偽りの幼稚園児





               【三七】

 同性しか愛せない自分を真由美が明確に意識したのは、高校生の時だった。
 そのことに両親も薄々は気づいていたのだが、両親は二人ともどちらかというとそういうことには理解のある方で、幸いなことに、それが原因で大きなトラブルになることもなかった。それどころか、むしろ両親は真由美の将来のことを見越して、鈴本服飾商店の後継者として真由美を早々に指名することさえしてくれた。真由美が普通の娘なら、有能な男性を真由美の婿養子として迎え入れ、その男性に鈴本服飾商店の将来を託すこともできるのだが、真由美が同性しか愛せない人であることを知り認めた両親は、婿養子を迎え入れるという選択肢を早くに捨て去り、真由美がこの先一人でも生きてゆけると同時に鈴本服飾商店をますます発展させる方策として、真由美に家業を託すことにしたのだ。真由美に商店を託した後は自分たちは経営のことには一切の口出しをしないから好きにやってみなさいという言葉と共に。
 早々と鈴本服飾商店の後継者として指名された真由美が勉学にいそしみ、経営学とデザインを同時に身に付けた上で、ショッピングモールへの移転と同時に店主の座についたのは前述の通りだが、店主の座につく前から事業承継の準備として真由美は積極的に経営に参画し、その中で、いわゆるジェンダーレスな考え方を組織内に浸透ざせることに力を注いだ。ただし、真由美がそのような方向に組織の意識を変革させようと尽力したのは、同性しか愛せない我が身可愛さによる私欲のためなどでは決してなく、特にアパレルビジネスにおいては、ジェンダーフリーな概念をベースにおいた発想の方が旧来の概念に基づく発想と比べて、より自由で大胆かつ精緻なデザインやコンセプトを産み出しやすいことを経験的に知っており、そのメリットを経営面に最大限に活用するためだった。実際、そういった方針のもと真由美が店主として手腕を発揮し着々と業績を伸ばすところを目の当たりにしては、真由美の少しばかり強引なやり方に対していささか快く思っていなかった古参社員も考え方を改めざるを得なかった。
 そんな経緯があって、現在の鈴本服飾商店は、いささか古めかしい体質の洋服店から、自由で開放的な社風の総合衣料店へと変革を遂げていた。
 それも、同性どうしの社内恋愛さえ白眼視されないほどに自由で開放的な社風へと。
 そのような社風のおかげで、オーナー店主である真由美と、この春に入社したばかりの女性事務員・上野香奈との間柄も、いつしか、社内で知らぬ者がない公然の仲になっていた。

