偽りの幼稚園児





               【三六】

「もう大丈夫よ。すぐにママとパパが迎えに来てくれるからね」
 館内放送を聞きながら、一方の女子高生が葉月の背中を優しくとんとんと叩いた。
(モールに来てすぐにこの子を見た時、すっごく可愛い子だなって見取れちゃったけど、こんなふうにして間近で見ると、本当に美少女だわ。背が高いからちゃんとした年齢はわかりにくいけど、お肌なんてすべすべのもっちもちだし、甘えん坊さんみたいだし、ドレスの下に着けている『下着』も考え合わせると、やっぱり、まだ小っちゃな子かな。あーあ、こんなお肌になれるんだったら、小いさな子供の頃に戻るのもわるくないかな。それにしても、こんなに甘えられると、お持ち帰りしたくなっちゃうな。えへへ、ロリコンさんの気持ちがわかっちゃいそうで怖いかも)
 葉月をあやしながら、女子高生はくすぐったい気持ちに浸っていた。自分の胸に顔を埋めているその女の子が実は自分よりも年上の男子大学生だとはまるで思ってもみずに。
 一方、もう一人の女子高生は、受付ブースから借りてきた児童書を広げ、よく通る声で読み聞かせを始めた。
「むかしむかしのことでした。やまのなかのちいさなむらで、おじいさんとおばあさんがなかよくくらしていました。うさぎときつねもいっしょに――」
 優しい声に、葉月の泣き方がおとなしくなってくる。
(母さんには本を読んでもらえなかったけど、かわりに、姉さんが読んでくれてたっけ)
(ご飯をつくるのも、お風呂を沸かすのも、布団を敷くのも、みんな姉さんがしてくれて)
 二人の絶対的な庇護者に触れて僅かながら心の平静を取り戻した葉月の脳裏を、ぼんやりと思い出がよぎる。
(でも、姉さんは誰に本を読んでもらってたんだろう)
(姉さんだったら、みんな自分でしたのかな)
(自分でご飯をつくって、自分でお風呂を沸かして、自分で布団を敷いて)
(やっぱり強いや、姉さんは。やっぱり優しいや、姉さんは)
 懐かしい記憶にたゆたう葉月だったが、それも長くは続かない。
(姉さん? 姉さんって……誰だっけ?)
 精神的な強共鳴の相手である薫と離れているせいで、すぐに心が乱れてしまう。
(優しいのは……パパだ。強いのは…パパだ)
(優しいのは、パパだもん。強いのも、葉月のパパだもん。姉さんとかじゃないもん)
(それに、ママだってすごく優しいんだもん。背中をとんとんしてくれるお姉ちゃんも、ご本を読んでくれるお姉ちゃんも優しいけど、ママはもっと優しいんだもん)
(葉月のママ、もっともっと、優しいもん)
(だから、羨ましくなんてないんだ。本屋さんで会った美鈴ちゃんなんて、ちっとも羨ましくないもん)
(だって、ママも葉月にご本、読んでくれるんだから)
(葉月がいい子にしてたら、優しくご本を読んでくれるに決まってるんだから)
(でも、どうして、ママ、そばにいないの?)
(行かなきゃ。ママの所へ行かなきゃ)
(ママのそばに行って、ご本を読んでもらわなきゃ)
(頭を撫でてもらいながら、ご本を読んでもらわなきゃ)
 女子高生の背中にまわしていた手をおずおずと離し、葉月は膝立ちの姿勢から立ち上がろうとした。
 けれど、その動きがぴたりと止まった。
「や、やだ……」
 弱々しく呻きながら、両脚を後ろに曲げてお尻を床にぺたんとついた姿勢でしゃがみ込んでしまう。
「どうしたの、葉月ちゃん?」
 葉月の急変に、正面の女子高生が慌てて膝をかがめて心配そうに声をかける。
 だが葉月は、せっかく泣き止んだ瞳から再び大粒の涙を溢れ出させ、無言で女子高生の顔を見上げて腰を震わせるだけだ。
「あ、ひょっとしたら――」
 読み聞かせをしていた女子高生が、本を小脇に抱え、いわゆる「とんび座り」とか「女の子座り」とかの姿勢で床にしゃがみ込んでいるせいで丸見えになっているおむつカバーの股ぐりに指を差し入れた。
「――やっぱり、思った通りだ」
 しばらくおむつの様子を探ってから、女子高生はおむつカバーから指を抜いて、もう一方の女子高生に向かって小さく首を振ってみせた。

 そこへ、ピピピという電子音が聞こえてくる。
 女子高生や職員が音のする方に目をやると、スマホを持って急ぎ足でこちらに向かってくる薫の姿があった。
 少し遅れて、葉月も薫に気がつく。
「ママ、ママ!」
 おもらしの最中で立ち上がることができない葉月は、大声で薫を呼びながら、薫に向かって両手を大きく広げた。

「あの人が……ママ?」
 それまで葉月の正面にいた女子高生が、場所を薫に譲り、もう片方の女子高生と共に少し離れた場所に移って、訝しげに呟いた。
「そうね、下のお姉さんか従姉だと思っていた人が、ママだなんてね」
 床にしゃがみ込んだまま両手を伸ばして薫にしがみつく葉月の様子をじっと見つめて、片方の女子高生も、怪訝な顔で言った。
「じゃ、あの人がパパ? でも、どう見ても女の人でしょ?」
 抱き合う薫と葉月のすぐ側で女性職員と話し込む皐月の姿を目で示して、一方の女子高生が、さも不思議そうな口調で片方の女子高生に同意を求めた。
「宝塚っぽいけど、女の人だよね、確かに。もう、わけわかんないや」
 戸惑いがちに頷く片方の女子高生も、困惑しきりだ。

