偽りの幼稚園児





               【三五】

 不意に、頬が冷たくなる。
 え?と思って掌で拭ってみると、濡れていた。
 その時になって初めて葉月は、自分が涙を流していることに気がついた。
 自分の涙に気づいて、ますます悲しくなってくる。
 ひ……ひっ……ひっ、ひっく……ひっく、ひっく。
 いつしか葉月は、しゃくり上げるようにして泣き始めてしまう。
 しゃくり上げながら、葉月は、誰かが自分をここからどこかへ連れて行ってくれるのを待った。
 誰かにどこかへ連れて行ってもらいたかった。
 これからどこへ行けばいいのか。これから何をすればいいのか。もう葉月には、何もわからなくなっていた。
 だから、誰でもいいから、とにかく誰かに手を引いてもらってどこかへ連れて行ってもらって、何をすればいいのかを教えてもらいたかった。
 もう、自分が誰なのかを考えることさえ億劫になってしまっていた。

 そこへ、かまびすしい若い女性の声が聞こえてきた。
「ね、あの子って、ここへ来たときに前を歩いてた子じゃない?」
「あ、ほんとだ。お姉さんか従姉かと一緒に三人でいた子だ。なんだか泣いてるみたいだけど、どうしちっゃたのかな」
 そう話しながら近づいてくるのは、葉月たち三人がモールの通路を歩いていた時に後ろにいた二人組の女子高生だった。
「どうしたの、こんな所で泣いたりしちゃって」
 一方の女の子が、葉月の目の前に立って、優しく訊いた。
 館内案内板の前で所在なげに立ちすくみ悲しそうにしている状況となれば、まず迷子と判断して間違いない。けれど、当の本人に『迷子』という言葉を聞かせるのは心理的な負担を増やすことになるから、避けた方がいい。いささか無遠慮な話し方をしていたことから受けた最初の印象とは異なり、細かな配慮ができる女子高生なのかもしれない。
「一緒にいた人たちはどうしたのかな?」
 片方の女の子は、葉月の横に寄り添い立って訊いた。こちらも、『お姉さん』とか『従姉』とか『叔母さん』とか決めつけた言い方をして変に刺激しないようにという配慮が見てとれる。
 いっぱい涙を溜めた葉月の目に、正面に立って心配そうにこちらの様子を覗き込んでいる女子高生の姿が映った。
 少し間があって、目の前にいるのが誰なのか、ようやく葉月も気がついた。
 そして、エスカレーターに乗り合わせた二人に、サマードレスの下に身に着けている恥ずかしい下着を見られたことも思い出す。
 しかし今の葉月は、それを恥ずかしがることもなかった。
 それを恥ずかしいと感じることもできないほどに、心は乱れていた。
「ママが……」
 誰でもよかった。
 とにかく、誰かにすがりつきたかった。
 目の前の女子高生に、葉月は弱々しく涙ながらに訴えかけた。
「……ママがトイレへ行っちゃって、葉月、パパと一緒に本屋さんへ行って、本屋さんで女の子がママに本を読んでもらってて、それで葉月、ママに会いたくなって、ママによしよししてほしくなって、ママを探しにトイレへ行って、なのに、ママ、いなくて、探したんだけど、やっぱり、ママ、いなくて、葉月、どこへ行ったらいいのかわからなくなって、それで、それで、葉月……」
 たどたどしい幼児言葉で訴えかける葉月。
 しかしそれは、恥ずかしい下着の秘密を知られた相手に対して、その下着にふさわしい年齢の幼児を演じた方がいいと判断してのことではなかった。今の葉月には、そんな判断をくだすことも困難だ。
 葉月の幼児言葉は、依存心の表われだった。
 見知らぬ人々の中にひとりぼっちで取り残され、これから先どうすればいいのか何もわからず、自分自身を見失いかけている葉月は、誰かの手のぬくもりを求めていた。誰かが声をかけてくれて、誰かが肩を抱いてくれて、誰かが髪を撫でてくれて、誰かの体にしがみつきたくて、誰かの胸に顔を埋めたくて、とにかく、誰かの体温を求めていた。
 自分で何かを考えることを放棄し、自分で何かをすることを諦め、自分で何かを決めることから逃げ出して、誰かに全てを委ねたくてたまらなかった。
 そこへ現れた二人の女子高生。
 今の葉月にとって二人は、側にいない薫に代わる、新しい絶対的な庇護者だった。
 そんな二人に対する葉月の依存心の表れが、自然に口をついて出てくる幼児言葉だった。
「じゃ、お姉ちゃんたちと一緒にママを探そうか。あ、もちろん、パパもね」
 女子高生は大きく頷いてみせて、明るい声で言った。
 一緒にいた皐月と薫のことを葉月が『パパ』や『ママ』と呼んでいるとは思っもみない女子高生にしてみれば、葉月の言うパパとママが誰のことかさっぱりわからない。それでも、こういう場合は相手の言うことを先ず肯定するところから始めるのが肝要だ。懸命に訴える言葉を否定したり疑念を投げかけたりして相手が押し黙ってしまったら、そこで全ては潰えてしまう。
「でも、探すには、ママがどんなお洋服を着ていて、いつごろトイレへ行ったのかとか、いろいろ教えてもらわなきゃね。絵本やオモチャが置いてある所へ連れて行ってあげるから、そこで、お姉ちゃんたちにママのことを教えてくれるかな?」
 葉月の横に立った女子高生が、肩にそっと手を載せて優しく言った。