「可愛かったね、昼間の葉月っていう子」
 香奈が甘ったるい声で言った。
「そうね、可愛かったね。だけど葉月ちゃんは男の子。香奈は、男の子が嫌いじゃなかったっけ?」
 真由美がゆっくり首を巡らせ、香奈の目を見て言った。
「もちろん、大っ嫌いよ。だから、こうしてオーナーの恋人になってるんだし。でも、あの子ならいいの。葉月ちゃんみたいな可愛い子なら」
「へーえ、可愛かったら男の子でもいいんだ? 随分と勝手だこと」
 真由美はからかうように言う。
「もう、オーナーってば意地悪なんだから。でも、いいわ、勝手でも。そうよ、葉月ちゃんみたいな子なら男の子でもいいの。ううん、あんな子だったら、むしろ、男の子の方がいいくらい」
 香奈は真由美の目を覗き返して言った。
「男の子の方が、いい?」
「だって、そうでしょ? 野蛮で汚くて繊細さのかけらもない男たちの中にもこんな子がいるんだと思わせてくれるような、葉月ちゃんみたいな子が身近にいたら、男たちに失望しなくていいと思わない? 葉月ちゃんみたいな男の子を愛でて暮らすことができたら、どうしようもない男という存在に、一縷の希望を見いだせると思わない? それで私が男を愛せるようになるとは思わないわよ。でも、男っていうものに対して失望や憎しみや無関心しか抱けないのは寂しいじゃない? 愛せないなら愛せないなりに、喧嘩腰じゃなく、穏やかに嫌っていたいもの」
 香奈は甘ったるく、けれど、十八歳の若さとは思えない大人びた口調で言った。
「ま、香奈ちゃんの言うこともわからないでもないけどね」
 真由美は心の底まで見透かさんばかりに改めて香奈の目を覗き込みながら、考え考え言った。
 と、唐突に、香奈がにまっと笑って、こんなことを言う。
「ね、私も、葉月ちゃんみたいな子が欲しい。オーナーと私の愛の結晶として、葉月ちゃんみたいな可愛い男の子の赤ちゃんが欲しい」
「急に何を言い出すのよ、香奈ってば。いいわ、じゃ、もういちど子作りに励みましょ。私と香奈の子供を作るために、さっきよりもっともっと激しく愛し合いましょ」
 香奈の胸の内を察しつつ、真由美はおどけて言った。
「もう、オーナーったら、すぐに何でも口実にしていやらしいことしようとするんだから。いくら頑張っても女どうしじゃ赤ちゃんなんてできるわけないでしょ。わかってるわよ、私だって、そんなこと。でも、わかってても、どうしても欲しくて愚痴っちゃっただけ。それを口実に使うなんて、そんな、デリカシーのない男みたいなオーナー、私の恋人、失格」
 香奈はわざと明るく、冗談めかして言った。
「あら、勘違いしないでちょうだいよ。いくら頑張っても私たちの間に赤ちゃんが授からないことはわかってる。だから、これは、なんていうか、儀式みたいなものよ。激しく愛し合って、やっぱり二人の赤ちゃんが欲しいっていう願いを成就させるための儀式」
 香奈とは正反対に、真剣な顔で応じる真由美。
「儀式……?」
 これ以上はないくらいの真由美の真剣な面持ちにいささか気圧されて、香奈は聞き返した。
「香奈も知っての通り、私は明日、ひばり幼稚園に出向くことになっている。香奈もそろそろ得意先に顔を知ってもらわなきゃいけない頃だし、ひばり幼稚園に同行なさい。そこで、香奈の、ううん、私たち二人の願いをかなえてくれるかも知れない人に会わせてあげる。その人がもしも願いをかなえてくれて私たちに葉月ちゃんみたいな赤ちゃんを授かることができたら、それは、ついさっき激しく愛し合った、そして、これからもっと激しく愛し合う結果として授かった子だと思えばいい。わかる? 今日を記念すべき受胎の日にするために愛し合うのよ、私たちは」
 真由美はゆっくり香奈の体に覆いかぶさった。
「――いいわ、来て。これまで経験したことのないくらい激しく愛し合いましょう」
 瞬時に真由美の真意を察した香奈は、真由美の首に腕を絡めてぎゅっと抱き寄せた。
 いやでも責める側と受ける側が決まってしまう男女のまぐわいとはまるで異なる、互いに与え合い互いに与えられ合う、いつまでも果てることのない、ねっとりと絡みつくような甘い時間が始まろうとしていた。