 それから少し時間が経って、葉月たちの様子を不思議そうな顔で眺めながら囁き交わす二人組のもとに皐月が歩み寄り、何やら話し始めた。
 最初は緊張の面持ちだった二人の表情もいつしか穏やかになり、やがて時おり笑い声を交えて皐月と話すようになって、それから十分間ほども経ってから、皐月は元の場所に戻ってきた。
「どうだったの、あの子たちの様子は?」
 迷子センターの職員に声が届かないよう、戻ってきた皐月の耳元に口を寄せて、小さな声で薫が言った。
「どうもこうも、不思議そうにしていたよ。でも、そりゃそうだよね。背の高さから考えたら、葉月のこと、普通なら小学生くらいだと思うよね。なのに葉月は、二十歳そこそこの女の人を『ママ』だなんて呼ぶもんだから、二人の年齢がまるでわからなくなっちゃって。その上、そこに、女性の『パパ』が現れるんだから、ますますわけがわからなくなるのが当り前だよ」
 皐月は、さもおかしそうにくすくす笑いながら囁き返した。
「それで、ちゃんと説明してあげたの?」
 薫はやや不安げに尋ねた。
「一応は説明してきたよ。でも、本当のことを言っても余計に混乱するだけだと思って、そこは適当に言っておいたんだ。だって、厚生労働省がどうとか、園長先生の過去がどうとか、プロジェクトがどうとか、いくら時間があっても説明しきれるものじゃないし、簡単には信じられないところもあって、本当のことを説明するなんて、無理な話なんだから」
「でも、あの子たちは納得したの?」
「なんとなく納得したんじゃないのかな。あの年代の子たちって、自分好みの話を適当に創作しがちだし、話の整合性なんて無視しちゃうことも多いから、今どきの話題を織り交ぜてちょっと悲劇ふうの説明をしてあげれば、勝手に納得してくれるよ」
 皐月はそこまで言って、もういちどくすっと笑ってから続けた。
「BLとか百合とかも多感な年頃の女の子に受けそうだから、たとえば、『世間の冷たい目から逃れて二人きりの生活を始めた百合カップル。最初は二人でいることだけで満足していたものの、やがて、二人の愛の結晶を求めるようになる。しかし、女性どうしのカップルに赤ちゃんができるわけがない。それでも諦めきれない二人は、多くの施設を訪れ、養子にできるような子供を探し求める。だが、百合のカップルに養子を提供する施設など見当たらない。苦難を乗り越えて二人が探し当てたのは、親の身勝手で捨てられた子供たちを引き取って育てる特殊な施設。そこにいたのは、生まれながらのホルモン異常のため、実際の年齢よりも異様に成長が早く、周囲から不気味がられて親にも疎んじられる不憫な女の子だった。百合カップルの二人は、周りから白眼視されてきた自分たちとその子の境遇を重ね合わせ、自分たちのもとに引き取る決意をする。そして三人は、身を寄せ合って一緒に暮らし始めるのだった』くらいのストーリーを勝手に作って、適当に納得してるんじゃないかな」
 皐月の説明を聞いた薫は、
「やだ、なに、その下手な三文小説は。よくもまぁ、そんな荒唐無稽なことを思いつくわね」
と、こちらも同じようにくすくす笑って応じるのだが、
「本当に、信じられないくらい下手な三文小説なんだから」
と繰り返し言いつつも、なぜか、泣き笑いの表情になっていた。
「全くだ。リアリティのかけらもない、妄想じみた、どうししようもない設定だね。我ながら呆れちゃうよ」
 皐月はおどけてみせた。だが、その顔は、薫と同じように泣き笑いの表情だ。

               *

 結局、カフェへ行くのは諦め、車のキーを受け取りがてら三人は鈴本服飾商店に戻り、そこのベッドで葉月のおむつを取り替えて帰路につくことになった。
 葉月がおむつを取り替えられている間、その場に立ち会った真由美は相変わらず葉月に冷笑を浴びせたが、帰路につく三人の後ろ姿を見送る真由美の顔は、温かく穏やかだった。
 実は、そちらこそが本当の真由美だった。葉月に対して冷笑を浴びせたり、侮蔑してみせたりしたのは、そうすることで葉月が他人との接触を怖れるようになり、その結果としてますます皐月と薫に依存するように仕向けるための演技だった。もちろん、予め皐月や薫としめし合わせておいた上でのことだ。
 更に言うなら、書店から駆け出す葉月を皐月が敢えて追わなかったのも、それと同様、見知らぬ他人しかいない中で自分の無力さを思い知らせ、皐月と薫に対して葉月が心の底から依存するよう仕向けるためだった。
 そのようにして知らず知らずのうちに二人に対する限りない依存心を胸の内に抱くようになった葉月は、一時も母親から離れまいとする甘えん坊の幼女そのまま、薫にべったりしがみつくようにして鈴本服飾商店の事務所をあとにするのだった。

 さて、ここで、物語の本筋からは少し離れるのだが、鈴本真由美という人物をもう少し知ってもらうために、ちょっとしたエピソードを書き足しておこうと思う――。

 葉月たちが鈴本服飾商店の事務所を訪れた日の夜。
 真由美が住んでいる豪奢なマンションの寝室に、激しい愛の営みを終えて気怠い余韻にひたっている二人の姿があった。
 一人は、真由美。
 そして、真由美に腕枕をしてもらって真由美の横顔を潤んだ目で見つめているのは、葉月たちを事務所に招き入れた事務員だ。
 その事務員が女性なのは、ご存じの通り。
 そう、真由美と事務員は女性同士のカップルだった。




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