               *

「お嬢ちゃん、お姉さんにお名前、教えてくれるかな」
 二人が葉月を連れて行ったのは、三階にある迷子センターだった。
 若い女性職員は、自分とさほど背の高さがかわらないくせに舌足らずな幼児言葉で受け答えをする葉月の年齢を推し量りかねて少し戸惑いながら、それでも手慣れた様子で名前を聞き出そうとする。
「葉月、御崎葉月っていうの」
 初めて女性職員と顔を会わせた時は緊張の面持ちだった葉月だが、女子高生がぎゅっと手を握ってやると、それで安心したのか、少し元気を取り戻して、面映ゆそうにしながらも明るい声で答えた。
「御崎葉月ちゃんね、可愛いお名前だこと。それと、お年も教えてくれるかな。葉月ちゃんは、今、いくつかしら」
 職員は重ねて尋ねた。
「お年? あのね、葉月のお年はね……」
 葉月は元気よく答えようとしたが、途中で口ごもってしまう。
 けれど、それも無理はない。葉月の実際の年齢は十八歳だが、ひばり幼稚園に『通園』する際は特別年少クラスの三歳児ということになっている。心の在りようが極めて不安定な今、葉月は自分の年齢をどう答えていいのかわからない。
「あれ? 葉月、お年、葉月のお年……」
 元気を取り戻しかけていたのが一転、見るからにしょげ返った表情で、葉月は手の指を何本か立てたり折ったりするばかりだ。
「あ、わからないのなら無理しなくていいのよ。葉月ちゃんにはちょっと難しかったかな。じゃ、お年はいいから、パパのお名前を教えてちょうだい」
 職員はさりげなく質問を変えた。
「葉月、パパのお名前なら言える。パパはね、皐月。御崎皐月なの」
 葉月は再び明るく答えた。
 めまぐるしい表情の変化は、自分で感情をコントロールできない幼児そのままだ。
「じゃ、次はママね。ママのお名前はなんていうのかな?」
「ママはね、薫っていうの。みさき……あれ?」
 嬉しそうに薫の名前を答える葉月だったが、薫の名字が自分と同じ『御崎』ではないことを今更ながら思い出して途中で表情が曇り、言葉に詰まってしまう。
「……ママは薫だよ。でも、御崎薫じゃないんだよ。ママ、どうして、葉月やパパと同じ御崎じゃないんだろ? ね、お姉ちゃん、どうしてママの名字は御崎じゃないの……」
 考え考えそこまで言ってやはり言葉に詰まった葉月は、瞳を涙で潤ませて、寄り添い立っている女子高生の顔を見た。
「……ママ……ママ、葉月のママじゃないの? ……やだ、そんなの、やだ。ママがママじゃないなんて、やなんだから!」
 頬が涙に濡れて、葉月は激しくかぶりを振った。
 それを、目の前の女子高生が葉月の後頭部を両手で包み込むようにして抱き寄せ、葉月の顔に自分の胸元をそっと押し当てる。
「泣いていいよ。ママの胸じゃなくて私の胸だけど、泣いていいよ。葉月ちゃん、案内板の前で静かに泣いてたよね。他の人に遠慮してたの? 他の人に遠慮して、思いきり泣けなかったの? でも、いいんだよ。私の胸で思いきり泣いていいんだよ」
 女子高生は、片手を葉月の頭の後ろにまわして抱き寄せ、もう片方の手で葉月の背を撫でさすった。
 葉月の体がゆっくり崩れ落ち、その場で膝立ちになる。
 女子高生の目の前で膝立ちになった葉月は、両手を女子高生の背中にまわして、ぎゅっとしがみついた。
 しがみついて、胸元に顔を埋める。
 薫に比べれば薄い胸。しかし、それで充分だった。
 ふぇ、ぇえ、えぇーん、……う、ぅう、うわーん。
 最初は躊躇いがちだった葉月の泣き声が次第に大きくなり、遂には、手放しで大声をあげて泣きじゃくる。
「ご家庭に少しご事情がお有りのようですし、この様子ですと、これ以上のことは聞けないでしょうから、取り敢えず、お子様のお名前と服装だけ放送で伝えてみます。それで保護者の方がいらっしゃらなければ、もう少し詳しく尋ねるということでよろしいでしょうか?」
 女子高生の胸に顔を埋めて泣きじゃくる葉月の姿を少しばかり不憫そうな面持ちで眺めながら、職員は、もう片方の女子高生に確認を求めた。
「そうですね。それでお願いします」
 問われた女子高生が、一瞬だけ考えてから小さく頷く。
 女子高生の返答を聞いた職員が、受付ブースで様子を見守っているもう一人の職員にメモを渡した。
「それにしても、お二人とも、随分と手際がよろしいのですね。小さなお子さんのお世話をするための勉強とかお仕事とか、そういう経験がお有りなんですか?」
 ブースの同僚がメモの内容をまとめて館内放送を始めるまでの間に、職員が少し興味深げに尋ねた。
「あ、いえ、ちゃんと教えてもらったわけじゃないんです。ただ、私たち二人とも、将来は保育園か幼稚園の先生になりたくて、それで、高校でも家庭科部に入っていろいろ活動していて、活動の一環として、近くの保育園や幼稚園を訪問して子供たちと触れ合ったりして、それで少しずつ慣れてきて、あの、その程度のことなんです」
 女子高生は気恥ずかしそうに答えた。
「ご謙遜なさることはありません。お二人とも、立派な先生におなりですよ、きっと。――あ、用意ができたようですね」
 職員はそう言って、ブースの同僚に手で合図を送る。
『お客様に迷子のご案内をいたします。御崎葉月ちゃんとおっしゃるお子様を三階・迷子センターにてお預かりしています。御崎葉月ちゃんとおっしゃる、青色のサマードレスをお召しになった女の子です。保護者の方は、三階・迷子センターへお越しください。繰り返し、迷子のご案内を――』
 かろやかなチャイムの音と共に館内放送が始まった。




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