               *

「あら、これは何かしら? 明細書に載ってない物ばかり入ってるんだけど、パパ、ちょっと見てもらえる?」
 一方こちらは、時間を少し遡って、昼前の皐月の自宅マンション。
 鈴本服飾商店から持ち帰った数多くの品物を納品明細書と照らし合わせながら片付けていた皐月と薫だが、最後に残った大きな紙箱を空けた薫が、箱の中を見るなり怪訝そうな声をあげ、皐月に向かって手招きをした。
「確かに、ママの言う通りだね。事務所で明細書を確認した時も、こんなのは書いてなかった筈だよ」
 不要になった箱や袋を処分し終えてから、薫に代わって紙箱を覗き込んだ皐月は、少し考えて箱の中を探った。
 と、一通の封筒が箱の底にテープで貼り付けてあることに気がつく。
 不思議そうな顔で封筒を開け、中に入っていた手紙を読んだ皐月は、
「ああ、こういうことか。さすが真由美さん、ちょっとしたサプライズってわけだね」
と面白そうに言って、便箋を薫に手渡した。
「サプライズ? どんなサプライズなのかしら」
 わくわくした顔つきで手紙を読み始めた薫だったが、最後まで読み終えないうちに瞳が涙に潤み、手紙を持つ手がぷるぷる震え出す。
「ずるい。ずるいよ、真由美さんは。こ、こんなサプライズを仕掛けられたら嬉しくて泣いちゃうに決まってる。なのに、なのに、真由美さんたら……」
 読みかけの手紙をひしと胸に抱きしめて、薫は言葉を詰まらせた。
 そこへ、ベッドに腰かけて二人が荷物の整理を終えるのを待っていた葉月がおずおずとやって来て
「どうしたの、ママ。何が悲しいの?」
と心配そうに声をかける。
「ううん、そうじゃないの。ママはね、ママは、嬉しくて泣いているのよ」
 薫は人差指の甲で涙を拭い、穏やかな声で答えた。
「嬉しい? 何が嬉しいの、ママ?」
 きょとんとした顔で葉月が訊き返す。
「この箱の中に、ママを葉月の本当のママにしてくれる物が入っているのよ。それが嬉しくて泣いちゃったの。いいわ、葉月にもわかるように一つずつ実際に使いながら説明してあげる」
 まだ瞳は涙で潤んでいるものの、すがすがしい笑顔になって薫は言った。
 箱に入っていたのは、かりそめの母娘の空白の年月を埋めるための装いだった。
 紗江子から指示された家族ごっこによって、葉月は薫の幼い娘に、薫は葉月の母親になりきることを求められた。だが、その家族ごっこが始まった時点で葉月は幼稚園に通う直前の少女ということになっている。つまり、かりそめの母と娘には、新生児の頃から乳児の時期を経て徐々に成長して入園の日を迎えるまでの、本当の親子なら生涯で最も思い出深い筈の時間が欠落していることになる。いくら家族ごっことはいえ、それではあまりに寂しいだろうと考えた真由美は、どうせの家族ごっこなら、葉月に新生児ごっこ、乳児ごっこ、よちよち歩き歩き始めごっこ、遊び盛りごっこをさせることで、偽りでもいいから、きらきら輝く思い出の時間を三人にプレゼントすることを思い立ち、それに必要な様々な衣装を用意したのだった。

「最初はこれよ。今から葉月にこれを着せてあげるから、おとなしくしていてね」
 そう言って薫が箱から取り出したのは、生まれたばかりの赤ん坊に着せる、新生児用の肌着だった。
 赤ん坊の柔らかな肌を傷つけないようボタン類は一つも使わず、柔らかな紐で胸元と腹まわりを留めるようになっている短肌着だが、サイズは葉月の体に合わせた仕立てになっている。
 これまでの経緯に加えショッピングモールでの出来事もあって今やすっかり薫に精神的に依存しきっている葉月は、恥ずかしそうにしながらも、少しお姉ちゃんが着るサンドレスから、生まれたばかりの赤ん坊の装いである新生児用短肌着に、まるで抵抗しないまま着替えさせられてしまった。
 そんな葉月を皐月が抱き上げてベッドに寝かせ、しばらく待っている間に、薫が、箱から取り出したパジャマに着替えた。ただのパジャマではない、お産の前にも後にも着られるようお腹まわりがゆったりした、前開きでロング丈のネグリジェタイプのマタニティパジャマだ。
「葉月も知っていると思うけど、生まれたばかりの赤ちゃんはまだ名前がついていないから、他の赤ちゃんと取り違えられないよう、お母さんの名前を書いたバンドを手首と足首に付けるのよ。それが、このネームバンド。ここにママの名前を書いて、葉月の手と足に付けてあげる」
 マタニティパジャマに着替えた薫はベッドのすぐ側に立ち、手に持ったネームバンドを葉月に見せた。
 ネームバンドの色は、女の子であることを示すピンクだ。
「これを付けた時、葉月はママの本当の赤ちゃんになるの。それも、生まれたばかりで、自分じゃ何もできない赤ちゃんに。いいわね?」
 うっとりした目つきで、薫は言った。
 そのネームバンドを付けられた瞬間、葉月は、精神的な虜であるにとどまらず、誰の目にも疑いようのない薫の虜になってしまう。自分でもそれを充分に承知していながら、まるで躊躇うふうもなく葉月はこくりと頷いて、
「ママのお名前、葉月と同じ名字にしてね。田坂薫じゃなくて御崎薫って書いてね、ママ。絶対に、御崎じゃなきゃやだよ」
と、甘えるような口調で薫に訴えかけた。
 葉月の言葉に、薫の目から再び涙が溢れ出す。
 薫は、頬を涙で濡らしながら皐月の顔を見上げた。
 皐月は大きく頷いた。




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