偽りの幼稚園児





               【三八】

「うん、わかった。じゃ、ママの名前は御崎薫ね。――ほら、これでいい?」
 サインペンで自分の名前を書いたネームバンドを葉月に見せて、薫は優しく微笑んだ。
 ピンクのネームバンドには確かに『御崎薫ベビー』という文字が赤のサインペンで記してある。
 葉月は少し照れくさそうにしながら、こくんと頷いた。
 薫が葉月の手首と足首にネームバンドを巻き付ける。
「これで、葉月はママの赤ちゃん、ママは葉月の本当のママ。いいわね?」
 葉月の手首に付けたネームバンドの文字を指先でなぞって薫は言った。
「それじゃ、まずは葉月だけの写真を撮っておこうか」
 部屋のベッドを産院のベッドに見立てて皐月がスマホを構える。
「本当は生まれたての赤ちゃんがツインテールなんて変だけど、この方が可愛いから、いいってことにしておきましょう。その分、うんと可愛らしく撮ってあげてね、パパ」
 皐月が構えるスマホの画面を横から覗き込む薫は、いかにも幸せそうだ。
 スマホの画面には、短肌着の裾からおむつカバーを半分ほどあらわにして手首のネームバンドをじっと見つめる葉月の姿が映っていた。

「ちょうどお昼も近いし、次は、おっぱいを飲む写真も撮っておきたいわね。まだ初乳だから、記念になるし」
 葉月だけの写真を二十枚ほど撮った後、ベッドの端に腰をおろして薫が言い、それまでベッドに寝ていた葉月を横抱きにした。
「しょにゅう……?」
 聞き慣れない言葉に、葉月がぽつりと聞き返す。
「そうよ、しょにゅう。初めてのお乳って書くの。赤ちゃんが生まれてから何日かの間のママのおっぱいのこと。初乳には、赤ちゃんが病気にかかりにくくする大切な成分が含まれているのよ。葉月がママのおっぱいを初めて飲んだのは昨日だから、今日で二日目。だから、まだ初乳なのよ。さ、せっかくの新しい肌着を汚さないようにこれを着けて、お昼のおっぱいにしましょうね」
 薫は簡単に説明してから、予め紙箱から取り出してパジャマのポケットに入れておいたよだれかけを広げ、葉月の首に巻き付けた。
 細かなフリルで縁取りされた淡いピンクのよだれかけには、おそらく真由美の手によるものだろう、『みさきはづき』という刺繍が施してあった。
「おっぱいが張ってきたから、たくさん飲んでちょうだいね」
 薫はパジャマの胸をはだけ、授乳用ブラのカップを開けて、葉月の唇に乳首を押し当てた。
 寝ている時は半分ほど隠れていたおむつカバーが、肌着がたくれ上がって丸見えになってしまっている。けれど葉月は、そんなことを気にする様子もなく、薫のぴんと勃った乳首にむしゃぶりついた。
 葉月が薫の母乳をむさぼり飲む姿を様々な角度からスマホで撮影していた皐月だが、ふと葉月の表情が変化したことに気づいた。
 皐月がじっと見守る中、それまで盛んに薫の乳首を吸っていた葉月の唇の動きがゆるやかになり、なんだか助けを求めるかのような表情で、上目遣いに薫の顔を見上げている。
「どうしたの? まだお腹いっぱいじゃないでしょ? 朝のおっぱいはもっとたくさん飲んでいたのに」
 薫は、横抱きにした葉月の背中をとんとんと優しく叩いて言った。
 それに対して葉月は、おずおずと薫の乳首から口を離して、何か言いたそうに僅かに口を開けた。
 と、口の中に残っていた母乳が開いた唇の端から溢れ出て顎先まで伝い流れ、白い雫になって滴り落ち、葉月の胸元を覆っているよだれかけに吸い取られて、うっすらと滲みをつくる。
「よかったわね、よだれかけを着けておいて。朝のおっぱいの時は明日から幼稚園のちょっぴりお姉さんだったけど、今は生まれたての赤ちゃんだから、上手におっぱいが飲めないのかな?」
 薫は、葉月の頬を人差指の先でつんとつついてあやすように言った。
