫? どこか具合がわるいの?」
 顔色を失い、こわばった表情を浮かべる葉月に、母親が心配そうに声をかける。
 それに対して葉月は無言で弱々しくかぶりを振り、一瞬だけ躊躇った後、きびすを返して、たっと走り出してしまう。
「あ、ちょっと……」
 母親は慌てて呼び止めるが、葉月は一目散に駆け出していた。
 その勢いにサンドレスの裾が風にをふくんで、ふわりと舞い上がる。
「行っちゃったね、葉月お姉さん。でも、葉月お姉さん、着ている物もサンダルも髪の毛のゴムもみんな美鈴と一緒なのに、パンツだけ美鈴と一緒じゃなかったね。なんでだろ?」
 葉月のサンドレスの裾から一瞬だけあらわになった下着を見逃さなかった美鈴は、自分のサンドレスの裾を無邪気に捲り上げ、キャンデー柄の女児用ショーツを母親に見せながら、きょとんとした顔で不思議そうに言った。
「そうね、美鈴のパンツは白色だけど、お姉さんのはレモン色だったわね。パンツだけ違うなんて、面白いわね」
 育児の只中にある母親には、サンドレスの裾から見えた、普通のパンツとは明らかに違う生地でできたその下着が何なのか、およその察しがついていた。そして、そう思って目を凝らせば、サンドレスのお尻が妙に丸く膨らんでいることも見てとれる。駆け去る葉月の後ろ姿を好奇の目で見送る母親だったが、美鈴に対しては、さりげないふうを装って相槌を打った。
(葉月ちゃん、か。最近になって何度か聞いた名前みたいな気がするんだけど、いつ、どこで聞いたんだっけ。思い出せそうなのに、なかなか思い出せないなんて、なんだか悔しいな。それにしても、可愛い子だったわね。最後はなんだか変な別れ方になっちゃったけど、また会えるといいな。また会って、お洋服の話をいろいろしたいな)
 母親は顎先に手の指を押し当て、葉月が走り去った方をじっと見ながら心の中で呟き、いかにも興味深げにこんなふうに、やはり心の中で続けて呟いた。
(それに、小学生くらいに見えるのに、まだおむつ離れできない理由もちょっぴり気になるしね)

 専門書コーナーで店員と話し込んでいた皐月にも、レジの前を横切って書店の外へ走り出て行く葉月の姿が見えていた。
 しかし、敢えて追いかけないでいる。
 葉月が向かったのは、薫がいる筈のトイレだろう。そこで薫に会えればいいし、もしも会えなかったとしても、それはそれで都合がいい。
 皐月は葉月の後ろ姿をちらと見ただけで、すぐに、店員の方に向き直った。

               *

 皐月の予想通り、葉月が向かった先は、薫がいるであろう女性用トイレだった。
 最初はトイレの入り口を躊躇いがちに覗き込むだけだった葉月だが、しばらくすると、落ち着かない様子で周囲を気にしながらトイレに足を踏み入れ、幾つも並んでいる洗面台を順に見てまわった。
 だが、どこにも薫の姿はなかった。
 それでも諦めきれずに入り口付近で所在なげに佇んでいたのだが、こちらに近づいてくる警備員の姿に気がつき、変に不審がられるのを避けるために移動せざるを得なくなってしまう。
 しかし美鈴たちがいる書店に戻るわけにもゆかず、皐月と薫が言っていたカフェへ向かおうとしたものの、葉月自身はマンションに帰ることしか考えてなかったため店の名前もおぼえておらず、何か手がかりがないかと館内案内板を隅から隅まで眺め回したのだが得る物もなく、途方にくれてしまう。
 葉月は、無性に悲しくなってきた。
 少しでも乱暴な足取りで歩けば裾が捲れ上がってしまうような丈の短いサンドレスを着て。
 向日葵の飾りが付いたキャラゴムで髪をツインテールに結わえて。
 甲のベルトにアニメキャラの飾りが付いたサンダルを履いて。
 サンドレスの裾が風に舞うたびにレモン色のおむつカバーを見え隠れさせて。
 葉月は、なんだか自分が、大勢の買物客の中にひとりぼっちで取り残されてしまった幼い子供になったような気がしてきた。
 それも、誰かに助けを求めるのも躊躇ってしまうような、気弱で内気な、小っちゃな女の子。
 自分で自分の着る物を選ぶこともできず、下着も洋服も、母親に言われるまま、母親が用意したものを母親の手で着けさせてもらう、手のかかる幼い女児。
 明日から幼稚園だというのに、トイレに間に合わないからとオマルにまたがっておしっこをさせられる困った童女。
 浴室で父親に後ろから抱っこしてもらっておしっこをさせてもらったことを母親に嬉しそうに話す年端も行かぬ幼女。
 昼寝の間も夜のおねむの間も何度も何度もおむつを汚してしまう、赤ちゃんみたいな女の子。
 十八歳の男子大学生が幼い女の子のふりをしているのではない。
 大学生のお兄ちゃんの真似っこを懸命にしている、自分では何もできない小っちゃな女の子。
 それが本当の自分だ。
 なんだか、そんな気がしてきてならない。




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