「お、おしっこ……」
 口から母乳がこぼれるのを気にするゆとりもなさそうに、葉月は弱々しく訴えかけた。
「出ちゃったの? それとも、出ちゃいそう?」
 薫が短く訊き返す。
「出ちゃいそうなの。だから、トイレ……」
「赤ちゃんはおしっこをどうするんだっけ?」
 葉月の言葉を遮って薫は言い、丸く膨らんだおむつカバーをぽんぽんと掌で叩いた。
「で、でも……」
「高校生のお姉さんの目の前でおしっこをしちゃったのは誰だったかしら。あの時のことを思い出しながら、ほら」
 薫は葉月の唇に乳房を押し当てて口をつぐませ、ねっとり絡みつくような声で耳打ちした。
「ほら、出しちゃっていいのよ」
「……おむつに?」
「そうよ。葉月は赤ちゃんだもの」
 薫はおむつカバー越しに、ペニスの先端があるあたりに見当をつけて葉月のお尻をぽんと叩いた。
 葉月の下腹部がびくんと震える。
「ぁ、んん……」
 呻き声にも泣き声にも聞こえる弱々しい声が葉月の口から漏れた。
 じとっと湿っぽくなったおむつが、ゆっくり時間をかけてじくじく濡れてゆく。
 布製の大きなバッグのポケットに入れたままになっているスマホから電子音が聞こえるけれど、誰も気にかけない。
「これで葉月はママの本当の赤ちゃんよ。ママのおっぱいを飲みながら、ママに抱っこしてもらって、ママがあててあげたおむつをおもらしで濡らしちゃう、ママの赤ちゃん。幼稚園に行く時はちょっぴりお姉ちゃんにしてあげるけど、その他の時はずっといつまでもママの赤ちゃん。いいわよね、それで」
 頭の中に直接滲み入ってくるような薫の囁き声を聞きながら、葉月は、ペニスタックのせいでおしっこを一気に流れ出させることができず、時間をかけてじわじわおむつを濡らし続ける。
 最初はお尻のあたりだけだったじっとり濡れた感触が次第におむつの中いっぱいに広がってゆく。
「出しちゃいなさい。おっぱいを飲みながら、たっぷり時間をかけて出しちゃいなさい。おっぱいを飲み終わったら取り替えてあげるから、ゆっくり気が済むまでおむつを濡らしていいのよ。おしっこで濡れたおむつの感触を存分に楽しむといいわ」
 薫は尚も、甘い声で囁きかける。
 葉月の顔に、うっとりした表情が浮かぶ。
 おねしょではなく意識がある状態のおもらしでおむつを汚してしまったのは、ショッピングモールでの粗相が初めてのことだった。女子高生や迷子センターの職員の目の前でおむつを汚す行為に、葉月は羞恥に身を焼かれるような思いだったが、それと同時に、なんとも表現しようのない愉悦を覚えていたのも事実だ。なんだか、もう我慢しなくていいんだ、なにもかも解放してしまっていいんだという心地よい安堵や、それまで胸の中に抱えてきた一切のものを流し去ってしまう開放感が、おしっこの温かさとない混ぜになって、葉月をぞくぞくさせた。
 そして今は、薫の乳房に顔を埋め、薫に横抱きにされての恥ずかしい粗相だ。実の母親に甘えられずに幼い頃を過ごした葉月にとって、誰の赤ん坊なのかを示すネームバンドに記された女性に抱かれておむつを汚す時間は、羞恥だけでなく、寂しかった幼少期の記憶を豊かな新しい思い出に書き換えてくれる、喜びに満ちた時間でもあった。昨日までの葉月なら、薫の乳房に顔を埋めてペニスをいやらしく蠢かせていただろう。しかし、今の葉月にとってペニスは、おしっこを出すための器官にすぎない。射精の快楽よりも、薫との繋がりを強めてくれ、新しい思い出をつくってくれるおしっこをおむつに溢れ出させる方が、今の葉月にとっては、ずっとずっと気持ちを昂ぶらせてくれる行為になっていた。
「葉月、ちっちなの。葉月、ママのおっぱい飲みながら、おむつにちっちなの」
 唇の端から伝い落ちる母乳で白い滲みをよだれかけに幾つもつくりながら、葉月はおむつを濡らし続けた。

               *

 昼ご飯代わりの授乳を終えておむつを取り替えてもらった葉月が次に着せられたのは、産院から退院する時をイメージした、セレモニー用の純白のベビードレスだった。
 ふわりとした華やかな花柄レースを胸元いっぱいにあしらい、生地を何層にも縫い付けてパニエなしでもボリュームたっぷりにふんわり広がるスカートの、全体的に丸っこいラインのドレスと、透け感のあるレースで縁取りして首の下でひもを結ぶようになっている、お揃いの帽子。
 ドレスと帽子を着せられて清楚で愛くるしい生まれてまもない赤ん坊そのままの姿にされた葉月はベッドの上で、仰向きに寝かされ、あるいはうつ伏せに寝かされて様々な姿勢で写真を撮られた後、マタニティパジャマから元のブラウス姿に戻ってベッドの縁に座った薫に横抱きにされ、改めて何枚もの写真を撮られた。
 その間、薫は何やら盛んに葉月に小さな声で話しかけていたのだが、その顔は、スマホの画面を通しても、眩しいくらいに輝いていた。

 その後、セレモニードレスの次に葉月が着せられたのは、ツーウェイオールだった。
 生後すぐから月齢三ヶ月くらいまでの赤ん坊はまだ足をさほど動かすわけではないから、(男女を問わず)おむつの交換が容易なように、裾がスカート状になったドレスオールを肌着の上に着せることが多いのだが、三ヶ月を過ぎた頃から赤ん坊は次第に足をばたつかせるようになるから、裾がたくれ上がってしまうの防ぐために、裾がズボン条になっている衣類を着せることが多くなる。ツーウェイオールというのは、スナップボタンの留め方で裾をスカート状にもズボン状にも変えることができるようになっている、比較的月齢の低い赤ん坊用の衣類だ。
 薫は先ず、ツーウェイオールの裾をスカート状のドレスオールにして葉月に着せた。
 本当の赤ん坊だとドレスオールを着る月齢というのは、殆ど手足を動かさず、動かすにしても自分の意思でばたつかせるわけではないし、まだ寝返りもうてないから、おとなしく寝そべっているか、時おり何かにぐずって泣くかしかできないといった状態だ。
 薫は葉月をベッドに仰向けに寝かせ、そのすぐ横に添い寝をして、ブラウスの胸元をはだけた。
「んぁあ……」
 ドレスオールを着せられる時に、それを着るような月齢の赤ん坊は自分では何もできないからそのつもりでねと強く言い渡されていた葉月は、あらわになった授乳用ブラを横目で見ながら、切なそうな声を出すことしかできない。
 薫の母乳と特殊なミルクで栄養は足りるものの、満腹感を得るのは難しい。短肌着とよだれかけ姿での授乳から殆ど時間が経っていないにもかかわらず葉月が更に母乳を求めたとしても、無理はない。しかし、低月齢の赤ん坊を真似ることを強要されているため、薫の乳房に手を伸ばすことも、言葉で懇願することもかなわない。葉月にできるのは、意味をなさない声で力なく訴えかけることだけだ。
「生まれてすぐの赤ちゃんには三時間おきくらいにおっぱいをあげなきゃいけないんだったわね。でも、お昼のおっぱいからそんなに時間は経ってないのに……ま、葉月は普通の赤ちゃんに比べて体が大きいから、すぐにお腹が空いちゃうのかな」
 わざと葉月に聞こえるように呟いて、薫は授乳用ブラのカップを指先でいじった。
「んん……」
 はやる気持ちが声になって葉月の口をついて出る。
「よしよし、いい子だから、もう少しだけ待っててね」
 薫は、セレモニードレスに着替えさせる時にいったん外してベッドの枕元に置いておいたよだれかけで再び葉月の胸元を覆ってから、右側のカップを開けて乳首をさらけ出し、右手で腕枕をするような姿勢になって葉月の顔を抱き寄せた。
 最初はおずおずと乳首を口にふくんだ葉月だったが、母乳の味を舌先に感じた途端、夢中になって薫の体にしがみつこうとする。
「駄目よ、ドレスオールがお似合いの月齢の赤ちゃんは、そんなに元気よく手を動かせないんだから」
 薫は葉月の手をやんわりと押し返した。
 すると、手の代わりに葉月は顔を更に薫の胸元に押しつける。
 薫と葉月のそんな様子を、ベッドのすぐ側に立って皐月が撮影し続ける。
 薫はスマホのレンズに向かって悪戯っぽく微笑みかけてから、左手をそっと伸ばし、コンビドレスのスナップボタンを幾つか外した。
 けれど、おっぱいに夢中の葉月が気づくことはない。
 薫は、葉月の足首のあたりまで覆い隠しているドレスオールの裾を静かにはだけた。
 おむつカバーが丸見えになっても、葉月は無心に薫の乳首を吸い続ける。
 この場面も、皐月が撮影を続ける『思い出のアルバム』の一齣としていつまでも残り続けることになるに違いない。




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